【防府の歴史ーあれこれ(私考雑学)】 
        「内容は、個人的な解釈です。歴史初心者の戯言として見てやって下さい。」     
〈池田 成臣〉  

 魏志倭人伝に「投馬国(五万余戸:邪馬台国は七万余戸)」の推定地の一つに、防府市説(周防娑婆郡玉祖郷)があります、
どのような資料に基づいた説か気になり調べました。

推定地‐1説:日本書紀に景行天皇が熊襲征伐に、周防国の玉祖神社で戦勝祈願をして、沙麼(しゃば:佐波)の津から筑紫に渡り、豊前国京都郡に
(私考想定)  行宮(かりみや)を設けた。(古事記には記載なし)また、遣新羅使も同じルートを使用(下図左)
        当時の九州は熊襲の勢力範囲で、周防国娑婆県(さば の あがた:防府)は、大和(奈良)の最前線の重要な位置で在ると想定して、
       ここに 「投馬国」が在ったと解釈した説では、ないかと思います。
 
              
 
上図右は、防府平野の成り立ちです。約3万年前に旧津和野川流域で火山噴火により河川争奪が起こり、地形が変わり徳佐地域は大きな湖
となり、旧津和野川は遮られ現在の阿武川に流れ。 旧朴川は、現在の佐波川に流れるようになり、かっての佐波川の源(佐波川ダム付近)は、
現在の河床より数十メートルも高く、谷を削った大量の土砂は、佐波川流域・河口の平野を作った。(県内最大の防府平野)

(その他 諸々と調べましたが、話半分でも五万余戸の大きな国を伺わせる遺跡は無いようなので・・・・・・・・・・・・
                      ・・・・・・・・・・・結論として防府説の根拠は、判りませんでした・・・・・・・・)

そこで 調査資料から、防府に関係した歴史上の人物・古刹や出来事を、私考的な観点から歴史を綴ってみました。

◎ 防府市の(古代・中世・近世)の歴史ー(私考雑学)
 
 防府市の遺跡(古代〈旧石器・縄文・古墳・飛鳥時代〉)




紀元前後  
   【国内に大きな集落が出来始める】
   井上山(桑山:右の注-1)に高地性集落
239 【卑弥呼が魏に使いを送る】
   【国内に前方後円墳が造られ始める】
300
  (周防東部で前方後円墳が造られ始める)

400 
   黒山1号墳が造られる(防府で最古の古墳)
 
 
 

550  岩渕古墳が造られる
   (県内で群集墳が造られる)

600 
    桑山塔ノ尾古墳(右の注-2)の造営
   片山古墳造営
   鋳物師大師塚古墳の造営
645 【大化の改新】
   大日古墳(右の注-3)・車塚古墳が造営
   奥正権寺古墳が造られる
700
注-1=藩士井上氏の領地であったため、
   山名を〈井上山〉と命名
   (藩士=萩藩の直轄家臣
     右田毛利の家臣は=陪臣)

注-2=603年に征新羅大将軍であった
   来目皇子(聖徳太子の弟)を
   土師猪手
(はじのいて)が殯(もがり
   仮埋葬)する

注-3=大内氏の祖と、されている?
   また、土師氏との説もある。

 




 
 
 
 




 
  
 ※ 佐波川の河口は三角州で川が何本も流れていた。

 ※ 38-塔ノ尾古墳の補足:毛利重就[
もうりしげたか:英雲公]が桑山中腹に納涼亭を建てる時に偶然見つかり、(護国神社の辺り)
              来目皇子らしいと判り、その後、山頂に埋葬品を石箱に納めて埋め戻す。(宮内庁の管理)

 ※ 来目皇子(
くめのおうじ:聖徳太子の弟)=九州征伐の皇族将軍。 出征先で病死、聖徳太子の命令で土師氏を遣わし、
             
 防府市桑山に 殯(もがり:仮埋葬)する。[九州は朝敵の勢力圏ため、周防国に持ち帰った]

 
  
防府市の歴史 【奈良・平安時代】
     


681 周芳(周防)国府・沙麼しゃば(娑婆さば→佐波)の地名が
   『日本書紀』に記載されていた。
700
   周防国の国府
(注-1)の施設が整う。下右田遺跡に大型建物が現れる。
   
国衙の木簡に達良君猪弖
(たたらのきみいて)の人名が記載。
741 【国分寺・国分尼寺建立の詔(天皇の命令書)
   周防国分寺の造営が始まる
800
 
901 菅原道真が太宰府に左遷途中、国府に立ち寄る
(注-2)
974 清少納言
(注-3)の父の清原元輔は周防国司に任じられる
1000
   国司
(こくし)が常駐しなくなり、在庁官人制が始まる 
1152 周防国府の在庁下文に、在庁官人[多々良氏
(注-4)]3名が
   署名ている
1180 【東大寺焼失】
1185 【壇ノ浦の戦い】
1186 俊乗房重源らが東大寺再建のため佐波川奥地の木材を伐りだす
1187 周防阿弥陀寺(春日神社も供に)を重源が創建
1195 【東大寺再建】重源が松崎天神・玉祖神社を造り替え
注1=国府域は一辺が八町(870m)の方形で中世には、「土居八町」と
   呼ばれていた。   
  (1200年頃の国府は官人や職人の家族を含めると2000人を越えた
   と推測・当時の防府の人口は推定6300人)

注-2=国司の土師氏[桑山に来目皇子を 殯(
もがり:仮埋葬)する]は、
   道真の親戚。(下段に注釈)
   [土師連
はじのむらじ=土師器という土器や墓造りに、たずさわる
    職業集団]。     
   904年に道真没後、霊を酒垂山に祀る
   天満宮は[松崎神社・宮市神社]と呼ばれていた。

注-3=清少納言の「清」は清原の性から、「少納言」は親族の役職名
   から採ったとされています。   
  (清少納言は、幼少の頃 国衙に居たようです)

注-4=多々良氏の一族が右田周辺を領地にしていた、
   (平安末期:在庁官人の多々良氏 9代 盛房が周防で最有力の
    実力者となり、山口市大内に移り住み、大内氏を名乗る)




 
 
 




 
 
 
 
 


[注釈]
 注-2の補足:親戚=天穂日命
あめのほひ:天照大御神の二男神)の末裔→野見宿禰[出雲の豪族・天覧相撲で相手を投げ殺す:相撲の元祖(神様)
          ・天皇に仕え、墳墓・土器を司る職業集団となり、古墳の殉死者の代用品の埴輪を考案する]→その子孫に土師連
(はじのむらじ)
          →土師氏の分家に
菅原氏

 ※ 防府天満宮の祭神=菅原道真・天穂日命 と末裔の 野見宿禰・武夷鳥命
(たけひなとり)の4柱よはしら:4神)

 ※ 道真(57歳)は太宰府への途中、勝間浦に着き、同族土師
(はじ)氏のいる この地にしばらく滞在した。
   そのおり、国司の土師信貞に「我、もし筑紫にて命を終わるとも魂必ずこの地に帰るべし」と告げたという(風土注進案)。
   また 当時の国司は、土師信貞の説と、多治有友の説がある。
   この多治有友
(たじありとも)は道真の門人で、土師信貞は役人であったいわれる。いずれにしても 防府には縁あった。
 
