【日本書紀ー要約】 [下巻:その2] {*(アスタ記号) または( )内は、個人解釈 〕 |
|||||||||
【第31代 用命(ようめい)天皇】 生誕不詳 在位=585年?〜587年? (古墳時代後期) 〈相関図参照〉 欽明天皇の第四子である。母は蘇我稲目の娘(堅塩媛きたしひめ)。 宮を磐余(いわれ:桜井市阿部磐余池の辺:map)の地に造った。(45歳で即位?) 物部守屋を大連(おおむらじ)に、蘇我馬子(墓は石舞台古墳?:map)を大臣(おおおみ)は、もとの通りであった。 穴穂部皇女(母の妹の子:欽明天皇皇女)を皇后として、四人の男子が生まれた。 一番目は厩戸皇子(うまやどのみこ:後の聖徳太子)。二番目を来目皇子(くめのみこ:初代の征新羅将軍)という。 后(豪族葛城の娘)は、麻呂子皇子(二番目の征新羅将軍)を生む。 586年:穴穂部皇子(あなほべのみこ:用明天皇の異母兄弟)が、皇太后(後の推古天皇)を犯そうと宮に押し入ったが、 天皇の寵臣(ちょうしん:お気に入りの家臣)が防いだ。 穴穂部皇子は、物部大連守屋と蘇我大臣馬子を呼んで「無礼な寵臣を斬り捨てたいと思う」。両大臣は「仰せのままに」と言った。 穴穂部皇子は、ひそかに天下の王たらんことを企てて、物部大連守屋を遣わせて、兵が宮を囲んだ。 蘇我大臣馬子は、穴穂部皇子を諌めたが聞き入れず、穴穂部皇子は宮に向かったので、やむなくついて行った。 まもなく 物部大連守屋が「寵臣を斬って参りました」と言った。 このため、皇太后(後の推古天皇)と蘇我大臣馬子は、穴穂部皇子を恨むようになった。 587年:天皇は、病にかかられて群臣(くんしん:多くの臣下・諸臣まえつきみ)に「自分は、仏・法・僧の三法に帰依したい」と言った。 群臣は参内して相談したが、物部大連守屋と中臣勝海は、勅命の会議に反対して「どうして国つ神に背いて、他国の神を敬うのか」と言った。 蘇我大臣馬子は「詔に従ってご協力すべし」と言った。 穴穂部皇子は、法師を連れて内裏に入られた。 物部大連守屋は、これを睨んで大いに怒った。 群臣の一人が物部大連守屋に「今、群臣が、あなたをおとし入れようとしています」。 物部大連守屋はしりぞいて人を集めた、中臣勝海は、家に兵を集め、物部大連守屋を助けようとした。 ついに 穴穂部皇子は、太子彦人皇子(ひつぎみこ:敏達天皇の皇太子:押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子(敏達天皇と推古天皇の皇子)の像(ひとかた)を作って呪った。 土師連はじのむらじ)などは、手に弓矢を持ち、蘇我大臣馬子の家に行き、昼夜を分たず大臣を守った。 ・天皇は、疱瘡が重くなり、まもなく 崩御した。(47歳?) 在位=3年 陵(みささぎ)は、河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ:大阪府南河内郡太子町:map)に治定(決定)されている。 * 敏達天皇崩御を受け即位。蘇我稲目の孫でもある用明天皇は、敏達天皇とは違って崇仏派であり仏法を重んじた。 一方、危機感を持った廃仏派の筆頭である物部大連守屋は、欽明天皇の皇子の穴穂部皇子と通じていた。 * 聖徳太子による法隆寺の建立は、元々用明天皇の病気平癒のために、天皇の願いを受けて太子が寺の建立を誓ったからだとする説がある。 【第32代 崇峻(すしゅん)天皇】 誕生:553年 587年?〜592年? (古墳時代後期) 〈相関図参照〉 欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の娘・小姉君で、敏達天皇、用明天皇、推古天皇の異母弟にあたる。 587年:大臣(おおおみ)の蘇我馬子(墓は石舞台古墳?:map)によって推薦され即位した(34歳:倉梯柴垣宮:map)。 一方 大連(おおむらじ)の物部守屋は、穴穂部皇子(あなほべのみこ:用明天皇の異母兄弟)を即位させようとはかるが、蘇我大臣馬子は、 土師連(はじのむらじ)磐村等「穴穂部皇子と、仲の良かった 宅部皇子(やかべのみこ:宣化天皇の皇子)を殺させた」。 その後、蘇我大臣馬子は、物部大連守屋を滅ぼそうと物部大連守屋の家に至った。 物部大連守屋は自らの子弟と兵士を率いて、稲を積んだ砦を築き、榎の木股に登り、上から眺め射かけること雨のようであった。 その軍は強く勢いが盛んで、攻める蘇我大臣馬子の軍は、恐れをなし三度退却した。 この時、厩戸皇子(うまやどのみこ:後の聖徳太子)は、瓢形(ひさごがた)の結髪をしていて、軍の後ろに従っていた。 何となく感じて、「もしかすると この戦いは負けるかも知れない。願をかけないと叶わないだろう」と言われた。 そこで急いで四天王の像(みがた)を作り、束髪の上にのせ、「今もし自分を敵に勝たせて下さったら、必ず寺塔を建てましょう」と誓いを立てました。 蘇我大臣馬子もまた誓いを立て、物部大連守屋とその子弟を滅ぼす。 これ以降、物部氏は没落してしまう。 