[三国志]魏志東夷伝倭人条〔通称=魏志倭人伝〕 「内容は、個人的な解釈です。」 〈池田 成臣〉 魏志倭人伝は魏の後継の晋国の著作朗という官職にあった【陳寿ちんじゅ】が、書いた書物で正史ですから、信頼性が高いとされています。 陳寿は蜀の国で、233年に生まれ297年に65歳で亡くなっています、邪馬台国の女王の卑弥呼とほぼ同時代の人です。 魏志倭人伝は正式には「三国志」魏書巻30東夷伝倭人条の略称で、2008文字の漢字から出来ています。 (東夷= 注釈 ♯1) 「三国志」全65巻は、280年〜289年に完成しています、429年に宋の文帝の命令で裴松之(はいしょうし:371〜451)が、 「三国志」の「注」を完成させています、「注」を含む「三国志」が、その後、歴代王朝で木版本が刊行されています、 木版本には6種類ほどありますが、12世紀中葉に作られた南宋の紹興本がよく使われているようです。 「三国志」は「魏書」・「魏略」・「呉書」・「漢書」を元に編集されている。 「魏略」=後漢時代の使者の旅行記を元にされている、→(邪馬台国への行程は、ここにある) 「三国志」の作者【陳寿】も「魏略」を、そのまま採用し、他に外交記録から抜き書きをする。 ※ 以下、青色文字は、注釈 & 参考図 に リンク します。 『後漢書ごかんじょ』(巻八十五 東夷列伝第七十五) 【倭国に関する記述】 ◎ 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 【西暦57年、倭奴國から自称大夫(注釈-♯18))が朝賀し、光武帝が印綬(参考図-12))する】 ◎ 安帝永初元年 倭國王帥升等獻 生口(注釈-♯24))百六十人願請見 【西暦107年、倭國王帥升(すいしょう:注釈ー#6)ら奴隷160人を持って朝見を願い出た】→漢朝の返答? 【歴史年表】 【魏志倭人伝ー注釈】 # 1 :東夷(とうい) 漢民族は、自らを「華夏 かか:黄河流域に暮らす部族で漢民族」と呼び、周辺の諸民族を文化的に劣ったものとして 見下して「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」と呼ぶ、 ・夫餘国(夫余:ふよ:満州の民族)・高句麗(こうくり:#3 参照)・ ( 貊:わいはく、かいはく:ツングース系民族)・倭人(倭国) ・韓(三韓=馬韓 ばかん→後の百済 くだら:辰韓 しんかん→後の新羅 しらぎ:弁韓 べんかん→後の任那 みなま(日本で命名:韓国名は伽邪 かや・ 加羅 から)・東沃沮(沃沮:よくそ:韓民族?:半島北部の日本海に沿った地方)・肅慎氏( 婁 ゆうろう:外満州に存在した部族)・他 # 2 :燕(えん・紀元前1100年ごろ〜紀元前222年)は、中国に周代・春秋(しゅんじゅう)時代・戦国時代に渡って存在した国。春秋十二列国の一つ、 また戦国七雄の一つ。河北省北部、現在の北京を中心とする土地を支配した。首都は薊(けい)で、現在の北京にあたる。 # 3 :高句麗(こうくり・紀元前37年〜668年)は、ツングース民族による国家であり、最盛期 は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。 半島南西部の百済・南東部の新羅 とともに朝鮮半島における三国時代を形成。事実上朝鮮半島最古の王朝。漢王朝の頃より発生し 中国史書にも記録されている。中国分裂に乗じて313年、楽浪郡を滅ぼす。 560年、高麗(こうらい)と改称。現代も使われる「コリア」の呼称はこれに由来している。 668年、中国・唐により占領され滅亡。 世界帝国である隋・唐の攻撃を数度にわたって撃退した事実は特筆に価する。 # 4 :王莽(おうもう)は新朝の皇帝。即位前の爵位は安漢公。『漢書』等に記されている「莽」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。 