[地名由来]
   多々良:朝鮮南部の多羅の古代国名による、多羅が新羅に滅ぼされ、日本に移り住んで故国を忍んでつけた地名とされている。
   牟 礼:古代朝鮮語で山を意味する ムレ・ムロ からくる
   末 田:陶田によるもので、6世紀頃の須恵器窯跡が出土。(須恵器は朝鮮式土器とも呼ばれている)
   三田尻:古代、娑婆県
(さばのあがた)の天皇供御領(くごりょう)である御田(みた)の後方の地であることにより、御田尻(三田尻)
       なったとも考えられてる
 
 ※ 多々良:たたらの語源は、もともとは鉱石を熔解する炉への送風装置・フイゴを指していた。 多々良・鑪など「たたら」と
       関連した名が付く地名は、阿武郡?大津郡の日本海側山地に多く、また たたら製鉄遺跡もある。
        これらは石見の稼業人が出雲・備後・安芸などから伝わった製鉄技術をもたらしたものである、「金かね」の付く地名
      (金山・金谷)などは、たたら製鉄に必要な燃料の薪炭材を供給する山林のことで、金山・銀山・銅山などの呼称とは異なり、
       金や鉄を産する鉱山を意味するものではない。
       
        また、石見の たたら師の信奉する「人丸神」を持ち込み、山の神
(地神)鎮撫の目的で祀ったもので、日本各地に多数
       存在し、県内にも多く祀られている。
      [人丸神社]=祭神は柿本人麻呂:飛鳥時代の歌人・三十六歌仙の一人で、子孫は石見国美乃郡司(郡司=国造が世襲的に任じらていた)
             として土着、鎌倉時代以降 益田氏を称して石見国人となったされる。
       
        周防部での たたら地名は、防府市の1ヶ所のみである、古代朝鮮の百済にあった国名を地名としたとの説などもあり、
       たたら場との関連はないようである。防府市には「人丸社」が 21社あり、伝承密集地の一つであるが、八幡神社などとの合祀も多い。
       鍛冶・鋳物師・木地屋(木彫りなどの材料の木を粗挽きする職人) や 石見の 紙漉き職人を媒介とするものと考える、 そのため 
       江戸時代以前には三田尻に鋳物師が多く居た。 防府市の「人丸」の地名も「畑人丸神社:人丸の水道局の給水タンク近く」に由来する。
       
        続日本紀の天平2年
(730)「周防国 熊毛郡にある牛嶋の西の汀と、同国 吉敷郡の達理山(きりやま)から産出する銅を治錬して
       みたところ、いずれも実用に堪えることがわかった、そこで周防国に命じて採鉱・冶金させ、隣りの長門の行なう鋳銭に充てさせた」
       とある。 この達理山が長登銅山の近傍の防府市と山口市の境目
(切畑)にある金山(かなやま)であると言われている。
       金山の近くには明治時代の銅鉱の採掘場があり、また 近くに銅の精錬所跡の【切畑南遺跡】がある。→【和同開珎にも関係する】
       牛嶋は光市の沖合いの牛島
(うしま)と推定されるが銅鉱採掘跡はみあたらない。

 
 【防府市ー奈良・平安時代 map】

  
 ※ 地図は古代の防府の地形です(勝間→鞠生→仁井令→植松が、砂浜の海岸線)

 ※ 老松神社の高州地域には砂丘

 ※ 鞠生松原は白砂青松(付近一帯で製塩業が営まれていた事が九州探題今川貞世
(了俊)の紀行文「道ゆきぶり」(1371年)にでている。
    彼の歌碑は厳島神社境内にある)

 ※ 台道駅近くの繁枝
(しげし)砂丘は大きな砂丘で、縄文土器の破片が波で打上げられていた=佐波川から流れ着いたものか ?
   白砂に松原も有った。

 ※ 今の佐波川は、重源が木材を運ぶため、川の流れを変えたとされているが、大道駅の東付近にあった繁枝
(しげし)大砂丘に、
   右田周辺からの縄文土器が、川から流れ込み、砂丘に打上げられ、出土した事などから、佐波川の本川は、今も昔も同じと思われます。

 ※ 旧山陽道は、最初 大崎
(大前)の渡しを渡り、東側の川は小さくなっていたようで、山口に拠点を置いた大内時代には、
   山口とを結ぶ関係から上流の本橋の中州のあった「大渡し」で、旧山陽道は川越えをする、
   これは、「大内氏の古文書の壁紙
(条例を書いた文書)」に、渡し賃などを書いていました。

 ※ 一里塚=平安時代末期頃から、、五間四方(9m)の盛り土に、榎や松を植えて、一里ごとに設置された塚。  
       律令制では:一里=5町歩×109m/町=545m。  ◆ 駅家
(うまや)は[30里(16Km)ごとに設置:勝間・大崎(廃止)
       一里塚の全国的な整備は江戸時代になり、(江戸時代:一里=36町歩×109m/町=3,942m=現在の一里)
   ・ 大道一里塚=跡なし:日進グリーンセンター前の灯籠が二基ある所(遙拝所跡)
           遙拝所=大内氏の時代から、山口の防衛のため、他国人の入国を制限し、そのため、伊勢神宮の分院で
              ある山口大嶺大神宮を崇拝していた、豊後からの参拝者は参拝できなくなった。 
              そのため、この場所から参拝できるよう、遙拝所を設置した。
   ・ 佐野一里塚=民家の庭に石碑あり
   ・ 千日町交差点の一里塚  ・牟礼今宿一里塚
(JA農協前) ・富海一里塚(富海駅前 墓地の西の端に一里塚があった)
   (すべての一里塚は、跡なし)
 
 
 
【下図は、防府市内の神社を調べたものです】

 
 [牟礼 春日神社]=周防国の国司として赴任した藤原氏が、文治2年
(1186)に奈良の春日神社の分霊を祀ったといわれています。
         俊乗房重源上人によって再建されました。
         (奈良の春日神社は、今からおよそ1300年前、遠く鹿島神宮から武甕槌命
(タケミカヅチノミコト)を迎え祀っている)

 [小野 宇佐八幡宮]=創建は宇多天皇の寛平三年(891)。八幡大神(応神天皇)・比売大神(宗像三女神)・神功皇后をご祭神にお祀り
        [宗像三女神は、アマテラスとの誓約
(うけい)によって、スサノヲの御子神:厳島神社も同じ祭神]

 [大道 小俣八幡宮]=「笑い講」は、年を司る「大歳神」を迎え五穀豊穣に感謝する神事。元々、小鯖八幡宮
(鰐鳴八幡宮)の氏子
         であったが、祭りのことでモメたため、小俣に分神して奈良時代頃から、この神事が始まったとされている。

 [天御中主神社](車塚妙見社)=創建は、推古天皇二十四(625)年。毛利元就から書状も送られてる由緒のある神社らしいです。
         天之御中主神⇒妙見社
(みょうけんしゃ)=妙見大菩薩を本尊としていた霊場で、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に
         よって寺は取り壊され、 代わりに「天之御中主神」が祀られる様になった。
          与三郎稲荷神社と境内を同じにしており、社殿の後ろには、車塚と言われる前方後円墳があります。
         (この前方後円墳が中世に開発され、丸い円噴になり、丸い塚=車塚と呼ばれたのが地名になったと思われます)