物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、誓願の通りに、法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの、造寺事業を積極的に行った。 しかし、即位したあとでも政治の実権は常に蘇我大臣馬子が握っており、次第に群臣(くんしん:多くの臣下・諸臣まえつきみ)は、不満を感じるようになった。 591年:天皇は、新羅に滅ぼされた百済を再建させるため、2万余の軍を筑紫に出兵させる。 592年:猪を献上する者があった。 天皇は笄刀(こうがい:儀式用刀)を抜いてその猪の目を刺し「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている 者を斬りたいものだ」 と発言。 そのことを聞きつけた蘇我大臣馬子が、「天皇は自分を嫌っている」 と警戒し、部下に天皇暗殺命令を下した。 そして東国の調(みつぎ:献上品)を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で廷臣(ていしん:朝廷に仕える臣下)に暗殺をさせた。 ・崇峻(すしゅん)天皇の崩御は39歳。陵(みささぎ)は、倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ:奈良県桜井市:map)に治定(決定)されている。 * 臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。 死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。 *「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、蘇我大臣馬子個人の策動ではなく 多数の王族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している説。 * 蘇我大臣馬子の刺客として崇峻天皇を殺害した廷臣は、その月に、蘇我大臣馬子の娘である河上娘(崇峻天皇の嬪)との密通が露見し、 蘇我大臣馬子によって処刑された(崇峻天皇暗殺の口封じといわれている)。 【第33代 推古(すいこ) 天皇】 誕生:554年 在位=592年〜628年 (飛鳥時代) 〈相関図参照〉 |
|||||||||
[第 29代 欽明天皇]の皇女で、母は[蘇我大臣稲目]の娘[堅塩媛(きたしひめ)] [第31代 用明天皇]は同母兄、[第32代 崇峻天皇]は異母弟。[蘇我 大臣 馬子(墓は石舞台古墳?:map)]は、 母方の叔父。 28歳の時、[第30代 敏達天皇]の[皇后]となられた。 34歳の時、夫の[第30代 敏達天皇]が崩御された。 587年:[第31代 用明天皇]が2年ほど皇位に在ったが、崩御した後、 [穴穂部皇子:推古天皇の異母弟]を推す[物部 大連守屋]と[泊瀬部皇子(第32代 崇峻天皇)]を支持する [蘇我大臣馬子]が戦い、[蘇我氏]の勝利に終わった。(物部氏の没落) そこで[皇太后(額田部皇女:推古天皇)]が詔を下して[泊瀬部皇子(第32代 崇峻天皇)]に即位を命じたという。 592年:異母弟の[第32代 崇峻天皇]が[蘇我大臣馬子]に殺(しい)せられた。 先々代の皇后であった[額田部皇女]が、[蘇我大臣馬子]に請われて、豊浦宮(map)において、 [第33代 推古(すいこ) 天皇]に即位した。 時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった。 *ただし、[神功皇后と飯豊皇女(イイトヨ:17代 履中天皇の皇女:“記”では即位と記載)を歴代から除外した場合] |
|||||||||
*その背景には[皇太后]が実子の[竹田皇子(たけだのみこ):生没年不詳:父は敏達天皇、母は皇后(推古天皇)]の擁立を願ったものの、 [敏達天皇]の最初の[皇后:広姫ひろひめ:生年不明:豪族の娘]が生んだ[押坂彦人大兄皇子(第34代 舒明天皇の父)]の擁立論が、 [蘇我氏]に反対する勢力を中心に強まったために、[蘇我大臣馬子]と[皇太后]が、その動きを抑えるために[竹田皇子]への中継ぎとして、 [推古天皇]が即位したのだと言われている。 (だが、[竹田皇子]は間もなく薨去した。) 593年:そこで、甥の[厩戸皇子うまやどのみこ(聖徳太子)]を[皇太子(ひつぎみこ)]として、国政をすべて任された。 *[厩戸皇子]の父は[用明天皇(推古天皇の同母兄)]、母は父[用明天皇]の異母妹の[穴穂部間人皇女 あなほべのはしひとのひめみこ:生年不詳] 生母同士が実の姉妹関係の間柄であり、これが[竹田皇子]亡き後に おいて、[推古天皇]が[厩戸皇子]を起用する背景になったと見られている。 *[推古天皇]は頭脳明晰な人で、[皇太子(聖徳太子)]と[蘇我大臣馬子]の勢力の均衡を保ち、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。 在位中は[蘇我氏]の最盛期であるが、[推古天皇]は外戚で重臣の[蘇我大臣馬子]に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩したことがなかった。 