【日本書紀ー要約】 [下巻:その3] {*(アスタ記号) または( )内は、個人解釈 〕 |
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【第35代 皇極(こうぎょく) 天皇(女帝)】 誕生:594年 在位=642〜645 (飛鳥時代) 〈相関図参照〉 この天皇は、[敏達天皇]の曾孫で、父の異母兄弟の[舒明天皇]の皇后になった。 〔後に、第37代 [斉明天皇]に重祚(ちょうそ:一度退位した天子が再び位に就くこと )する。〕 630年:37歳で[舒明天皇]の皇后に立てられる。 [舒明天皇]との間に、[中大兄皇子 なかのおおえのみこ:後の天智天皇]・[間人皇女 はしひとのみこ: 後の孝徳天皇の皇后]・[大海人皇子 おおあまのみこ:後の天武天皇]を産んだ。 *[中大兄皇子]の呼名=一般には「大兄 おおえ」を、同母兄弟の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を 意味する語である。 (異母長兄に[古人大兄皇子 ふるひとおおえのみこ:[舒明天皇]の皇子]が居るため ?) 642年:[舒明天皇]の後、継嗣となる[皇子]が定まらなかったので、 [皇極天皇]として即位した。(49歳であった。) [皇極天皇]は、古来の道に従って政を行なった。 皇居は、飛鳥京(飛鳥板蓋宮:明日香村:map) 在位中は、[蘇我蝦夷]が「大臣」として重んじられ、その子[蘇我入鹿]が自ら国政を執(と)り、勢いは父[蘇我大臣蝦夷]よりも強かった。 この年、[蘇我大臣蝦夷]は、自家の祖廟(そびょう:祖先の霊をまつるみたまや)を葛城に建てて、 八 (やつら:六十四人の方形の群舞で、天子の行事:中国では皇帝にしか赦されない行事)の舞をした。 また 国中の百八十にあまる部曲(かきのたみ:豪族の私有民)を使って、双墓(ならびのはか:瓢形の古墳:大小二つの円墳を連接したもの)を、生前に 今来(いまき:御所市)に造った。 一つを大陵(おおみささぎ)といい、[蘇我大臣蝦夷]の墓。 一つを小陵といい、[蘇我大臣入鹿]の墓とした。 *[蘇我氏]が[大王、 おおきみ:天皇]家にとってかわるような、わがままな振る舞いがあったとされる。 この事に[聖徳太子]の女(子供?)は、憤慨され嘆いたという。 643年:[蘇我入鹿]は、[山背大兄王 やましろのおおえのおう:生誕不詳:聖徳太子の子]を排して、[古人大兄皇子]を[天皇]にしょうと企て。 [土師 娑婆 連]などを遣わせて、[山背大兄王]らを不意に襲わせた。 [山背大兄王]は生駒山に逃れたものの・・・ついに[山背大兄王]は一族とともに自害した。 (こうして「上宮王家」と呼ばれた、厩戸王(聖徳太子)の血筋は途絶えた。しかし“紀”には、[蘇我入鹿]の目的だった、古人大兄皇子が即位した という記録がなく、この事件には、不可解な点も多い) 644年:有力豪族の[中臣釜子連 なかとみのかまこむらじ:後の中臣鎌足)]は、神祇伯(じんぎはく:神祇官の長官:官位は従四位下)に任ぜられたが、再三辞退して お受けしなかった。 (この頃から、政権中央の進出の野望があったと思われる。 また“紀”の編纂は、[中臣鎌足]の次男・[藤原不比等]の命によるもので [藤原鎌足]のことは、資性が高潔で、容姿に犯しがたい気品と書かれています) [藤原鎌足]は、以前から、[軽皇子(かるのみこ:後の孝徳天皇)]と親しかったが、[大王]の器ではないと見限る。 [蘇我大臣蝦夷]と子の[蘇我入鹿]は、家を天皇の宮を見下ろす、甘橿岡(うまかしのおか:明日香:map)の上に並べて建てた。 [蘇我蝦夷]大臣の自邸を「上の宮門(かみのみかど)」と呼び、[蘇我入鹿]の家を「谷の宮門(はざまのみかど)」といった。 男女の子たちを「王子(みこ)」といった。 家の外に砦の柵を囲い、門のわきに武器庫を設けた。常に五十人の兵士を率いて漢直〈あやのあたい〉らが両家 宮門を警護した。 *古事記によれば、応神期に漢直・秦氏などの渡来人が多く、土木技術集団として帰化し、築堤や巨大古墳にたずさわり、また 兵器の製作を担当し、 軍事力にも秀でていた。 漢直=後漢の末裔を称し、 秦氏=秦の始皇帝の末裔を称していた。 |
