【日本書紀ー要約】 [下巻:その5] {*(アスタ記号) または( )内は、個人解釈 〕 |
||||||||||||
【第39代 弘文(こうぶん)天皇】 誕生:648年 在位(?)=672〜672 (飛鳥時代) 〈相関図参照〉 [天智天皇]の第一皇子(大友皇子:おおとものみこ)。 母は[伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ:伊賀豪族の娘)]。 [天智天皇]後継者として統治したが『壬申の乱 じんしんのらん』において叔父[大海人皇子 おおあまのみこ]に敗北し自害する。 *明治3年に諡号(しごう:主に天皇の死後のおくり名)を贈られ[天皇]として認められたが、即位したかどうか定かではなく、 [大友皇子]と表記されることも多い。 (日本書紀に即位の儀式はない) *『日本書紀』には、[天智天皇]は 実弟[大海人皇子]を[東宮(皇太子)]に任じていたが、[天智天皇]は我が子可愛さの余り、 弟との約束を破って[大友皇子]を[皇太子]に定めたと記されている。 671年:「大友皇子」は、左大臣[蘇我臣赤兄(あかえ)]・右大臣[中臣連金(かね)]ら五人の高官と共に宮殿の西殿の織物仏の前で 「天皇の詔」を守ることを誓った。 672年5月:「大友皇子」は、「天智天皇」の山陵(さんりょう:君主の墓:みささぎ)を造ると偽って、美濃・尾張の人民を徴兵した。 また 近江京(大津京)より大和京にいたる、あちらこちらに監視人を置いた。 6月24日:「大海人皇子」は、身の危険を察知し軍勢を集め、吉野を進発。 6月26日:「大海人皇子」は、美濃の軍勢3千人を集め、不破関封鎖に成功。 (東国から大友皇子への援軍を遮断) →→→→→→→古代最大の内乱 『壬申(じんしん)の乱』が勃発する。 尾張の2万の兵が「大海人皇子」に帰属する。 |
||||||||||||
6月29日:「大海人皇子」に呼応するが軍が、飛鳥で挙兵。 7月02日: 「大海人皇子」は不破関から軍勢を3方面に分け進発させる。 7月04日:(1)の合戦、「大友皇子軍」が乃楽山(ならやま)で、「大海人皇子」に呼応した 飛鳥の挙兵軍を破る。 7月06日:(2)の合戦、「大海人皇子軍」が、?萩野(たらの)で「大友皇子軍」を破る。 7月07日:(3)の合戦、「大海人皇子軍」が、息長横河で「大友皇子軍」を破る。 7月08日:(4)の合戦、「大海人皇子軍」が、箸墓で「大友皇子軍」を破り飛鳥を制圧。 7月22日:(5)の合戦、「大海人皇子軍」が、三尾城「大友皇子軍」を破る。 (6)の合戦、「大海人皇子軍」が、瀬田で「大友皇子軍」を破る。 7月23日:「大友皇子」が、山前(やまさき:京都府山崎)で自害する。 (24歳) ・陵(みささぎ)は、長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ:滋賀県大津市御陵町:map)に治定(決定) されている。 ・右大臣[中臣連金]らを死罪とし、左大臣[蘇我臣赤兄]らを流罪とした。 *【壬申(じんしん)の乱】 672年 「天智天皇」の後継をめぐり、皇位継承の資格をもつ、叔父と甥が武力で激突した。 古代最大の内乱。 近江朝廷の圧迫に対して、「大海人皇子」が立ち上がったように記されているが、勝者 の史書に信憑性はない。 (紀には、この乱が長々と書かれている) *「大海人皇子」は、所領のある美濃と、隣接する尾張を地盤とする。 近江朝廷に不満をもつ大和の豪族にも支持された。 *「大友皇子」は、東国をはじめ、吉備・筑紫での徴兵に失敗し、母の出身地である伊賀 の豪族の支持も得られなかった。 【壬申の乱での、[大海人皇子軍(赤ライン)]と[大友皇子軍]の推定進路図】⇒⇒⇒ ★ 右の地図で、[安宅の関→不破の関→鈴鹿の関]のラインから東を[関東]と呼ぶ |
||||||||||||
【壬申の乱-map】 |
||||||||||||
【第40代 天武(てんむ)天皇】 誕生:生年不明 在位=673〜686 (飛鳥時代) 〈相関図参照〉 |
||||||||||||