 [防府稲荷大明神]=防府天満宮の西にある。稲荷とあるが稲荷神社とは別もので、仏教の「荼枳尼天だきにてん」と言う、
         古代インド仏教の稲を担いだ女の仏様で、仏教の「イナリ」様とされている
         (豊川稲荷や湯本温泉の大寧寺の豊川稲荷も同じもの)

  ★ 大歳神
(おおとしのかみ)=スサノヲの御子神:年(歳)を司る神でもあり、農業神としても崇められている、神社によっては
         「大年神社・大歳社」とも 記載されている、 主に西日本に分布しており東日本に少ないことも特徴として挙げられます。
          御祭神:素盞嗚尊
(すさのお の みこと)・大歳神・櫛名田姫神(くしなだひめ の かみ)
     ・櫛名田姫神=「八岐大蛇」の神話で、スサノヲが助け、妻とした。
  ★ 人丸社=上記【防府市ー奈良・平安時代 map】の上にある、※ 多々良 に記載。

  ★ 猿田彦
(さるたひこ)=猿田彦大神と、その子孫(大田命)を祭神とする、元々は、天孫降臨の際に、邇邇芸命(ににぎのみこと)をご案内する。
          一般に[道の神・道案内の神・旅人の神]で 妻の天鈿女神
(あめのうずめのかみ)と供に【道祖神】と考えられています、
          道祖神は 塞の神
(さいのかみ)とも言い、村の外れで外部から村に 悪い霊が侵入するのを防いでいます。

     ・大田命=「倭姫命」が皇居に祀っていた天照大神を祀るの に相応する地を求めて諸国を巡っていた時、 道案内をして
          五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。(伊勢神宮)

     ・倭姫命=日本武尊(やまとたけるのみこと)の叔母。天照大神の御杖代
みつえしろ:替わりに奉仕する)として伊勢の国に入り、
          神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる。

     ・天鈿女神=「天の岩戸」の前で、ストリップまがいの舞を踊り、巫女の祖先とされている。
          女系子孫は、巫女を受け継ぎ、その子孫に(稗田の阿礼)がいる。

     ・稗田の阿礼=「古事記」は、稗田の阿礼の暗誦していた物語を編集。一度 目や耳にしたことは、決して忘れなかったので、
          その記憶力の良さを見込まれて「帝紀
ていき=皇室の系譜の伝承記」「旧辞きゅうじ=記紀編纂の基本資料になったと
          される各氏族伝来の歴史書」等の誦習を命ぜられた。そのとき28歳であったと記されている。
          「阿礼」とは、巫女の別称。

 ★ 庚申塚
(こうしんづか)=中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと、申は干支で猿に例えられるから、
         「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。 
          庚申の祭神が神道では猿田彦神と され、猿田彦神が彫られることもある。庚申塔は江戸時代初期から全国的な分布が確認
          されているが、明治時代になると政府は 庚申信仰を迷信と位置付けて 街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。
 
 
     
【国府跡図】                   【真尾 松尾山古跡】
 
 国府跡]当時の国府域の南東部は、海岸に接していて国府津(港)があり、瀬戸内海を船を使って各地との交流が活発であったと思われる。
     また、国司や航海者等の往来があったことを物語っている。 
     大化改新(645年)により、奈良飛鳥に中央集権国家が成立すると、律令制度が整えられ、それまでの地方豪族の国造制から中央集権的
     な国郡里制へと機構が変わった。 中央政府が任命した国司が派遣されて政治を執っていた古代の役所である。
   ※ 国府の施設・歴史については、文献も多くあり。 ここでは省略します。

 [真尾 松尾山古跡]784年に恒武天皇の命により建立された寺院で、修行僧の道場でもあり、参拝者も多く、西の高野山と言われるほど賑わった
          古刹跡、歴史は古く奈良時代には 3院 9坊が山腹に散在する一大霊山であった。
 
 
 
防府市の歴史【中世→近世】
 

 
 ※ 佐野峠からは佐波川の河口と島々を見渡す事が出来、江戸時代の文人、大田南畝(蜀山人)も 佐野峠に立ち、
  「まことに山陽第一の美観」と絶賛しました。

 
[防府市:中世→近世の歴史]



鎌倉末期:初代 大内盛房の弟が分家し、その3代子孫が「右田氏」を名乗り、右田ヶ岳山頂に山城を築く
     
(現在は城跡の痕跡は残っていません)
    [天徳寺の前に昔は別の寺があり、その近くに右田氏の館や堀の跡があったと言われています、右田氏は大内陥落前に毛利氏に
     降伏して、その家臣となった、右田の名字を「御郷」へと改め、子孫は三田尻御舟手組として仕えた]

1336:国衙の役人であった清尊達は後醍醐天皇に兵をあげた足利尊氏に敵対し
(南北朝時代の元弘の乱)矢筈ヶ岳の敷山験観寺(敷山城跡)
   立てこもり落城。
1358:大内氏は豊後出身の 厚東氏
(宇部市の霜降山城:物部氏を遠い先祖)を 九州に追いやり、防長 2国の守護大名となる。
   15世紀後半に書かれた「大内多々良氏譜牒
(家系の文書)」によれば、百済の王子琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸(611年)
   したことから「多々良」と名乗り、後に大内村(山口市)に居住したことから「大内」を名字とした。

1581:真尾松尾山古刹が盗賊群により焼失
 ?:元河口付近 「伊佐江・仁井令町」の開作(開作図の A・B) (当時は、塩屋原浜・鞠生浜で、塩を作っていた)
1603:毛利輝元が、国司元蔵への手紙で[桑山は地理的には築城に良いが砂山であり、石垣の施行に困難なので、他に土地を選びたい]旨を
   伝え、萩に築城する。   
   水軍の本拠地である 御舟倉を 下松から三田尻に移す。(御舟手組が住んでいた所の警固町の地名も、そのことを示しています)
 ?:右田 毛利氏は、毛利元就の七男・毛利元政を祖とし、下右田に館を建て 総受寺を天徳寺と改め菩提寺にする。

1712:右田 毛利氏の陪臣
(家臣)の 桂忠運は自邸に「月の桂の庭」を造る。

【開作江戸初期 = C D E F G 】    1628:潮合開作が築立られ、それまで島だった田島が陸続きとなる (C)
                   1648:中関の赤石開作築立 (D)    1651:西浦開作築立 (E)
                   1678:西浦鹿角開作潮留 (F)     1692:遠藤中関開作築立 (G)
【開作江戸中期 = H I J K L M N O P 】 1699:三田尻大開作が始まる (H)  1702:勝間開作築立 (K)   
                   1717:古上地開作潮留 (L)      1738:田島中野開作と中浜開作築立 (M)
                   1748:江泊開作・岸津前開作が築立 (N)
【開作江戸末期 = R S T U 】




 




 
 
 




 
 
 
 
 
 ※ 毛利の城は、防府・山口・萩が候補地で・・・防府(瀬戸内の交通の要)・山口(大都市)のため、萩の 河口の湿地帯を、幕府は毛利氏
    封じ込めの意図もあり、ここに認可する。

 ※ 三田尻大開作[270町歩:約270万m2:仮に満潮時の水深1mで丘の0m(平均 0.5m)と 海面上 0.5m=平均1.0mの埋め立て)=270万m3
   東京ドーム2個(何処に土砂が有った?)
 