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[中臣鎌足]は[蘇我入鹿]が君臣の序をわきまえず、国家をかすめようとする企てを憤(いきどう)り、 つぎつぎと王家の人々に接触して、企てを成し遂げる盟主を求めた。 そして[中大兄皇子(後の天智天皇)]に心を寄せたが、離れていて近付き難く、自分の心底を打ち明け ることが出来なかった。 たまたま、法興寺(飛鳥寺:map)で蹴鞠(けまり)の催しをされた時、仲間に加わって[中大兄皇子]の 皮鞋(みくつ)が、蹴られた鞠と一緒にぬげ落ちたのを拾って、跪(ひざまず)いて恭(うやうや)しく奉った。 [中大兄皇子]も跪いて恭しくうけとられた。 (この時[中大兄皇子]19歳・[中臣鎌足]30歳) |
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これから 親しみ合われ、 その後 二人の考えはことごとく一致し、山中でクーデター計画を図る。[中臣鎌足]は「大事を謀るには助力者が必要と、 [蘇我倉山田石川麻呂([蘇我入鹿]の従兄弟)]の娘を妃とし、仲人をする。 645年:[中大兄皇子]は、「三韓(みつのからひと)の調(みつぎ:献上品)」を貢(たてまつ)る日に、蘇我入鹿]を成敗する。【乙巳(いっし)の変】 |
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[皇極天皇]は、大極殿にお出ましになった。[中大兄皇子]がそばに侍した。 [中臣鎌足]は[蘇我入鹿]の人となりが疑い深くて、昼夜剣を帯びている事を知っていた ので、俳優(わざひと:滑稽な仕ぐさで歌舞などする人)に教えて、だまし剣を解かせた。 [蘇我入鹿]は笑って剣を解き、中に入って座についた。 [蘇我倉山田石川麻呂]は、御座の前に進んで、三韓の上表文を読み上げた。 [中大兄皇子]は御門府に命じて、一斉に通門を締め固め。 [中大兄皇子]は自ら長槍を取って大極殿の脇に隠れた。[中臣鎌足]は弓矢を持って [中大兄皇子]を護衛した。[刺客の臣]らに「ぬからず、素早く斬れ」といった。 刺客の臣らは、水をかけて飯を流し込んだ。 だが 恐怖のため、のどを通らずもどして しまった。 [中臣鎌足]は、これを責め励ました。 [蘇我倉山田石川麻呂]は、上表文を読み終わろうとするが、刺客の臣らが出て来ないので、 恐ろしくなり全身に汗がふき出して、声も乱れ手が震えた。 [蘇我入鹿]は怪しんで「なぜ震えているのか」ととがめた。 |
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[蘇我倉山田石川麻呂]は、「天皇におそば近いので恐れ多くて、汗が流れて」といった。 [中大兄皇子]は、刺客の臣らが[蘇我入鹿]の威勢に恐れ、 たじろいでいるのを見て、「ヤァ」と掛声もろとも、[刺客の臣]らとともに、おどり出て[蘇我入鹿]の頭から肩にかけて斬りつけた。 [蘇我入鹿]は驚いて御座の下に転落した。 [皇極天皇]は大いに驚き「これはいったい何事が起こったのか」と言われた。 [中大兄皇子]は、「[蘇我入鹿]は[王子]たち すべて滅ぼして、帝位をかたむけようとしています」といった。 [皇極天皇]が殿舎の中に入ったので、[刺客の臣]らは入鹿を斬った。 [蘇我入鹿]の父の[蘇我大臣蝦夷]も、[中大兄皇子]の軍勢に囲まれ自決する。 ここに蘇我本宗家は滅亡したのである。【乙巳(いっし)の変】 [皇極天皇]は皇位を[軽皇子(かるのみこ:孝徳天皇:49歳)]に譲られ、[中大兄皇子]を立てて[皇太子]にされた。 【第36代 孝徳(こうとく)天皇】 誕生:596年 在位=645〜654 (飛鳥時代) 〈相関図参照〉 [敏達天皇]の皇子で[押坂彦人大兄皇子]の子、[茅渟王(ちぬのおおきみ)]の長男で[皇極天皇]の同母弟である。 