[舒明天皇]と[皇極天皇(斉明天皇)]の子として生まれ、幼名を[大海人皇子:おおあまのみこ]といった。 [天智天皇(中大兄皇子)]は、両親を同じくする[兄]にあたる。 [天智天皇]の皇女の[ 野讚良皇女:うののさららのひめみこ:後の持統天皇]を[皇后]に迎え[草壁皇子 くさかべのみこ] を生む。 [天智天皇]の死後、672年に『壬申の乱』で[大友皇子(天智天皇の皇子:弘文天皇)]を倒し、その翌年に即位した。 その治世は、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く[持統天皇]の時代とあわせて、 文化的には白鳳文化の時代である。 |
||||||||||||
[天武天皇]は、人事では[皇族]を要職につけて[他氏族]を下位におく『皇親政治』をとったが、自らは[皇族]にも、掣肘(せいちゅう:干渉されない) されず、専制君主として君臨した。 ・八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。 ・飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の制定。 新しい都(藤原京)の造営。 * 飛鳥浄御原令=日本古代国家の法典。 戸籍作成や班田収授(はんでんしゅじゅ:人民に耕地を分割する法)も、この時から6年ごととなったと考えられる(6年ごとに見直す)。 673年:即位した[天武天皇]は、皇族の諸王が要職を分掌し、これを『皇親政治』という。 674年:対馬で銀が産出。(日本で初めて銀が産出) 682年:大隅の隼人と阿多(あた:鹿児島西部)の隼人が朝廷で相撲を取った。 [草壁皇子]を[皇太子(ひつぎのみこ)]にする。 686年:[天武天皇]が崩御した。(55才) この時、[大津皇子([天武天皇]の第3子:母は天智天皇の皇女)]が、[皇太子]への謀反が発覚して、死罪となる。 陵(みささぎ)は、奈良県高市郡明日香村大字野にある檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)に治定(決定)されている。 公式形式は上円下方(八角)。考古学名は野口王墓古墳。 (後の[持統天皇]と合葬:map) * 道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。 * [天皇]を称号とし、日本を国号とした最初の[天皇]とも言われる。 1998年、飛鳥池遺跡から西暦677年を示す木簡が出土し、「天皇」の文字が記されていた。 ([天皇]とは、道教の最高神で北極星を神格した「天皇大帝(だいてい)」に由来するもので、中国では唐の[高宗(こうそう)]が674年に初めて使用して いる。) *【伊勢神宮の地位を高めた王権神話の体系化】 天孫降臨の際、アマテラスがニニギに授けた八咫鏡(やたのかがみ)を祀っているのが、伊勢神宮(正式にはただの『神宮』という)の 皇大(こうたい)神宮(内宮:ないぐう)で、その主祭神はアマテラスである。 *[他の三種の神器=草薙の剣は、熱田神宮の神体・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、平安時代ころからは、剣と共に櫃に入れて天皇の身辺に置かれた。 壇ノ浦の戦いで 玉・剣と共に沈んだ。しかし玉は箱に入っていたため、箱ごと浮かび上がり、源氏に回収された。 [昭和天皇]の継承した神器として皇居吹上御殿の剣璽(けんじ:剣と玉)の間に、剣(形代)とともに保管されている。三種の神器の中で唯一、 皇居に実物がある。] *『壬申の乱』に祭し、吉野を出た[天武天皇]は伊勢の国で遥拝し、乱の勝利を祈願した。 そこで 即位後の[天武天皇]は、『推古朝』以来途絶えて いた斎宮(いつきのみや:未婚の皇女を天皇の名代として伊勢に住まわせ、アマテラスに奉仕させる)の制度を復活させ、伊勢神宮と朝廷と深く結びついた神社として 重視したのである。 * また『日本書紀』と『古事記』の編纂を始めるなど、〔天武朝〕は王権神話の体系化が進んだ時代でもあった。 その中で、アマテラスが天皇家の先祖であり、至上神であると位置づけされたことで、伊勢神宮の地位はさらに高まったのである。 [伊勢神宮とは、皇大神宮(内宮)と豊受(とようけ)大神宮(外宮)およびそれらに付属する125社の総称である] [20年に一度の行事(式年遷宮:しきねんせんぐう)は、1300年以上守り続ける、全国8万社の頂点に立つ神社であり。