 
【防府開作 map】  開作は、ABCの順番  
  
 ※ 江戸時代になり、「大崎の渡し」が再開され、旧山陽道は地図のように元になり、佐波川は1つの川になっていたと思われる。
   本橋の「大渡し」は「萩往還」の道になり、江戸中期頃から、舟を7隻ぐらい並べた上に板を渡して「舟橋」となり、
   昭和16年に、今の本橋ができるまで、約200年間、このスタイルの舟橋があったそうです。

 ※ また 開作が進むと、「大崎の渡し」の下流に「泥江の渡.し」も有ったそうです。

 ※ 江戸時代の「中国行程記」では佐波川を鯖川と書いていました。
 
 地名由来:鋳物師町=江戸時代以前には防府を本拠地とする鋳物師集団が居て、切畑玉祖神社・大楽寺 や 遠石八幡宮の
           釣鐘などの作品が残っています。
 
 
【防府市古地図】
  
  
【古代国造】
  
  ※ 光市小周防=(熊毛I.Cの南)に、周防の国の名の発祥の地として、近くの小学校の側に 大きな石碑があり、
         「周防の国の宮(役所)」があった所ですが 役所の後は未発見です・・・
   (石碑文)=[応神朝ニ加米ノ意美ガ初代周防国造ニ任命サレ・・熊毛郡家ガオカレ・・]
         (加米ノ意美は、天津日子根命の子孫と日本書紀に記載)
   ・周防の国の「初代国造」の墓は、柳井の茶臼山古墳か、平生の白鳥古墳の説があります]

 ※ 国造=
(くに の みやつこ)大和朝廷の行政区分の1つである国の長と言う意味で古代日本の地方官である。 元々、国主(くにぬし)と言われて
      いた有力な地方の豪族が朝廷に帰順した時に、そのまま国造に任命され【臣
おみ・連むらじ・君きみ・公きみ・直あたえ】などの [姓 かばね
      が贈られ、かなりの自主性の下にその地方の支配を任されていた、そのため 軍事権、裁判権を持つなど、実質的にその地方の支配者
      であったが、大化の改新以降は 主に祭祀
(さいし)を司る世襲制の名誉職となった。

   県主=
(あがたのぬし)律令制が導入される以前のヤマト王権の職種・姓(かばね)の一つである。ヤマト王権が直轄する地方行政区分の一つに
      県(あがた)があり、国の下部に有った、行政区分と言われている。地方の豪族がそのまま任じられたと言われている国造とは違い、
      県主はヤマト王権への忠誠度が高く、ヤマト王権の代権者としてその地方を治めたと考えられている。  
      県主は、西日本に集中し、東日本には少なかった。

   姓 =
(かばね)古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。
      ヤマト王権が成熟し、大王家を中心として各有力者の職掌や地位を明示するために付与されたと考えられる。 
      代表的な[カバネ]としては原始的な[ヒコ(彦、比古、日子)][ヒメ(比売、日女、媛)][ネ(根、禰)][ミミおよびミ
      (耳、見、美)][タマ(玉、多模)][ヌシ(主)][モリ(守)][トベ(戸部、戸畔)]等がある。

 
 
★★★【調査資料から、時代毎の山口県の人口調査(?)のつもりで古代人の足跡を調べるため、旧石器時代から
    古墳時代の遺跡分布を調べ、どのような地域に何時から人が活躍を始めたのかを地図にしました。】
 
◎ 山口県の遺跡分布図(旧石器・縄文・弥生・古墳時代)
 
【旧石器・縄文時代】
  
  ※ 旧石器時代の遺跡は、県中央部での出土が多く。 縄文時代の遺跡は県内に分散して、秋吉台・山口市に多く出土。

 
旧石器時代ー遺跡  ( 〜約1万6千年前 ) 

 [下関市] 小倉遺跡・
綾羅木郷台地遺跡・横野遺跡・秋根遺跡・延命寺遺跡・武久遺跡・磯上遺跡
 [宇部市] 川津遺跡・横尾遺跡・
常磐池遺跡・南方遺跡・吉沢遺跡・岡之辻遺跡・本郷遺跡・白土神遺跡・長桝遺跡
 [山口市] 毛割遺跡・北河内遺跡・黒石遺跡・大内宮の馬場遺跡・小迫遺跡・
美濃ヶ浜遺跡・丸山遺跡・岡山遺跡・岩上遺跡・堂道遺跡
  〈旧阿東町〉 羽波遺跡
 [防府市] 台道大原宮ノ前
(ナイフ形石器)・台道柴山・台道上り熊・長沢池周辺(大分県姫島産の黒曜石の石鏃が出土)・右田姫山・
       小野の和字・向島の丸山
 [周南市] 天子遺跡
 [岩国市] 冠遺跡群
 [長門市] 大川尻遺跡
 [美祢市] 西渋倉遺跡・龍現地遺跡・国秀遺跡・池ノ原遺跡

 
縄文時代ー遺跡  ( 約1万6千年前〜B.C 3世紀)       赤文字は貝塚

 [下関市] 六連島遺跡・寺秋遺跡・吉母浜遺跡・柳瀬遺跡・松ヶ坪遺跡・仮宿遺跡・柏原遺跡・垢田舟原遺跡・紫野遺跡・
潮待貝塚
      
貞盛貝塚神田遺跡・永福遺跡・田中遺跡・延行条理遺跡・貴船遺跡・宮の原遺跡・沖田遺跡・吉永遺跡・松原遺跡・
       川棚条理跡・厚島遺跡・安養寺遺跡
 [山陽小野田市] 東住吉遺跡・旦遺跡・上ノ台遺跡・二ノ浜河内遺跡・上ノ須賀遺跡・河原田溜池遺跡
 [宇部市]
北迫貝塚月崎遺跡・上原田遺跡・東岐波中学校遺跡・花園遺跡
 [山口市] 松柄遺跡・原遺跡・西山遺跡・中込田遺跡・片山ヶ原遺跡・小高野遺跡・鳩岡遺跡・下東遺跡・若宮滝河内遺跡・木崎遺跡・
       吉田遺跡・向山遺跡・御掘遺跡・長野遺跡・長者ヶ原遺跡・大内氏関連町並遺跡・宮の前遺跡・初瀬遺跡・江良遺跡・
       花の木遺跡・相原遺跡・椢原遺跡・幸崎遺跡・長浜遺跡・小浜遺跡・筈倉遺跡・赤崎遺跡・青江遺跡・長尾池遺跡・
       長沢池遺跡・桐ヶ浴 尾口山遺跡・河原遺跡・星原 弥市原遺跡・丸塚山遺跡・小古郷遺跡・砂郷遺跡・潟上遺跡・百田遺跡・
       西遺跡
   〈旧阿東町〉 曽根遺跡・笠石遺跡・森の元遺跡・亀山遺跡・三原遺跡・西領家遺跡・良円坊遺跡・奥畑遺跡・野道遺跡・原遺跡
 [防府市] 下右田遺跡・
岩渕遺跡・台道繁枝砂丘遺跡・大崎遺跡・台ヶ原遺跡(早期の押し型文土器)大将軍遺跡
 [周南市] 兼近遺跡・末広遺跡・大町遺跡・古津遺跡・細野遺跡・寺の下遺跡・今井遺跡
 [光市 ] 横樋遺跡・御手洗遺跡   [田布施町] 山崎遺跡      [上関町] 田ノ浦遺跡
 [周防大島町] 中津原遺跡・大原台遺跡・遠田浜遺跡
 [平生町]
岩田遺跡・馬出遺跡・尾国遺跡
 [柳井市] 宮田遺跡・黒島浜遺跡・宗兼遺跡・浜尾遺跡・与浦遺跡・湯原遺跡・竹ノ浦遺跡
 [岩国市] 用田遺跡・月空寺遺跡・臼田遺跡・阿賀正下遺跡・芹田遺跡・
西ガ尾遺跡
 [長門市]
亀石貝塚・無田多遺跡・上岩原遺跡・雨乞台遺跡   [萩市] 上庄屋遺跡・椿遺跡・道祖ヶ原遺跡
 [美祢市] 荻原遺跡・中村遺跡・江原遺跡・観音洞遺跡・真木遺跡・山露遺跡・下八重遺跡・長じゃくり遺跡・随徳遺跡・明現原遺跡・
       下麻畠遺跡・住居久保遺跡・寺家遺跡・出来水遺跡・殿河内遺跡・笠木遺跡・
船ガ窪遺跡・迫遺跡・長者ヶ森遺跡・
       三角原跡・北馬コロビ遺跡・柿の木原遺跡・佐山台遺跡・立石遺跡
 