前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟に当たる。王曼(おうまん)の次男、クーデターまがいの手段で 一挙に実権を握り、元帝の孫で9歳の平帝を擁立し、この平帝を紀元後5年に毒殺し、自ら天子の位についた。 # 5 :[漢委奴国王] 金印の「委奴」三通りの読まれ方 (1)倭奴=「やまと」説:「漢の委奴(やまと)の国王」と読む。 「旧唐書」で(倭国は古の倭奴国なり)があり、 700年代から中国に(日本)と呼ばれるようになると、「旧唐書」以降の史書は 日本の前身を「倭奴国」としているからの理由。・・・しかし【「漢書」から「随書」にいたるまで日本は「倭国」とされている】 (2)委奴=「いと=伊都」説:「漢の委奴(いと)の国王」と読む。 「倭」と「委」は発音が異なる、中国では「音」が一致する場合に「渡を度」・「鏡を竟」のように、偏などを省略することがあり、 「委=イ」と「倭=ワ」では「音」が一致しないため省略出来ない、倭と委は別々の文字である。 伊都国には「一大率 いちだいそつ」があり、太宰府の長官は「帥 そつ=率 そつ」と呼ばれていることから、伊都は太宰府の起源であり、 「魏志倭人伝」の伊都国に到る原文の(丗有王皆 統属女王國 郡使往來常所駐)は、代々の伊都国王は(女王国)を(統属)し、 軍事・経済・政治の拠点で、「卑弥呼」はシャーマン的な存在であった。 (3)「漢(かん)の 委(わ)の 奴(な)の 国王」と読む。 呉音・漢音に「倭」は「委」と同じ「イ」音があり、音通する。したがって「人編 にんべん」の省略(鏡→竟と音通する文字は省略 していた)が、可能になる、しかし「委」=「ワ」音でなくなる。 現在の「委」には「ワ」音はないが、奈良時代の木簡に「イワシ」のことを「伊和之・伊委之」の例があり、かって「ワ」で 音通していた。 日中とも現在「ワ」音は消失しているが、「委=ワ」と発音した可能性はある。 建武中元二年(紀元57)に「光武帝記」に「東夷倭奴国王 遣使奉献」とあることから(委=倭)である。 「漢委奴」の意味、前漢・後漢が周辺の民族に与えた官印は66例あり、[漢(王朝名)+民族名+部族名+官職名]が多く収録されている、 内臣には漢王朝名はつかないが、倭国は直属していない外臣であるため漢王朝名が付く、 ゆえに、(1)の「ヤマト」は(民族名)であり(部族名)が無い、 (2)の「伊都国」は、「一大率:#22 参照」と「統属女王國 」の解釈に無理がある、 (3)の[漢(王朝名)+委(民族名)+奴(部族名)+国王(官職名)]と読む説が、正しいように思われる。 (倭国の官職名の「国王」は、漢王朝から、民族の規模・親和度などで最高の官職に任命されていたようだ) # 6 : 帥升(すいしょう)は、弥生時代後期の倭国の王。 日本史上、外国史書に名の残る最初の人物( 帥升の次に現れる人物は卑弥呼である) 帥升の所在地も様々な説があるが、憶測の域を出ない。『後漢書』に「倭面土國王」(「倭面上国王」の説もある)とあり、 通常は「倭國王」の誤記だと考えられている。 しかし、研究者のごく一部は、「倭面土國」という国が存在し「ヤマト」と 読んだとして、現在の奈良県に比定しているが、ほとんど支持を得られていない。 この他、帥升は奴国王位を継承したとする説、伊都国王だったとする説などがあるが、北部九州に所在していただろうという点で、 ほとんどの研究者が一致している。 倭奴国は後漢に王として承認されたが、帥升は王と認められなかったとする説がある。 一方、『後漢書』に「倭国王」と記載されていることを根拠に、倭国王として認められていたとする説もある。 # 7 :[倭国大乱] 倭国には代々男子王がいた(7〜80年間)が、倭国は争乱状態となった。争乱は何年も続いたが、最終的に邪馬台国の 卑弥呼を倭国王とすることで争乱は収まった。以上の内容が、中国の正史である『三国志』(魏志倭人伝)や『後漢書』(東夷伝) に記述されている。