【松本清張の邪馬台国論】  2013//11/4 河野省三
 
  
先ずは何故松本清張を取上げたか ? 述べなければならない。
「魏志倭人伝」は足かけ5年間も学んでいる。その間、関連する文献や参考書籍も多数読んだ。
 けれども、今ひとつ心の隅に納得のゆかない部分が残っている。多くの学者、先生が「魏志倭人伝」をいろいろな角度から精緻に解説しているが、
 これだという説に出合えないでいる。私は五里霧中の状態でいる。
  と
りわけ、奴国から不弥国、投馬国を経て邪馬台国に到る「投馬国水行二十日・・・邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月」いわゆる『水行陸行』
 の部分が判らない。どういう訳か、ここの箇所にくると、先生方はさらりとかわすか避けるかである。
 こんなことで無為に過ごしている時に、私が求めていたそのものずばりの文庫本『陸行水行』(文春文庫)を見つけた。 喜び勇んで『陸行水行』
 を読んだのは言うまでもない。しかし、残念ながら、松本清張も当然ながら肝心の部分は明らかにせず筆を置いている。

  ここまで述べたので、『陸行水行』を紹介しておく。
『陸行水行』は週刊文春63年11月から64年1月までの7回にわたって連載された。松本清張が始めて古代史ミステリーに取組んだ記念すべき第一作で
 あり、これをスタートに本格的に古代史に取組むことになる。

 【陸行水行】
 物語は、大学講師(私)が篤学の士か詐欺師なのか不思議な郷土歴史家(主人公)に出会い、
彼の邪馬台国説を聞く。 彼の持論は糸都国は福岡県朝倉村の恵蘇、不弥国は安心院、投馬国は臼杵、
邪馬台国は阿蘇近辺だという。阿蘇近辺なら魏志倭人伝でいう「水行十日陸行一月」の地にあては
まる。 そして、主人公は、九州の歴史愛好家に資金を出させ、邪馬台国探しの旅に出る。 
魏志倭人伝に書いてあるルートの末盧から不弥を徒歩でたどり、さらに安心院盆地を流れる駅舘川
(ヤッカンガワ)を水行し海岸に出る。 さらに、小さな漁船を買い、水行十日陸行一月の旅に出て、
国東半島の先端をまわったところで船が転覆してしまい死んでしまう。
「この男達は決して南を東に見違えることはなかった」と最後の行に書き加えられている。
この小説は、魏志倭人伝の方位や距離を忠実になぞっているところに特色がある。
主人公があっけなく遭難してしまいこの『陸行水行』は何だったのか(?)が分らないのは残念だが、
松本清張自身も確かな自信はなく、この程度で筆を置いたのであろう。   ちなみに、松本清張は、
邪馬台国は筑後川下流流域の地にあったとみる筑後国山門郡の説に賛成している。 (古代史疑)
  さて、本題に入ろう。私の本意は松本清張の邪馬台国論にある。
 松本清張の魏志倭人伝に関する見解、主張は、数々の書誌の中で紹介され引用されており無視できない存在である。とにかく松本清張の推理力、
 論理力は卓越している。 ここで、松本清澄の代表作「古代史疑」を紹介することにしたい。
 「古代史疑」は66年6月から67年3月まで中央公論に発表された。その論は単に推理に止まっていない。それぞれの立論に対して既存の研究を顧み、
 その問題点を提起してゆく方法を取っている。
 「古代史疑」は3世紀の日本/大和か九州か/私はこう考える/魏志の中の五行説/卑弥呼は誰か/卑弥呼論/稲の戦い/一大率・女王国以北/
 結語の9章で構成されていて、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国論を展開している。