 
 【弥生時代】
 

  
 ※ 高地性集落は島田川下流部右岸と上流の玖珂に多くあります、
   (高地性集落は渡来系の人々が在住の縄文系人の襲撃を防ぐために築居たとの説があります)
 ※ 下関の土井ヶ浜遺跡は、渡来系の人骨(弥生系) 
 ※ 田布施の国森遺跡は県内最古の古墳です(熊毛王?)

 
【弥生時代遺跡】
 
 【下関市-集落跡】 内日遺跡・堂の尾遺跡・鎧遺跡・上げ安岡遺跡・
梶栗遺跡・王司友田遺跡・馬場遺跡・小丸山遺跡・幸地ヶ森遺跡・
          岡遺跡・延行郷遺跡・形山遺跡・下有富遺跡・北ヶ原遺跡・石原遺跡・高山遺跡・十朗遺跡・迫山南麓遺跡・幡生遺跡
         ・塚の原遺跡・
下七見遺跡(大集落)・上の原遺跡・沖台遺跡・沼原遺跡・西明寺遺跡・都々里遺跡・山の神遺跡・
          無田南丘陵遺跡・船頭遺跡・石原遺跡・上の原遺跡・向日山-東原遺跡群・林崎遺跡・金怡城山遺跡
(高地性集落)
          江良遺跡・湯町
(宝蔵寺)遺跡・田島ヶ丘遺跡・ 二反田遺跡・天神遺跡・新土手遺跡・薬師遺跡・七社遺跡・矢田遺跡
         ・豊田西中学校遺跡
  [ 〃-包含地] 小門遺跡・山の奥遺跡・六連島遺跡・寺秋遺跡・植田遺跡・稲野遺跡・金畠遺跡・吉田馬場遺跡・大森遺跡・柴尾遺跡・
          下山田遺跡・宮の尾遺跡・新張遺跡・四十崩遺跡・配原遺跡・下里沖遺跡・高磯石棺群・千徳遺跡・梶栗浜遺跡・
          中村遺跡・上有富遺跡・八幡遺跡・鳶の巣遺跡・鶯の巣遺跡・御堂遺跡・田倉遺跡・五月田遺跡・熊野生山遺跡・
          新免川遺跡・丸尾遺跡・地蔵堂遺跡・
綾羅木郷遺跡・横田遺跡・稗田道祖遺跡・岸本遺跡・榎木山石棺群・市庭遺跡・
          上野遺跡・
土井ヶ浜遺跡・鎌倉の森遺跡・西沢遺跡・後浜遺跡・藤ヶ迫遺跡・細井遺跡・阿川小学校石棺・無田遺跡・
          クラセド山遺跡・丸橋山遺跡・室津小学校遺跡・岩屋遺跡・小串駅砂山遺跡・下岡遺跡・水道山遺跡・井尻遺跡・
          岡遺跡・高野遺跡・道祖遺跡・青山遺跡・豊洋台遺跡・礼拝山遺跡・砂川遺跡・沼遺跡・
          蓮華寺山遺跡・宮崎遺跡・才川石棺群
 【山陽 小野田市-集落跡】 塚の原遺跡・栗遺跡・千人塚遺跡
  [ 〃-包含地] 緑ヶ原遺跡・祐念寺遺跡・物見山遺跡・松原遺跡・松角尾方ノ上遺跡・野来見二ノ台遺跡・下の須賀遺跡・七日町遺跡
         ・下村遺跡・高泊二ノ河原田遺跡・岡崎遺跡・野田遺跡・鴨庄上遺跡・旭-西山遺跡
 【宇部市-集落跡】 北迫遺跡
  [ 〃-包含地] 田の小野遺跡・南側遺跡・琴崎八幡宮馬場遺跡・諏訪原遺跡・北原遺跡・王子本山遺跡・王子遺跡・大野遺跡・
          瑞松庵遺跡・青木遺跡
 【山口市-集落跡】 亀山遺跡・伊梶堤上遺跡・伊梶南遺跡・問田片川遺跡・庄方遺跡・朝倉大歳遺跡・白石遺跡・赤妻遺跡・小路遺跡・
    〈旧阿東町〉突抜遺跡・馬場遺跡・
宮ヶ久保遺跡(大集落)
  [ 〃-包含地] 丸山遺跡・東園遺跡・聖畑遺跡・植松遺跡・中原-大畠遺跡・長山遺跡・藤尾遺跡・上東遺跡・若宮滝河内遺跡・
          神郷大塚遺跡・乗ノ尾石棺群・上両家遺跡・平清水石棺・今津遺跡・入野石棺・興隆寺跡遺跡・問田山崎石棺・
          入野遺跡・仏供田遺跡・中郷遺跡・ガンガ浴遺跡・二ノ宮遺跡・大町遺跡・東田遺跡・下銅遺跡・
朝田墳墓群
          太田遺跡・門前墳墓群・王子の森墳墓群・湯田楠町遺跡・幸崎遺跡・朝日山遺跡・中野遺跡・天田東遺跡・糸米遺跡・
          宮ノ旦遺跡・ 障子ヶ岳南遺跡・陶ヶ岳遺跡・六骨岩南遺跡・彦地山遺跡・樋尾久遺跡・沖浦遺跡・北方八幡宮遺跡・
          南山遺跡群・引野遺跡群・西下ノ田遺跡・赤迫薮下遺跡・下糸根遺跡・柏木遺跡・
    〈旧阿東町〉久箱遺跡・小南墳墓群・桶敷遺跡
 【防府市-集落跡】 右田一丁田遺跡・奥正権寺遺跡
(前期の土器)・大崎遺跡・大将軍遺跡・井上山遺跡(中期の高地性集落)
          真尾猪の山遺跡
(中期・後期の高地性集落)
  [ 〃-包含地] 県立中央病院敷地遺跡・多々良寺山遺跡・多々良ゴルフ場遺跡・右田遺跡・片山遺跡・台ヶ原遺跡・向山遺跡
         ・大原遺跡・小俣宮の前遺跡・長沢遺跡・ 切畑遺跡・下和字石棺・小野中学校敷地遺跡・奈美松ヶ谷遺跡・小峠遺跡・
          脇遺跡・木部遺跡・真尾椎森遺跡・西浦女山遺跡・黒山八頭遺跡
(箱式石棺)・高井山寄遺跡・田島山湯ノ峠遺跡
 【周南市-集落跡】 円光寺遺跡・老郷地遺跡・七夕遺跡・
天王遺跡(高地性集落)・岡山遺跡(高地性集落)・正権地遺跡・追迫遺跡・石光遺跡
  [ 〃-包含地] 天王山石棺・武井石棺・秋本山石棺・秋本遺跡・中笠野遺跡・和田遺跡・黒髪島遺跡・兼清遺跡・穴観音遺跡・小谷遺跡
          東前寺遺跡・西一の井手遺跡・公園区遺跡
 【下松市-集落跡】
宮原遺跡   
  [ 〃-包含地] 広石遺跡・福寺遺跡・寺迫遺跡・大河内遺跡・宮本遺跡・花岡遺跡・天王森遺跡・都町遺跡・御屋敷山遺跡・澱ヶ浴遺跡
 【光市 - 集落跡】 岡原遺跡(高地性集落)・三鍛冶屋遺跡・殿山遺跡
  [ 〃-包含地] 土井遺跡・樋口遺跡・殿河内遺跡・今桝遺跡・森ヶ峠遺跡・植松遺跡・源城遺跡・中郷遺跡・渓月院遺跡・虹川遺跡・
          林大田遺跡・領家遺跡・道宝遺跡・大浴遺跡・長徳地遺跡
 【下松市-集落跡】 宮原遺跡   
  [ 〃-包含地] 広石遺跡・福寺遺跡・寺迫遺跡・大河内遺跡・宮本遺跡・花岡遺跡・天王森遺跡・都町遺跡・御屋敷山遺跡・澱ヶ浴遺跡
 【光市 - 集落跡】岡原遺跡(高地性集落)・三鍛冶屋遺跡・殿山遺跡    
  [ 〃-包含地] 土井遺跡・樋口遺跡・殿河内遺跡・今桝遺跡・森ヶ峠遺跡・植松遺跡・源城遺跡・中郷遺跡・渓月院遺跡・虹川遺跡・
          林大田遺跡・領家遺跡・道宝遺跡・大浴遺跡・長徳地遺跡
 【田布施町-包含地】 松尾遺跡・西才賀遺跡・才賀遺跡・竹部遺跡・長田遺跡・明地遺跡・吉行遺跡・時貞遺跡・森国遺跡・開明遺跡・
          