【別記:倭人伝と日本書紀の相対年期 #-32】 「後漢書」卷85 東夷列傳第75:「桓靈 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」 [桓帝・霊帝の治世の間(146年〜189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、「何年も王がいなかった」、一人の女子が現れた、 名を卑弥呼と言い、年長になっても嫁かず、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、ここに於いて王に共立した] # 8 :帯方郡(たいほうぐん)解放。 倭国と朝鮮半島との交易は可能であったが、「呉 ご」と「燕 えんの公孫氏」が同盟関係にあり(参考図ー2) 黄海は紛争地域のため洛陽には行けなかった、238年に「魏」が「公孫氏」を倒した為、239年に卑弥呼は使者を洛陽への渡航が 可能になった、「魏」は情勢の不安定な時期に、三韓の後方からの朝献(ちょうけん:王朝に献上)の知らせは、味方の欲しい「魏」に とっては、願っても無い援軍と歓迎される。 # 9 :奈良時代まで日本語の母音は8音韻あり、「イ」「エ」「オ」の母音には甲類( i、e、o)と乙類( I、e、o )の音韻があった、 「邪馬台国」における「邪馬台」は[yamato ](山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。 筑紫の「山門」(山の入り口)は[yamato]であり、音韻が異なる。 # 10:非漢字国(国 または 人名)を漢訳する場合は、好字ではなく 悪字(侮辱文字)邪・奴・卑・狗・鬼 などの文字を使っていた。 # 11:中国の歴史書 三国志などの中国歴史書(正史)は、前の王朝から受け継いだ正統王朝である事を証明するため、前王朝の歴史書を書く と いうことが大前提となっています、倭国のことは、「漢書」の正史に初めて記述されています。 # 12:歴代の歴史書の倭人伝の書き出し 「倭人は帯方郡の東南の大海の中にあって・・・・・かっては百余国に分かれ・・・・・・」、 この帯方郡の地名を→「漢書=楽浪」・「後漢書=韓の南」・「宋書=高麗の南」・「晋書=帯方」・「随書=百済、新羅の南」と 替えて記述。 # 13:後漢書(ごかんじょ)は、「三国志」時代より100年後( 5世紀)に、南北朝時代の「宗」(389〜445年)で編集された。 # 14:梁書(りょうじょ)は、「梁」(502年〜557年)の歴史を記した歴史書。 中国正史の一つで、629年に「陳」の姚思廉が成立させた。 同時期に完成した『晋書』等の官撰の正史とは趣きを異にし、司馬氏父子の『史記』等に通ずる私撰の史書としての意味合いを 持っている。 内容にも(倭国には、牛のような獣がおり、名は山鼠。また、この獣を呑み込むという大蛇がいる。 その蛇皮は堅くて叩き切れないが、頭上に孔があり、開いたり閉じたりして、時には光を発するのだが、この中を射れば、蛇は死ぬ) と、史書の趣を越える記述もある。 # 15:古代の航海 # 16:『魏志-韓伝』「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」 韓は帯方の南に在り、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する(陸続き=狗耶韓国=倭国)方可(およそ・ぐらい) 4千里 【方=方形(四角)面積で一辺が、およそ 4千里】 注・(参考図ー11:古代アジア地図参照)朝鮮半島は大きく認識されている、 洛陽〜帯方郡の五千里(魏の里程図)と比較すると、帯方郡〜半島南端までの距離は、ほぼ 方可 4千里に等しい、 この図から、しばらく南へ 4千里・しばらく東へ 3千里進めば、帯方郡〜狗耶韓国の距離は七千里になる。 # 17:末廬国→伊都国 ・「末廬国から東南へ陸行」と有りますが、末廬国の集落を唐津付近と推定すると、そこから東南は 背振山地で山越えになります、 ・末廬国は、東松浦半島の先端に寄港し、そこから末廬国の集落には寄道せず(末廬国の官吏の記載なしは、その為か?)地形的に、 東南に水行で唐津湾を横切り、船旅の最終目的地である伊都国の津(しん=港)に到着し、大率の臨検を受けたと思われます。 # 18:太夫(大夫たいふ)=秦・漢代に御史大夫(ぎょし)という、皇帝の側近の筆頭役職があった。 (魏では太中大夫→外交官)・・・渡来人だから知り得た役職。 # 19:夏(か)王朝(紀元前2070年頃 〜紀元前1600年頃)中国最古の伝説の王朝とされてきたが、近年 考古学資料の発掘により実在が見直 されてきている。 # 20:蛟龍(こうりゅう)=中国伝説の龍で、まだ 龍に成っていない龍。[蛟 (みずち)は四本の足を持っておる] 「蛟龍の害をさけた」=蛟は水中に潜む と されているため、 刺青で害をさけた。(帝国海軍は潜航艇を「蛟龍」と名付けた) # 21:亀卜(きぼく)=古代中国で行われた占いの方法。亀の甲に錐(きり)で穴をあけ、そこに焼けた棒を差し込み,その時 生ずるひび割れ によって吉凶を 占う。 殷代には占いのなかで最も重要な位置を占めた。 # 22:一大率(いちだいそつ)=色々な学者が論じております、「率」というのは軍団の長です。 ・松本清張さんなどは、これは中国・魏の軍隊が駐留していたしていたという証拠であると言われている。 ・別説-2:「一大率」は「一大国」の「率」である。その軍団の長だと考え、壱岐から「魏」の軍団が来て「伊都国」に常時駐在 している。 ・別説-3:卑弥呼の王権によって任命された派遣官で倭国の官人である、その官名は 城郭の四方を守る将軍である大率に由来する。 ・(魏の役職で ○○率はあるが 大率の役職は無し、後の百済では大率の役職あり) 【漢文で、単数の場合は「一」は読まずに解釈するのが流儀(枕詞?)=(一人の)大率】 # 23:年已長大=「三国志」の中に【丕(曹丕 そうひ:魏の皇太子)の、業(皇帝)を継ぐに逮(およ)ぶや、「年巳」(すでに)に「長大」 (年頃)】の記述があり、「呉志七」の(文帝紀)に曹丕(魏の文帝)は、このとき「三十四歳」であった。 『三国志』の著者陳寿は、この表現を「三十代半ばをさす用語」として使っていて、同類の用例は他にもあり、 同じ年齢を指し示している。 # 24:生口(せいこう)は、弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。 ・生口は元来、捕虜を意味する語であるため、捕虜を起源とする奴隷的身分であると考えられている。 ・時代的に献上物が豊富ではなく、そのため生口を送ったと見る向きもある。ただし異論も多く、捕虜と関係ない奴隷とする説や、 あえて中国へ献上されていることから、単なる捕虜・奴隷ではなく、何らかの技能を持った者とする説もある。 ・さらに中国への留学生とする説もあった。 ・魏志倭人伝の記述から、弥生時代後期に奴婢という奴隷階層がいたことが判っている。生口が奴婢と全く別の存在なのか・ 重複するのかは、論が分かれている。 (生口は倭国だけのものではなく、396年 百済が高句麗に大敗したため、生口を高句麗へ献じたこともあります) # 25:装封(ふうたい)=封泥(ふうでい:金印などの包装の封印) ・重要物品を入れた容器や公的内容を記した木簡・竹簡の束を封緘すると共に、責任の所在を示す証明書として用いられた粘土 の塊のこと。 ・封緘、保管、輸送などを担当する責任者を記す記号や文字が刻まれたり、印が押捺されているのが普通。 ・物品輸送の際の封緘や証明だけでなく公文書の封緘にも用いられた。紙が発明される以前、文書はすべて木簡・竹簡に書かれ、 それを紐でつなぎ合わせて巻物状にして保存していた(簡冊)。 通常は紐などでくくっていたが、公文書の場合は封泥が封緘に用いられた。 ・木簡・竹簡は、紙と違って削るだけで改竄(かいざん)が可能なため、厳重に封をかける必要があったのである。 # 26:魏時代の質量単位 ・匹=反物の単位(日本における、布地のながさ単位=反と同じような単位) ・両(りぃあん)= 50 g / 両(重さの単位) ・斤(じん) =500 g / 斤(重さの単位) ・尺= 24 cm/尺(長さの単位:現代に近づくほど長くなる) # 27:百歩(ぶ)余り=160 m 歩(ぶ)=長さの単位=1.6 m /1歩 [1歩(ぶ)=右足を踏み込み、次に左足を前に出した長さ:日本の2歩(ほ)にあたる(身体尺)] # 28:奴婢(ぬひ) ・律令制における、良民(自由民)に対する、賤民(自由のない民)の中の位置づけの一つであり、奴隷階級に相当する。 ・奴は、男性の奴隷。婢は女性の奴隷を意味する。 ・奴婢は、一般的に職業の選択の自由、家族を持つ自由、居住の自由などが制限されており、 一定の年齢に達したり、その他の条件で解放される場合もあった。しかしながら基本的には家畜と同じ扱い # 29:三国志-勢力図 (参考図ー2) ・倭国と朝鮮半島との交易は可能であったが、「呉」と「燕の公孫氏」は 同盟関係にあり、黄海は争乱のため洛陽には 行けなかった、238年に「魏」が「公孫氏」を倒した為、239年に卑弥呼の使者は、洛陽への渡航が可能になった。 ・魏は情勢の不安定な時期に、三韓の後方からの朝献の知らせは、味方の欲しい魏にとっては、願っても無い援軍と 歓迎される。 三国の活躍時期 : 「魏」220〜265 「蜀」221〜263 「呉」222〜280 # 30:魏志倭人伝-里程図 1)連続式読み方 :帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里を魏志倭人伝の記述に沿って表した図です、 2)放射式読み方-1:伊都国から三方に行く、邪馬台国は長崎半島を回り、南に水行十日の行程か、又は 陸行一月の行程で行く。(参考図−9) 投馬国へは、倭国は南北に長い(参考図−11)と認識していて、南に行くと記述されたかも ?(参考図−10) 3)放射式読み方-2:伊都国から二方に行く、これも(参考図−10)のように、倭国は南北に長いと認識した、 倭人伝の南行の記述 ?(近畿説に多) # 31:金印・銀印・銅鏡 の行方? ・魏から賜った、卑弥呼の「親魏倭王」金印・銅鏡百枚 と 難升米・牛利の銀印2個 及び 掖邪狗ら八人には等しく印綬 を授けた、また 壹与も献上しているから印綬されたと思うので 計 12個の金印・銀印 及び 五尺刀(1.2 m:環頭大刀?) が国内にあると思う、一つでも出土すれば「邪馬台国」の所在を示す鍵になると思われます。 ・卑弥呼が魏から賜った銅鏡100枚の種類(?) 「方格規矩四神鏡」は、前漢末〜後漢の製作で時代が少し古い(北九州で多く出土):青龍三年(235年)製作の復古鏡(倭国製?) が、近畿で多く出土。 「内行花文鏡 」は、後漢時代において最も中国で普及した。日本の古墳から出土した鏡に倣製鏡も多くあるようです。 倣製鏡( 製鏡 ぼうせいきょう:倭国製) ≠ 舶載鏡 はくさいきょう(中国製:楽浪郡でも作られた) 「画文帯神獣鏡 」は、後漢後半〜三国時代に作られたが、中国では「呉」のあった揚子江流域(江南)で多く出土している ようです、日本で約150面の出土があるといわれる。これに対して中国での出土は、約80面だそうである。 日本で出土した画文帯神獣鏡には、どうも日本で作られた物もあるらしい。 「三角縁神獣鏡 」は、倭国製の説が多く(景初3年 239・正治元年の年号が多い)近畿を中心に全国で、4世紀以後の古墳に 500 面ぐらい出土。中国では出土なし。 # 33:方可四百里 およそ、四角い面積でみると、一辺が四百里の大きさの島。 方=方形(四角:前方後円墳の方と同じ)の、面積の一辺 可=およそ・だいたい |
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