『神社本庁』は、ここにある。] *『日本書紀』と『古事記』は、[天武天皇]の死後に完成した事業である。 *[中大兄皇子(天智天皇)]・[大海人皇子(天武天皇)]が同父同母の兄弟とされていますが、[中大兄皇子]の娘が全員が[大海人皇子]の妃・皇后、 および[大海人皇子]の[息子]の妃になっています。 [中大兄皇子]と[大海人皇子]が兄弟では、なかったという説もある。 [額田王 ぬかたのおおきみ:万葉歌人]をめぐり、[中大兄皇子]と[大海人皇子]は対立していたという説。 皇族の娘であった[額田王]は、最初、[大海人皇子]の妃となって[十市(とおち)皇女]を生むが、近江遷都[667年:白村江(はくすきのえ)の大敗で [中大兄皇子]は内陸部に逃げる]前後に、[天智天皇]の後宮(こうきゅう)に入った。 つまり兄が弟の妃を奪ったことになる。 【第41代 持統(じとう)天皇(女帝)】 誕生:645年 在位=690〜697 (飛鳥時代) 〈相関図参照〉 父は[天智天皇(中大兄皇子)]、母は[蘇我倉山田石川麻呂]の娘で[遠智娘(おちのいらつめ)]。 幼名を[ 野讚良皇女:うののさららのひめみこ]という。 (息子と孫の即位に執念を燃やした女帝) 657年:13才のときに、叔父の[大海人皇子(天武天皇)]に嫁した。 662年:[草壁皇子 くさかべのみこ:[天武天皇]の第2子]を、筑紫の娜大津(なのおおつ:福岡市 博多区)で生む。 *654年:[天武天皇]の第1子は、[宗像の豪族]の娘[尼子娘:あまこのいらつめ]を嬪(ひん:皇后・妃・夫人に次ぐ位)として、[高市皇子(たけちのみこ:母親 の身分が低かった事から、皇子の中の扱いでは低い位置に置かれた)を生む。 663年:[天武天皇]の第3子は、[持統天皇]の同母の姉[大田皇女:おおたのひめみこ:夫[天武天皇]の即位前に死亡]が妃となり[大津皇子:おおつのみこ]を生む。 *夫[大海人皇子]に従って吉野に入り(671年)、『壬申の乱』の時は兵に命じて味方を集め[大海人皇子]と共に謀(はかりごと)を練られた。 死を恐れぬ勇者数万に命じて、各所の要害をかためるなどの女傑であった。 672年:『壬申の乱』 673年:即位した[天武天皇(大海人皇子)]は、681年:当時19才の[草壁皇子]を[皇太子]にした。 (当時、実務能力がない年少者を[皇太子]に据えた例はなかった。[皇后]の強い要望があったと推測される) 685年:[天武天皇]は病気がちになり、[皇后]が代わって統治者としての存在感を高めていった。 686年:[天武天皇]は「天下の事は大小を問わずことごとく[皇后]及び[皇太子(草壁皇子)]に報告せよ」と勅し、[皇后・草壁皇子]が共同で政務を 執るようになった。 その年:[天武天皇]が崩御され、[皇后]は即位の式もあげられぬまま、政務を執られた。 *【大津皇子の謀反】 ・大津皇子]は[草壁皇子]より1歳年下で、母の身分は[草壁皇子]と同じであった。立ち居振る舞いと言葉使いが優れ、[天武天皇]に愛され、 才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、と『日本書紀』は[大津皇子]を描くが、[草壁皇子]に対しては何の賛辞も記さない。 [草壁皇子]の血統を擁護する政権下で書かれた『日本書紀』の扱いがこうなので、諸学者のうちに2人の能力差を疑う者はいない。 ・2人皇子の母は姉妹であって、[大津皇子]は早くに母を失ったのに対し、[草壁皇子]の母は存命で[皇后]に立って後ろ盾になっていたところが 違っていた。 ・[草壁皇子]が[皇太子]になった後に、[大津皇子]も朝政に参画したが、[皇太子]としての[草壁皇子]の地位は定まっていた。 ・しかし、[天武天皇]の死の翌月に、[大津皇子]は謀反が発覚して処刑(時に24才)。 具体的にどのような計画があったかは史書に記されない。 皇位継承を実力で争うことは、この時代までよくあった。 そこで、[大津皇子]に皇位を求める動きか、何か不穏な言動があり、それを察知した[皇后(持統天皇)]が、即座につぶしたのではないかと 解する説もある。 ・謀反の計画はなく、[草壁皇子]のライバルに対して[持統天皇]が先制攻撃をかけたのではないかと考える学者も多い。 