『乙巳(いっし)の変』が起きると、翌々日に[皇極天皇]は[中大兄皇子]に位を譲ろうとした。 [中大兄皇子]は辞退して[軽皇子(かるのみこ:孝徳天皇)]を推薦した。 [軽皇子]は三度辞退して、[古人大兄皇子 ふるひとのおおえのみこ:[舒明天皇]の長男:[中大兄皇子]と異母兄弟]を推薦したが、 [古人大兄皇子]は辞退して、みずから髭や髪を剃って袈裟を召され出家した。 このため、[軽皇子]は壇(たかみくら:天皇の高座)に登って即位した(49歳:立太子は経ていない)。 [阿倍倉梯麻呂:あべのくらはしまろ:8代考元天皇の第一皇子を祖する、皇別氏族]を左大臣に、[蘇我倉山田石川麻呂]を右大臣にした。 [中臣鎌子(藤原鎌足)]を内臣とした。 [皇極前天皇]に[皇祖母尊(すめみおやのみこと)]という称号を与え、[中大兄皇子]を[皇太子]とした。 姪の[間人皇女(はしひと の ひめみこ)]を[皇后]にした。 [阿倍倉梯麻呂]の娘の[小足媛(おたらしひめ、生没年不詳)]を妃として、[有間皇子]を儲けた。 [蘇我倉山田石川麻呂]の娘の[乳娘(ちのいらつめ)]を妃とした。 他に子女は確認されていない。 『日本書紀』の評によれば、[孝徳天皇]は仏法を尊び、神道を軽んじた。 その在位中には『難波宮(map)』に宮廷があった。 [孝徳天皇]の在位中には、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。 従来の百済の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。 日本は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。 多数の随員を伴う遣唐使を唐に派遣した。 北の蝦夷(えみし)に対しては、渟足柵・磐舟柵を越国に築き(map)、柵戸を置いて備えた。 (関所のようなもの ?) 645年:史上初めて元号を立てて大化元年とした。 この年[古人大兄皇子]が謀反を企んだ。 [中大兄皇子]が[古人大兄皇子]を討った。 646年:【大化の改新】 649年:[蘇我日向]が[皇太子(中大兄皇子)]に、「[蘇我倉山田石川麻呂]が[皇太子]を害(そこな)うことを企んでいる」と讒言(ざんげん)した。 [皇太子]は、それを信用された。 [孝徳天皇]は、謀反の虚実を問われさせたが、直接[天皇]に申し上げる」と、いった。 [孝徳天皇]は、兵に[蘇我倉山田石川麻呂 大臣]の家を包囲させた。 [蘇我倉山田石川麻呂 大臣]は逃げたが、 やがて自決した。 650年:穴戸(長門)国司の[草壁醜経]が白い雉を献じた。 653年:[皇太子(中大兄皇子)]が、倭京(やまとのみやこ)に遷(うつ)ることを請うたが、[孝徳天皇]は許さなかった。 [皇太子]は、[皇祖母尊(皇極前天皇)]と[皇后(間人皇女 はしひとのにめみこ)]、[弟(大海人皇子:おおあまのみこ:後の天武天皇)]を連れて、 倭飛鳥宮(飛鳥京:map)に行った。[臣下]の大半が[皇太子(中大兄皇子)]に随って去った。 [孝徳天皇]は気を落とし、翌年病気になって亡くなった。 654年:吐火羅国(とから:タイ国のメコン河下流にあった王国)の男二人、女二人が日向(ひむか:宮崎県)に漂着した。 同年:天皇崩御・58歳。 陵(みささぎ)は、大阪府南河内郡太子町にある大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ:map)に治定(決定)されている。 【第37代 斉明(さいめい)天皇(女帝)】 誕生:594年 重祚(ちょうそ:皇位に二度就く) 在位=655〜661 (飛鳥時代)〈相関図参照〉 655年:62歳の時、[孝徳天皇]の崩御後、飛鳥京の飛鳥板蓋宮(map)で再び皇位に就いた(35代皇極天皇から史上初の重祚)。 ・政治の実権は[皇太子]の[中大兄皇子]が執った。 ・高句麗、百済、新羅が使を遣わして朝貢してきた。 また、蝦夷と隼人も衆を率いて内属し、朝献した。 *『日本書紀』によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。 657年:覩貨邏国(654年:吐火羅国(とから)と同じ)の男2人・女4人が筑紫に漂着したので、召す。 658年:[蘇我赤兄(あかえ)]が[有間皇子:[孝徳天皇]の皇子]に語って、 「天皇の3つの失政を挙げた。 ・大きな倉を建てて、民の財を積み集めたのが 一 ・長い用水路を掘って、人夫にたくさんの食糧を費やしたのが 二 ・船に石を載せて運び積んで丘にしたのが 三である」といった。 [有間皇子]は、[蘇我赤兄]が、自分に好意を持っていてくれることを知り、 喜んで応答して「わが生涯で始めて兵を用いるべき時がきたのだ」といった。 (この謀反は、[蘇我赤兄]を使って仕組んだ、[中大兄皇子]の策謀か ?) [有間皇子]は[蘇我赤兄]の家に行って相談した。 そのとき床几(しょうぎ)が、ひとりでに壊れた。 不吉の前兆であると知り、 相談を中止して[有間皇子]は帰って寝ていると、[蘇我赤兄]は[有間皇子]の家を囲み[斉明天皇]に奏上した。 [皇太子(中大兄皇子)]は、自ら[有間皇子]に謀反を問いつめたが、「私は全く分かりません」と答えたので、絞首刑にした。 この年:越国守が船軍百八十艘を率いて蝦夷(えみし)を服従させる。 翌年には、粛慎(みしはせ)を討って、ヒグマ二匹・ヒグマの皮七十枚を奉った。 661年:[斉明天皇]は百済のために新羅を討とうと娜大津(なのおおつ:博多湾)に着き、長津(那河津 なかつ)に入った。 [斉明天皇]は朝倉宮(福岡県朝倉町)に移り、そこで 崩御された:67歳。 陵(みささぎ)は、奈良県高市郡高取町大字車木にある、越智崗上陵〔おちのおかのえのみささぎ:車木ケンノウ古墳(円墳、直径約45 m)map〕に治定(決定)されている。 ★【孝徳朝以後の朝廷の東北進出】 * 淳足柵・磐舟柵 大化の改新の時に新潟県のあたりには軍事施設の城柵(じょうさく)が置かれています。 【第38代 天智(てんち)天皇】 誕生:626年 在位=668〜671 (飛鳥時代) 〈相関図参照〉 |
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[舒明天皇]の第2皇子[中大兄皇子]。 母は[皇極天皇(重祚して斉明天皇)]。 [皇后]は異母兄[古人大兄皇子]の娘[倭姫王:やまとひめのおおきみ]。 この[皇后]との間に[皇子女]はない。 645年:[中大兄皇子]は[中臣鎌足]らと謀り、[皇極天皇]の御前で[蘇我入鹿]を暗殺するクーデターを起こす [乙巳(いっし)の変] その翌日、[皇極天皇]の同母弟を即位させ[孝徳天皇]とした。 自分は[皇太子]となり、中心人物として様々な改革[大化の改新]を行なった。 また[有間皇子]など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。 *[舒明天皇]崩御後から[孝徳天皇]即位までは、内乱による天皇空位期であり、 上宮王家滅亡から[古人大兄皇子]殺害までの「事件」は内乱による「戦い」であった可能性を指摘している。 「乙巳の変」は、これまでの大王(天皇)の終身性を否定し、[皇極天皇]による譲位を引き起こした。 |
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*『乙巳の変』は[蘇我氏]のみならず[蘇我氏]に、それだけの権力を与えてきた[皇極天皇]の王権そのものに対する異議申し立てであり、 実質上の王殺しとする。 ただし、首謀者の[中大兄皇子]は[皇極天皇]の実子であり実際には大臣の[蘇我氏]を討つことで異議申し立てを行い、 [皇極天皇]は殺害される代わりに強制的に退位を選ばせざるを得ない状況に追い込まれた。 ところが、次代の[孝徳天皇(軽皇子)]の[皇太子]となった[中大兄皇子]は最終的には[孝徳天皇]と決別してしまった。 [孝徳天皇]の王権を否定したことで後継者としての正統性を喪失した[中大兄皇子]は、 自己の皇位継承者としての正統性を確保する必要に迫られて 「乙巳の変」において否定した筈の[皇極天皇]の重祚(斉明天皇)に踏み切った。 