国森遺跡(県内最古の古墳首長墓:方墳:4世紀初頭?)・天王原遺跡・宝前遺跡・尾崎遺跡・平井遺跡・長合遺跡・
          助政遺跡・三宅常森遺跡・藤尾遺跡・地家遺跡・奈良古神遺跡・尾迫遺跡・井幸田遺跡・浜城遺跡・警固屋遺跡・
         神過原遺跡・萩尾五郎部遺跡
 【平生町-集落跡】 松尾遺跡・
吹越遺跡(高地性集落)     
  [ 〃-包含地] 二丁田遺跡・今井遺跡・丸山遺跡・日向山遺跡・井内遺跡・西原遺跡
 【上関町-包含地】 カタイ遺跡
 【柳井市-包含地】 原遺跡・向田遺跡・城力遺跡・小野遺跡・山近遺跡・長宗遺跡・老猿遺跡・下大ノ口遺跡・大迫遺跡・藤木遺跡・
          赤子山北麓遺跡・吉政遺跡・中院遺跡・法泉寺遺跡・国清遺跡・鰐淵遺跡・鳥越遺跡・大屋遺跡・片野遺跡・平本遺跡
         ・大見山遺跡・畑-平佐遺跡・本谷遺跡・
 【周防大島町-集落跡】下田八幡宮遺跡・飯の山遺跡・長天遺跡
  [ 〃-包含地] 文殊山遺跡・中瀬田遺跡・丸山遺跡・久保河内遺跡・宇山遺跡・丸子遺跡・加世田遺跡・沓松遺跡・流田遺跡・
         吹越遺跡・毛所遺跡・おろうで遺跡・上流川遺跡・浅川遺跡・椋野遺跡・久保田中郷遺跡・道面遺跡・油良さ称墳墓群・
         平底遺跡・油良郷遺跡・安下庄病院遺跡・小池遺跡・庭田遺跡・源明遺跡・丸山公園遺跡・碁石山遺跡・くだりお遺跡・
         鹿家遺跡
 【岩国市-集落跡】 北河内遺跡・河内遺跡・四割遺跡・奥ヶ原遺跡・平畑遺跡・本郷正下遺跡・千束遺跡・大田遺跡・植山遺跡・
         
柳井田遺跡(玖珂:高地性集落)・清水遺跡(高地性集落)・瀬田遺跡・畑岡遺跡(高地性集落)・宇佐平遺跡・錦見遺跡
  [ 〃-包含地]竹安遺跡・上久原遺跡・久田遺跡・西午王内遺跡・上久宗遺跡・白山遺跡・岡丈遺跡・末元遺跡・蓮華山城遺跡・
         建立寺遺跡・松原遺跡・上市遺跡・柳井田上遺跡・瀬田上遺跡・筏山遺跡・大伴遺跡・野口遺跡・切畑遺跡・寺迫遺跡・
         城ヶ崎遺跡・相地遺跡・隨門遺跡・中村
(俵田)遺跡・国近遺跡・須万地遺跡・大円寺遺跡
 【長門市-集落跡】高畑遺跡・岡の鼻遺跡・荒人遺跡      
  [ 〃-包含地] 湯面遺跡・長久-久富遺跡・
王屋敷遺跡・人丸神社遺跡
 【美祢市-集落跡】宗国遺跡・下村遺跡・上領遺跡・下領遺跡・中村遺跡・向原遺跡・上野山遺跡・大村遺跡・細小野遺跡・岡台遺跡・
          大日遺跡・嘉万西遺跡・旦遺跡・本郷道場遺跡・松ヶ迫遺跡・瀬戸遺跡・宮地遺跡・寺家遺跡・神田遺跡
  [ 〃-包含地]内川遺跡・小林遺跡・広下遺跡・牛明遺跡・正法寺遺跡・曽根遺跡・彦山遺跡・光専寺遺跡・本郷遺跡・共栄遺跡・
         平野遺跡・檜皮遺跡・江良遺跡・壬生神社遺跡・門村遺跡・戸青遺跡・秀十遺跡・川東遺跡・内が島箱式石棺群・
         本郷小学校遺跡・的場遺跡・道場-中村遺跡・水田遺跡・内が島遺跡・堀の内石棺群・旦箱式石棺群・上八重遺跡・
         厄神遺跡・青戸遺跡・徳坂遺跡・植畠遺跡・山田遺跡・杉山遺跡・中原遺跡・碇遺跡
 【萩市 -集落跡】宮ノ馬場遺跡    
  [ 〃-包含地]下七重遺跡・庄屋遺跡・楠ヶ浴遺跡・西久田遺跡・霧口遺跡・坂部遺跡・笠山遺跡・前尻ヶ原遺跡・若狭遺跡・小国遺跡
 【阿武町-包含地】東宇田地遺跡・市ヶ原遺跡
 