宮廷内の反感が皇子の即位の障害となったものと思われる。 687年:自ら帰化した高麗人(こまびと)を常陸国に居(はべ)らせ、新羅人を武蔵国に居らせた。 689年:[草壁皇子]が病気により他界した(時に28才)。 * 皇位継承の計画を変更しなければならなくなった。 [皇后]は[草壁皇子]の子[(持統天皇の孫にあたる)軽皇子 かるのみこ:後の文武天皇]に皇位継承を 望むが、[軽皇子]は幼く(当時7才)当面は[皇太子]に立てることもはばかられた。 690年:こうした理由から[持統天皇]が、孫の[軽皇子]が成長するまで、皇位を継承することにした。 即位の後、[持統天皇]は大規模な人事交代を行い、[高市皇子:たけちのみこ:天武天皇の皇子〈長男〉。しかし母親〈宗像豪族の娘〉の身分が低かった事から、 皇子の中の扱いでは低い位置に置かれた。]を太政大臣に。 [多治比島:たじひ の しま:宣化天皇の4世孫]を右大臣に任命した。 皇居は、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや:天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮:奈良県明日香村:飛鳥京:map) * ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになった。 *[持統天皇]の治世は、[天武天皇]の政策を引き継ぎ、完成させるもので、『飛鳥浄御原令の制定』と『藤原京』の造営が大きな二本柱である。 この年:中国の都を模した『藤原京』の再着工(完成は704年)。 *[持統天皇]は、[天武天皇]が生前に[皇后(持統天皇)]の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺とした。 *外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持たなかった。 694年:宮を「飛鳥浄御原宮」から造成中の「藤原京」の「藤原宮:皇居」に遷都。 697年:孫の[軽皇子]を[文部天皇]に即位させる(15才)。 【日本書紀】は、ここで完。 702年:[持統天皇]は、病を発し、崩御した。(58歳) 陵は、檜隈大内陵(奈良県明日香村:野口王墓古墳 map)。 この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定(決定)に間違いがないとされる。 夫[天武天皇]との夫婦合葬墓である。 * 1年間のもがりの後、火葬されて[天武天皇]の墓に合葬された。 天皇の火葬はこれが初の例であった [持統天皇]の遺骨は銀の骨つぼに収められていた。しかし、1235年に盗掘に遭った際に、骨つぼだけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄されたという。 * [持統上皇]は[文武天皇]と並び座して政務を執った。 [文武天皇[時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行だが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられる。 しかし、『壬申の功臣』に代わって『藤原不比等』ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭してきた。 |
||||||||||||
704年:「藤原京」完成 712年:[古事記]の編纂が完了。 720年:[日本書紀]の編纂が完了。 |
||||||||||||
[小倉百人一首におさめられた持統天皇の歌] 『春すぎて夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ 天の香具山』 |
||||||||||||