 以下に各章の松本清張の主張をピックアップしてゆくことにする。
(1)三世紀の日本
  この章の「倭の女王」のところで、「当時北九州には卑弥呼という女王の統轄する女王国があった」と延べ、松本清張は九州説であることを
 明確にしている。
(2)大和か九州か(簡単な学説史)
  ここでは「一般からいえば邪馬台国は九州であろうが畿内であろうかどちらでも構わない」と述べながら「邪馬台国の所在が日本国家成立を
 推定する大きなカギである」と重要性を言う。ひととおり、九州説、畿内説の主張を紹介している。私にとっては非常によく整理され理解しや
 すい解説がされている。
 この章で、榎一雄の「放射線方式」を批判している。
(3)私はこう考える
  まず方向の問題で「私はやはり魏志のとおりに帯方郡から邪馬台国にまでの方向をすべて『南』と解したい。原典はなるべくその通りに素直
 に読むべきだと思う」と述べている。
(4)魏志の中の五行説
  陳寿が五行説思想によって、倭の戸数、里数、日数を設定したというのが松本清張の考えであり、陳寿が勝手に数字合わせしたのであるから
 魏志倭人伝の里数、日数はまことにナンセンスなものであるとした。
(5)卑弥呼はだれか
  邪馬台国という国名は魏志倭人伝にたった1ヶ所しか出ていない。すなわち、「南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」
 のくだりである。あとは女王国や倭が頻繁に出てくる。この女王国は女王が統属する国々の連合体であり、邪馬台国は一地方の国であるとした。
(6)卑弥呼論
  松本清張は、「卑弥呼をヒミカとし、台与をトヨとして、この二つとも北九州のいずれかにあった地名とし、二人の巫女はそこより邪馬台国
 の呪術者として迎えられた」という考えである。
(7)稲の戦い
  米の栽培法がどこから日本にきたかということは邪馬台国問題を解く上に一つの手がかりになるとし、大乱の動機は狗奴国が女王国の米の生
 産地を奪うために仕掛けた戦いであり、最終的には女王国が勝利したと推理した。
(8)一大率・女王国以北
  魏志倭人伝の難問の一つでこの「一大率」をどう解釈するかで女王国の実態解明がかなり違ってくるとし、松本清張の考えは、魏の命をうけ
 帯方郡から派遣された女王国以北の軍政官であるとした。この独創的な説は生涯をかけて考究し続け何度も新聞紙上に補強の論を発表した。
(9)結語(推論の要約)
 1)邪馬台国のいずこにあるかという疑問に対してはこれを九州説とするのに賛成し、卑弥呼についてはこれを邪馬台国の巫女とする説をとる。
 2)魏志倭人伝の方向の記事は信じてよい。
 3)里程や戸数の記載は虚妄の数字である。            
 4)卑弥呼の塚は必ずしも高塚と思われないから高塚の出現地である古代大和でなければならぬという理由はない。その径百余歩の塚も、中国
   の風俗を写した陳寿の創作である。
 5)邪馬台国は銅剣・銅鐸文化圏において成立した国家であり、また別の国家が存在しており、文化的、政治的に対立していた。
 6)邪馬台国は筑後川下流流域の地にあったとみる筑後国山門郡の説に賛成。

  なお、松本清張は、九州政権が東遷して大和政権の母体になったと考えている。
 また、最後の方では江上説の騎馬民族説に魅力を感じており、帯方郡の滅亡後、北九州に上陸して、女王国を併呑して狗奴国を敗亡させて九州
 一帯を統一した騎馬民族的な性格を持つ北方系の朝鮮経由の第三勢力が、北九州から大和へ政権と種族の移動が行われたと思うと述べている。

  以上のとおり要所のみを抜粋した。既往の学者・研究者の学説と異なる見解も多くあり、一方、妙に納得させられる解釈もある。とにかく
 松本清張の探求心は旺盛である。魏志倭人伝を推理するだけでなく、「東夷伝」の記事に対比して論拠し、稲の起源を探究し、広範囲な研究、
 調査を行った上で論述している。
  あの多忙な作家がどのように研究し執筆したのか知りたいところである。きっと並々ならぬ情熱があったに違いない。松本清張は「古代史疑」
 のは発表のあとも「古代探求」、「清張通史沁ラ馬台国」などを次々に書き上げ、松本清張の「邪馬台国論」をまとめ上げたが、それで満足する
 ことなく、以後も次々に邪馬台国論を探求し、新説や自説を発表し続けた。

  最後になるが、私の邪馬台国は未だ雲の中を彷徨っている。中途半端で浅学な私の勘では南九州の中の日向国とりわけ神秘的な高千穂あたり
 に惹かれている。 

 

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