 
【古墳時代】

   
 ※ 前半は弥生時代の箱式石棺や壷棺の伝統が残り、やがて竪穴式石室となり
   後半期には円墳や前方後円墳など、いわゆる古墳へと変わっていく、
   終末期は古墳の規模は小さくなり群集化する。
 
 ※ 地方の有力者の古墳として(下関の仁馬山古墳・周南の竹島古墳・下松の宮ノ州古墳・平生の白鳥古墳・柳井の茶臼山古墳・
   防府の大日古墳)などが揚げられます。
  
   ・山陽小野田の長光寺山古墳→地方の初代(有力者)首長?
          妙徳寺山古墳→女性とみられる
   ・山口市の大内氷上古墳→首長 
          美濃ヶ浜遺跡→海藻を用いた製塩土器
   ・防府市の大日古墳→全長約45m:古墳時代後期の前方後円墳で横穴式石室で家形石棺を持つ古墳は県内唯一で、
          畿内との関係の深さが指摘される。(土師氏?)
   ・周南市の竹島古墳→:国造?
   ・下松市の宮ノ州古墳→銅鏡で船載鏡3面・倣製鏡1面出土:有力者?
   ・田布施の納蔵原古墳→熊毛王?
   ・平生町の白鳥古墳→白鳥神社に在って、県内最大の前方後円墳(熊毛王?)
   ・平生町の神花山古墳→女性とみられる
   ・柳井の茶臼山古墳→国内最大の  龍鏡(
だりゅうきょう:単頭双胴怪獣鏡)直径44.8cm[倣製鏡]
             国内には同模様の  龍鏡は六点あり、宮内庁所蔵の二点、宝塚などの古墳資料館に三点所蔵、
              大きさはそれぞれ異なるも、図案はまったく同模様の相似形である。
             →周防国造の凡直(
おおしのあたえ:周防氏)の墳墓と推定されている。
 
 ※ 美祢と秋吉には弥生時代の遺跡が多かったのですが、古墳の遺跡は極端に少ない。
 
 ※ 県内の前方後円墳は 26墳(私考的集計)で、九州には 364墳あった。
  
 
 
【古墳時代遺跡】
 
 【下関市-前方後円墳】 観音岬古墳・幡生宮山古墳・
仁馬山古墳・上の山古墳・若宮古墳・大門古墳
     [ 〃 - 円墳] 深川古墳群・吉田古墳・古宿古墳・無線中継所古墳・大久保古墳群・岩神古墳・塚の空古墳群・茶臼山古墳・
           みやばやし古墳群・岡古墳・法寂寺古墳群・ 仁馬山古墳群
(方円墳)・植松古墳(方墳)・下有富古墳・
           有富古墳群・松屋古墳・工領古墳群・山角蛎塚・住吉神社社域古墳・小原山古墳群・石原古墳群・
           秋根1号-2号墳・三郎山古墳群・王子権現山古墳
(方円墳)・金山古墳群・中野古墳・植松古墳群・先東法古墳
          ・大久保古墳・地方古墳・肥中古墳・善昭寺山古墳群・阿蔵
(月の輪)古墳・無田古墳・室津上古墳・甲山古墳群・
           小原山古墳群・間古墳群・森の上古墳群・向日山古墳群・青井古墳群・蓮華寺山古墳・手洗古墳群・江良古墳群
          ・才川古墳群
     [ 〃 - 古墳]勝谷丸山古墳群・大頭石棺・迫谷-鳥屋号墳墓群・前勝谷古墳群・下方古墳・吉田石棺・尾崎古墳・
           小丸山石棺群・員光古墳・万福寺古墳・横野海岸石棺・迫山石棺・官林山古墳群・ございでん古墳・宮山古墳・
           奥の屋敷墳墓群・下方古墳群・観音堂古墳・王喜寺山古墳・串石棺・八幡神社古墳・笹が瀬古墳・糀塚古墳・
           椋野古墳・古屋敷古墳・岩屋古墳・別所古墳・逢坂古墳・上越石棺・原の辻古墳群・岩名古墳群・長仙山石棺・
           秀波古墳・一升塚古墳・後山古墳・柿の木古墳・野添古墳・海老田石棺・二の倉古墳・女郎ヶ迫古墳・末員古墳
          ・下大野石棺・大日寺古墳・妻月石棺群・上田部古墳・土井ヶ浜遺跡・上の原石棺群・鍛冶屋ヶ迫墳墓群・
           三浦山古墳群・築港古墳・夕日ヶ丘古墳・塔の山古墳・野路古墳群・沼古墳・片山古墳・大年古墳・市之内古墳
          ・稲荷山古墳・犬鳴古墳・下り松古墳・土居-久保古墳群・古殿-赤岸古墳群・布施ヶ浴古墳群・法仙庵古墳群・
           赤迫古墳・山田古墳・後楽古墳・下畦古墳・下畦一の浜古墳・高迫山古墳・大塚古墳・道祖古墳群・烏山古墳群
          ・心光寺古墳群・祇園古墳群・惣土石棺・ 白薙古墳群・新土手古墳
 【山陽小野田市-前方後円墳】 大判山古墳・
長光寺山古墳・妙徳寺山古墳(女性埋葬)
        [ 〃 - 円墳] 中村道田古墳群・院の墓古墳・仁保の上古墳群・大体東-西古墳・平松古墳群・後潟台ノ田古墳・沓古墳
        [ 〃 - 古墳] 千人塚古墳・大須恵古墳群・入道岩古墳群・小野田江尻古墳・若松古墳群・田ノ尻古墳・旦西古墳群・
             向原古墳・塚ノ川古墳
(須恵器の生産集団 )・桜の木古墳・西の上古墳・子持御前山古墳・七日町古墳群
 【宇部市-円墳】 宗方古墳・神元古墳
  [ 〃 - 古墳] 棚井古墳群・ 萱曲古墳・中須賀古墳・三神社古墳群・砂山古墳・月崎古墳群・琴平山墳墓群・若宮古墳群・亀浦古墳
       ・道祖ヶ浴石棺群・四十塚古墳群・松崎古墳
 【山口市-前方後円墳】 新宮山1号墳・大内氷上古墳         〈旧阿東町〉狐塚古墳
     [ 〃 - 円墳] 浦辺古墳群・平野古墳・上の山古墳・三の宮古墳・祇園ヶ森古墳・梅ヶ崎古墳群・大浦古墳群・権現山古墳・
           茶臼山墳墓群・赤妻古墳・?          〈旧阿東町〉金地古墳・弥河内古墳群
     [ 〃 - 古墳] 木戸神社古墳群・渓南古墳群・土師宮古墳群・天神山古墳群・長尾古墳・大判石棺群・泉山古墳群・
           日吉神社横穴群・乗ノ尾石棺群・大浴古墳・神出古墳・浄福寺古墳・新開古墳群・大内畑古墳・馬塚古墳・
           妙見社古墳群・山崎古墳・高尾古墳群・生森古墳・神田山石棺群・大塚古墳群・殿山古墳・国森石棺・才谷古墳
          ・朝倉河内古墳群・朝田墳墓群・和田墳墓群・今津山古墳・白石古墳群・鴻の峰古墳群・兜山古墳群・幸崎古墳群
          ・美濃ヶ浜遺跡・長浜古墳群・下村古墳・中道古墳群・尻川古墳・筈倉古墳・生目八幡宮古墳・丸塚古墳群・
           堂山古墳群・中島古墳・広沢寺古墳       〈旧阿東町〉狐塚石棺群
 【防府市-前方後円墳】
大日古墳・車塚古墳(終末期:副葬品不明:県主の墳墓 ?)
     [ 〃 - 円墳] 黒山古墳群・片山古墳
(方円墳)
     [ 〃 - 古墳] 多々良寺山古墳群
(終末期)・多々良ゴルフ場古墳群・塚原古墳群(終末期)・片山古墳群・中浦瀬の上古墳・
           台ヶ原古墳群・向山古墳群・丸山古墳・ 佐野峠古墳群・岩淵古墳・柴山古墳群
(終末期)・大崎岡古墳・
           奥正権寺古墳・玉岩屋古墳・大崎東谷古墳群・大崎江良古墳・江良弘法山古墳群・江良霞山古墳群・
           奈美松ヶ谷古墳・ 脇古墳・大内西古墳群
(終末期)・大内東古墳群(終末期)・沖原古墳群・岩畠古墳群・
           岩畠宇津和古墳・木部古墳・浮野古墳・赤石古墳・田島山上地古墳・井出山
(真尾:猪の山?)古墳群・
           女山古墳群・ 黒山古墳群・高井山寄古墳群・水津邸内古墳・惣社古墳・迫戸古墳・鋳物師古墳
(県主の墳墓 ?)
            