ずっと後のことではあるが。(624年)に[蘇我大臣馬子]が葛城県(かつらぎのあがた:[蘇我大臣馬子]の本居とされる)の支配権を望んだ時、 [推古天皇]は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世から愚かな女と評され、あなたもまた 不忠だと謗(そし)られよう」 と言って。この要求を拒絶したという。 597年:百済から使者が来たり、新羅に使者を派遣したりする。 599年:地震がおきて建物がすべて崩壊した。 それで全国に命じて地震の神を祭らせた。 新羅と任那が戦った。 倭国は1万あまりの兵を派遣して新羅を攻略した。新羅王は、降服を願い出た。 「今後はお互いに攻めることをやめます、また 船柁(ふなかじ)が乾く間もないほど、毎年朝貢をします」と言う。 (古事記で、[神功皇后]の新羅遠征にも同じような文言があり、真似たようです) そこで、兵を帰還させた後に、 また 新羅は任那を犯した。 602年:[来目皇子(聖徳太子の弟)]を新羅討伐の将軍として、軍兵2万5千人と共に筑紫に赴いた。 この時、[来目皇子]は病にかかり、征討の役を果たせなくなった。 翌年に薨去したため、(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)周芳の国の娑婆(さば:防府市)に[土師連猪手 はじの むらじ いて]が 殯(もがり:仮埋葬)する。 後に河内の埴生山の岡上に葬った。 *その後、[土師氏]の子孫は、防府に土着し娑婆 連(さばのむらじ)となり、国衙(国庁)の国司(長官?)を勤める。 *[来目皇子]を殯した、桑山塔ノ尾古墳(宮内庁管轄)古墳の発見は、1785年、三田尻御茶屋(現、防府市英雲荘)に隠棲した、長州藩の前藩主・ [毛利重就(もうり・しげたか) ]が、桑山の塔ノ尾根に納涼亭を営(いとな)むための普請工事を起こしたことによる。 ・古墳は桑山の山頂から北東に派生する塔ノ尾根の標高45メートル付近に立地していた。現在の桑山護国神社広場の北側に小高く残る丘の上がそれにあたる。 ・古墳は発見直後に消滅したたものの、出土した遺物は[毛利重就]の命により、石の箱(石匣:せきこう)に収められ山頂に、小祠を設けて再埋納された。 ・石の箱には、発見から再埋納までの事情などが『石匣之記』として、[毛利重就]の侍講(じこう:君主に対して学問を講じること)を勤めていた [瀧鴻(たき こう)]によって刻まれている。 603年:[来目皇子]の異母兄の[麻呂子皇子]を新羅征討の将軍として、難波から船出したが、途中 妻が薨(こう)じたため、明石から引き返し、 ついに征討はやめになった。 ・[聖徳太子]はその才能を十分に発揮し、冠位十二階・十七条憲法を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。 607年:[小野 臣 妹子 おのの いもこ:生没年不詳:近江の豪族春日氏の一族:姓(かばね)は臣]を大唐(もろこし:隋)に派遣した。 【遣隋使】 翌年、[小野臣妹子]は大唐の使者を伴って帰って来た。 難波津に飾船三十艘で使者を迎えた。 このとき[小野臣妹子]は、「私が帰還の時、煬帝(ようたい:隋の第2代皇帝)が書を私に授けました。 ところが百済国を通る時、百済人が掠め取りました ために、これをお届けすることが出来ません」 と奏上した。 群臣(くんしん:多くの臣下)は、これを議(はか)り。 「使者たるものは命をかけても、任務を果たすべきであるのに、流刑に処すべきである」と言われた。 しかし[推古天皇]は「[小野臣妹子]の書を失った罪はあるが、軽々しく処罰してはならぬ。大唐の使者への聞こえもよくない」 と言われた。 赦して罪とされなかった。 ・中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていたが、初めて日本の独立を強調する目的で使節が派遣された。 ・594年に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、[推古天皇]は[聖徳太子]や[蘇我大臣馬子]と共に仏法興隆にも努め、 斑鳩に法隆寺を建立させたりした。 ・この年は、新羅の人が多くの帰化してきた。 608年:大唐の使者が中国に帰る時、[小野臣妹子]は随行して、翌年に帰還した。 614年:[蘇我大臣馬子]は病気になった。 [蘇我大臣馬子]の病気平癒を祈るために、男女千人を出家させた。 618年:高麗が使いをおくり、土地の産物をたて奉った。 そして「随の[煬帝(ようたい)]は、三十万の軍を送って、我が国を攻めました。 しかし かえって、我が軍のために破られ、今その虜二名と、国の産物・駱駝(らくだ)一匹とを奉ります」 といった。 (随は、618年に[第2代煬帝]の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。) 621年:[聖徳太子]は斑鳩宮で薨去された。 (48歳) 陵(みささぎ)は、大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳(聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう)」が、墓所に比定(推定)されている。 623年:新羅が任那を討ち、任那は新羅に属した。 倭国は、数万の兵で新羅征討を再開する。 新羅国王は大軍がやってくると聞き、恐れて手早に降服を願い出た。 天皇は赦された。 626年:[蘇我大臣馬子]が亡くなった。(75歳 ?) 墓は石舞台古墳?:map 628年:[推古天皇]は病重くなり、なす術(すべ)もなかった。 75歳で小墾田宮において崩御。 死の前日に、[推古天皇]は[敏達天皇]の嫡孫[田村皇子 たむらのみこ:後の舒明天皇:〈相関図参照〉]を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、 さらに[聖徳太子]の子[山背大兄王 やましろのおおえのおう:生誕不詳]にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。 ・陵(みささぎ)は、大阪府南河内郡太子町大字山田にある磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に治定(じじょう:決定)されている。 (公式形式は方丘。考古学名は山田高塚古墳。 map) ★ 【厩戸皇子(うまやどのみこ):聖徳太子】 575年〜622年 〈相関図参照〉 |
|||||||||
『日本書紀』に生年は記していないが。「太子は、生まれて程なくものを言われたといい、聖人のような知恵をおもちであった。 成人してからは、一度に十人の訴えを聞かれても、誤りなく、先のことまでよく見通された。」 という記述があり。 ・出産間近の[穴穂部間人皇女 あなほべの はしひと のひめみこ:生年不詳:厩戸皇子の母]が宮中を巡察しておいでになったが、 馬司(うまつかさ)の所においでになった時、厩(うまや:馬などの家畜を飼う小屋のこと)の戸に当たられた拍子に、難なく出産された。 という伝説がある。 ・また、母の実母である[蘇我小姉君(おあねのきみ)]の実家、つまり叔父[蘇我大臣馬子]の家で出産したため、 [蘇我大臣馬子(墓は石舞台古墳?:map)]屋敷が転じて厩戸と付けられたとする説や、 生誕地の近辺にある厩戸という地名から名付けられたとする説もある。 |
|||||||||
*【聖徳太子】=[推古天皇]のもと、[蘇我大臣馬子]と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度を とりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。 *ある時、[厩戸皇子]が人々の請願を聞く機会があった。 我先にとを開いた請願者の数は10人にも上ったが、[厩戸皇子]は全ての人が発した言葉を 漏らさず理解し、的確な答えを返したという。 この故事に因み、これ以降[厩戸皇子]は別名を[豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)]とも呼ばれるように なった。 しかし実際には、10人が[厩戸皇子]に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後、 それぞれに的確な助言を残した、 つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。 [聖徳太子]が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。 姓名を問われても答えない。[聖徳太子]はこれを見て飲み物と食物を与え、 衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい。」と語りかけた。 翌日、[聖徳太子]が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。 [聖徳太子]は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。 数日後、[聖徳太子]は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。 真人(まひと:道教由来の仙人)にちがいない」 と語り、 使者に見に行かせた。 使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありません でした。 ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」 と告げた。 [聖徳太子]は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。 