だが、排除した筈の大王(天皇)の復帰には内外から激しい反発を受け、[重祚した天皇]による失政もあり、重祚を進めた[中大兄皇子]の威信も 傷つけられた。 [斉明天皇]の崩御後に[群臣]の支持を得られなかった[中大兄皇子]は、 百済救援を優先させるとともに[群臣]の信頼を回復させるための時間が 必要であったため、自身の即位を遅らせたとする。 * 「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄皇子」は「二番目の大兄」を意味する。 660年:百済が〔唐・新羅〕に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子[扶余豊璋 ふよほうしょう]を送り返し、百済復興を図った。 百済救援を指揮するために筑紫に[斉明天皇]は、滞在する。 661年:[斉明天皇]が崩御した。 その後、長い間皇位に即かず[皇太子]のまま称制した。 663年:日本軍は白村江(はくすきのえ:錦江の川口付近:map参照)に兵士一万余を率いて陣をしいた。 大唐(もろこし)の軍船百七十艘と合戦したが、日本軍は大敗を喫し退いた。 百済の[豊璋]は、高麗に逃げた。 (百済の滅亡) 664年:対馬・壱岐・筑紫国に防人(さきもり)と烽(すすみ:のろし台)を置いた。 また 筑紫に大堤(おおつつみ)を築いて水を貯えた。 これを水城(みずき:参照)と名づけた。 665年:長門国に城を築かせ、筑紫国の大野と椽(き:太宰府の西南・基肄城 きいじょう:map参照)に二つの城を築かせた。 667年:都を近江大津宮(現在の大津市:map)へ移す。 このとき天下の人民は遷都を喜ばず。 668年:皇太子[中大兄皇子]は、[天智天皇]に即位した。異母兄[古人大兄皇子]の娘[倭姫王 やまとひめおおきみ]を立てて[皇后]とした。(子はなし) 全部で四人の嬪(みめ)をもたれた。 [曽我倉山田大臣]の娘[遠智娘(おちのいらつめ)]を嬪り、後の[持統天皇]を生む。 [遠智娘]の妹[姪娘(めいのいらつめ)]を嬪り、後の[元明天皇]を生む。 [阿部倉梯(くらはし)麻呂大臣]の[娘]を嬪り、[新田部皇女(後の天武妃)]を生む。 [伊賀宅子:伊賀の豪族の娘(やかこのいらつめ)]を嬪り、[大友皇子(後の弘文天皇)]を生む。 同母弟[大海人皇子:おおあまのみこ:後の天武天皇]を[皇太子]とした。 ・その年大唐が高麗を討ち滅ぼした。(高句麗の滅亡) 669年:[天智天皇]は[中臣連鎌足]に「藤原氏」の性を賜る。 [中臣連鎌足]死す(55歳) *子で藤原氏を名乗れるのは[藤原不比等]のみ。 671年:[大友皇子(後の弘文天皇)]を史上初の太政大臣とし、[中臣金連 かねのむらじ:鎌足の従兄弟]を右大臣に、[曽我赤兄(あかえ)臣]を左大臣とされた。 [天智天皇]は病気に倒れ重態となった。 [大海人皇子]に後事を託そうとしたが、[大海人皇子]は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。 (この時 [大海人皇子]は、[群臣]の大部分が[天智天皇]よりだった事と、[天智天皇]は[大友皇子]に皇位を継がせたかったことから、 [天智天皇]に いつ粛正されるかも判らないと思い、僧侶となり[天智天皇]を安心させるふりをして、時勢を待つ事にしたと思われる) 671年:[天智天皇]は近江大津宮で崩御した。(46歳) 陵(みささぎ)は、京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ:map)に治定されている。 *[天智天皇]の崩御後に起きた『壬申(じんしん)の乱』において、[大海人皇子]が[大友皇子]に勝利して即位し[天武天皇]となる。 日本書紀:トップ ページ ヘ このページ(その3)のトップ へ 次ページ(その4)へ |
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