・天神山古墳(環頭太刀の柄頭など出土)・桑山塔ノ尾古墳(5〜6世紀と推定説・来目皇子とされている ?)
 【周南市-前方後円墳】 耳取古墳・
竹島古墳(竹島御家老屋敷古墳:都怒国造であった武内宿禰 たけうちのすくね一族の子孫の墳?)
     [ 〃 - 古墳] 源氏原古墳・曾根古墳・法安寺山古墳・南野古墳・上内谷古墳・堂山南古墳・伝堂山石棺・武井比丘尼迫古墳
          ・上岡原古墳群・文化堤古墳・向原古墳群・西久米古墳・ 天神山古墳群・しだか迫古墳・岡ノ原古墳群・
           稲荷山古墳・田中古墳群・五月ヶ浴古墳・久米ヶ岡古墳・追迫
(弁慶穴)古墳・横田古墳・大神石棺群・
           河内古墳群・永源山墳墓群・高田古墳・慶法山古墳・天王畑古墳・毘沙門山古墳・三軒屋古墳・弁財天山古墳
          ・羽島古墳群
 【下松市-前方後円墳】 花岡古墳・天王森古墳・天王森西古墳
     [ 〃 - 円墳] 宮ノ州古墳
     [ 〃 - 古墳] 天王森古墳群・常森古墳・為弘古墳群・花岡古墳群・日天寺古墳群・尾尻古墳群・宮原古墳・山根古墳・
           荒神山石棺群・寺迫古墳・大河内古墳群・宮本古墳・下村古墳・時政古墳・瀬戸石棺
 【光市-古墳】 鯉川古墳・岩屋古墳・金山古墳・げんぺい塚古墳・千田古墳・末常古墳・宮尾古墳・筒井古墳・観音山古墳群・
        宮本古墳・懸山古墳・長徳寺古墳・門蔵山古墳
 【田布施町-前方後円墳】 納蔵原古墳
(6代目-熊毛王?)
      [ 〃 - 古墳] 深田古墳・稲荷山古墳・坪曽古墳・京城古墳群・友兼古墳・広井古墳群・吉行山墳墓群・疫神古墳・
            宮田古墳群・後井古墳群・田熊古墳・上大田古墳群・ 前大田古墳群・相ヶ迫古墳・石走山古墳群・
            天王原古墳・御蔵戸古墳・八海古墳・鳥越古墳群
 【平生町-前方後円墳】
白鳥古墳(県内最大)・神花山古墳(20代の女性埋葬)・阿多田古墳
     [ 〃 - 古墳] 名切古墳・野稲古墳・阿多田古墳群・宇津和古墳・鯉頭古墳・徳万古墳・宮畑古墳・新屋古墳・
           東前寺古墳群・丸山古墳群・宮原古墳・大木崎古墳・山田古墳・清水古墳・地方古墳
 【上関町-古墳】ヒロイヤス古墳・寺山古墳
 【柳井市-前方後円墳】
柳井茶臼山古墳[4世紀終から5世紀初め:  龍鏡 だりゅうきょう(単頭双胴怪獣鏡)出土・倣製鏡・国内最大鏡
              :周防国造の周防凡氏・周防氏の墳墓?]

     [ 〃 - 古墳] 上八古墳・大和田古墳・八幡山古墳・山ノ神古墳・梶ノ森古墳・上大祖古墳・山ノ口古墳群・
           日積茶臼山古墳・多田野古墳
 【周防大島町-古墳】 小浜古墳群・塚穴原古墳・庄地古墳群・宗光古墳・野田古墳・椎の木古墳・安迫古墳・貞盛古墳・
          江の内古墳・安高古墳・城山古墳・今屋古墳群・長尾古墳・地福山古墳・高月古墳
 【岩国市-古墳】 用田古墳・北方古墳・大元古墳・上段古墳・へころがき古墳・樋面古墳・清水古墳・寺田
(瀬田上)古墳
        ・筏山古墳・臼田古墳・猿ヶ谷古墳
 【長門市-円墳】 白潟第2号古墳・三上山1-2号墳・本油谷古墳・平畠下古墳
  [ 〃 - 古墳] 提床古墳・稼塚横穴群・緑ヶ古墳・森ヶ岨横穴群・前方古墳・則国古墳・川尻岬古墳・越の浜古墳・
        本郷亀山古墳・亀山古墳・十ヶ森古墳・大川尻古墳・赤崎古墳群・長行古墳
 【美祢市-円墳】 横道古墳・宮ノ前古墳群・秋吉八幡宮古墳・大里古墳
  [ 〃 - 古墳] 内川古墳・旦箱式石棺群・瀬戸古墳・疫神石棺
 【萩市-円墳】 須佐地古墳・皿山古墳・重地古墳?
 [ 〃- 古墳] 田添横穴・小島古墳・塚穴古墳・串山石棺・塔ノ郷石棺群・円光寺穴観音古墳・松崎古墳・湊古墳・長添山古墳
      ・大蔵古墳・赤塚古墳・江津石棺
 【阿武町-円墳】 山崎古墳
 
 

  
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