人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、 真実だったのだ」と? 語って、ますます太子を畏敬した。 隋へ派遣した[小野妹子]からの報告をきっかけに、宮中での箸の使用を奨励したという。 *『[聖徳太子]の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構』と主張。さらに これら2つにしても、『隋書』に記載されては いるが、その『隋書』には[推古天皇]も[聖徳太子]も登場しない、そうすると[推古天皇]の皇太子[聖徳太子]は文献批判上では何も残らなくなり、 痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。 また、[聖徳太子]についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文」などは、すべて[聖徳太子]よりかなり後の 時代に作成されたとする。 飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族[聖徳太子]の存在の可能性は否定しない。 しかし、[推古天皇]の[皇太子[として、知られる数々の業績を上げた[聖徳太子]は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、[藤原不比等]らの 創作であり、架空の存在であるとする。 説もある。 墓所:聖徳太子御廟・磯長陵(しながりょう:南河内郡太子町の叡福寺:map)にある「叡福寺北古墳」が墓所に比定(推定)されている。 【第34代 舒明(じょめい) 天皇】 誕生:593年 在位=629〜641 (飛鳥時代) 先代の[推古天皇]は崩御した時、継嗣を定めていなかった。 水面下で大王位争いは、続いていたようだ。大臣の蘇我大臣蝦夷(えみし)は、 群臣(くんしん:まえつ きみたち:多くの臣下)にはかって、その意見が[田村皇子 たむらのみこ(敏達天皇の孫:後の舒明天皇)]と[山背大兄王 やましろのおおえのおう :聖徳太子の子)に、分かれていたことを知り、[田村皇子]を立てて天皇にした。 これが、[舒明天皇]である。 *[蘇我氏]の権勢から、[蘇我氏]の血を引いていない[田村皇子]ではなく、[山背大兄王]を推すのが順当と考えられるが、[蘇我本宗家]を、 継いだ[蘇我大臣蝦夷]と[山背大兄王]はなぜか犬猿の仲だったようで、[蘇我大臣蝦夷]は、なぜか[田村皇子]を推している。 [田村皇子]に嫁いだ〔娘:[蘇我大臣蝦夷]の妹〕が[古人大兄皇子 ふるひとの おおえのみこ:生年不詳]を産んでおり、そこが[蘇我大臣蝦夷]の本命だった 可能性も高い。 また、[蘇我氏]内部の権力闘争があったと言う説もある。 [蘇我大臣馬子]の[弟]が公然と[山背大兄王]を推していたからだ。 最終的には、[蘇我大臣蝦夷]が父[蘇我大臣馬子(墓は石舞台古墳?:map)]の[弟]を攻め滅ぼし、[田村皇子]を即位させた。 *これには、[蘇我大臣蝦夷]が権勢を振るうための傀儡(かいらい:操り人形)にしようとしたという説と、他の有力豪族との摩擦を避けるために、 [蘇我氏]の血を引く[山背大兄王]を回避したという説がある。 *また近年では、[欽明天皇]の嫡男である[敏達天皇]の直系[田村皇子]と庶子(しょし:嫡子以外の実子:皇后でない女性の生んだ子)である[用明天皇]の 直系[山背大兄王]による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、[蘇我大臣蝦夷]は、その状況に対応した現実的な判断をしただけである とする見方もある。 ともあれ、[舒明天皇]の時代、政治の実権は[蘇我大臣蝦夷]にあった。 ・在位中、最初の『遣唐使』を送り、唐からの返訪を受けた。 ・唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、多くの僧侶たちが帰国した。 ・百済と新羅からの使節も訪れた。 630年:飛鳥京[飛鳥岡本宮(明日香村):map]に遷(うつ)る。 631年:『百済』の[義慈王]が王子の[豊章]を質として送る。 * [扶余 豊章(ふよ ほうしょう:生没年不詳)]は、百済最後の王である[義慈王(在 位:641年〜660年)]の王子。 632〜636年:『唐・百済』の使者が来た。 長い星(彗星)が南に見えた。 岡本宮が火災で焼けた。 637年:『蝦夷』が反乱したため、[上毛野形名]を将軍として討たせる。 638〜640年:大風が家を壊した。 有馬の湯に行幸(みゆき)された。 『百済・新羅・任那』が朝貢した。 641年:百済宮で崩御。48歳 陵(みささぎ)は、奈良県桜井市大字忍阪にある押坂内陵(おさかのうちのみささぎ:map)に治定(決定)されている。 この時、東宮(もうけのきみ:後の天智天皇)は、十六歳で誄(しのびごと:生前の功徳をたたえて哀悼の意を述べる言葉)をよまれた。 日本書紀:トップ ページ ヘ このページ(その2)のトップ へ 次ページ(その3)へ |
|||||||||