★ 天皇の諡号(しごう:主に帝王などの死後に奉る、おくり名) [淡海三船(おうみのみふね)]により、[中国の古代の四字熟語]の[継体持統]から「持統」と漢風諡号が名付けられたという。 ・[継体]とは、「(一度切れた糸を)糸をもって継ぐこと」であり、 「体」はそのまま国体、国家体制の体として。 「継」という字。これは元々糸をつなぐ、補修するという意味。 25代武烈天皇で仁徳天皇からの血筋が途絶え、26代継体天皇に皇位が引き継ぐがれた、正当性を後代に認めさせるためと思われるのです。 ・[持統]とは、「(系統を正し、一統を立てて)一本の糸に統一すること」と考え皇位を持続させたという意味。 * [淡海三船](奈良時代後期の文人。壬申の乱で自決した、大友皇子の曽孫)=神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)の 漢風諡号を一括撰進した。 ★【天孫降臨の神話】 [天武天皇]が崩御した翌月に、謀反の罪で[大津皇子]が処刑される。 だが[皇后(持統天皇)]は[草壁皇子]を直ちに即位させる事はしなかった。 [草壁皇子]の若さ(24才)と[大津皇子]処刑に対する宮廷内の反感が[草壁皇子]の即位の障害となったものと思われる。 やむなく、陰の実力者である[藤原不比等]の補佐のもとに[皇后(持統天皇)]が政務を執った。 ・しかし、[草壁皇子]が若死にしたため、[皇后(持統天皇)]は皇位を継承して[持統天皇]となる。 [持統天皇]は、子の[草壁皇子]の孫の[軽皇子:かるのみこ:後の文部天皇]に【皇位】を継承したかったので、【祖母】から【孫】への【皇位継承】が スムーズにいくようにということで、【天孫降臨】説話を作らせた説。 ・[藤原不比等]も孫である、[文部天皇]の皇子[首皇子:おびとのみこ:後の聖武天皇]に皇位継承させ、[藤原不比等]の地位を盤石なものにするため、 [持統天皇]の孫の[軽皇子]に皇位を継承させる必要があり、皇位継承を正統なものとするため、【天孫降臨】の神話を強く支持した。 ★【二つの歴史書】:「古事記」「日本書紀」 双方の内容が同じなのは、「帝紀:ていき:天皇あるいは皇室の系譜類」と「旧辞:きゅうじ:神話・伝説・物語」を基本資料としたため。 ただし、「日本書紀」には、諸氏族や寺院、渡来人に伝わる史料を加えているという違いがあった。 ・より大きな相違点としては、文体の違いが挙げられる。 「日本書紀」は、中国にも通用する漢文を使っているのに対し、 [古事記]は、漢字の音を借りた日本語に漢文が混じる、 つまり、漢文の読解能力が無くても読める国内向けで、当時13才であった、後の[聖武天皇]の帝王教育に使う教材として編集されたとする説もある。 ★ [藤原不比等] 「日本書紀」神話は[藤原不比等]が創作・捏造したものであり、それ以前の「大王(オオキミ)」は、ただの人間であった。 「高天原・天孫降臨・万世一系」の神話は、日本人が古くから伝えてきた伝承ではない。 <7世紀末から8世紀初頭に>[藤原不比等]が天皇制を造り出すために創作したもの[藤原不比等]が【天孫降臨】神話を創作したのは、なぜか―― ([藤原不比等]は、[草壁皇子]の血を引き、[藤原不比等]の娘が生んだ[首皇子 おびとのみこ:後の聖武天皇]の即位にこだわっている。 [草壁皇子]と[藤原不比等]の交点に成立した一系の血筋。 ・[草壁皇子]→[軽皇子:かるのみこ:後の文部天皇]→[首皇子:おびとのみこ:後の聖武天皇]の血筋を、父系をたどって遠く神代まで遡らせていくと 高天原・天孫降臨に始まる万世一系の神話にいたる。 ・こうして[藤原不比等]が作った神話こそ、『日本書紀』の論理の中核になる。過去の歴史に、『蘇我王朝』が存在してはならなかったのである。 (『日本書紀』の成立により)万世一系の神話を維持し、同時に、皇位を[藤原不比等]自身の子孫で独占できるからである」。 ・こうして、[藤原不比等]の苦心の作である『日本書紀』は、中国に天皇家の存在を誇示すること、天皇家や豪族、ならびにその子孫たちに天皇支配の 正当性を認識させること――という2つの目的を見事に果たしたのである。 ・[天武天皇]が帝記・旧辞の編纂を命じて五年後に亡くなり、編纂に関わったとされる[太安麻侶]と[稗田阿礼]は、ともにスサノオ尊の血を 引く末裔だった。 彼らは朝廷の厳しい注文を受けながらも、何とかして古代からの伝承を残そうと工夫したが、当時の権力者[藤原不比等]の厳しい校閲を受け、 『日本書紀』に合わせて書き直しさせられた、のではないかともいう。 ・[藤原]という[姓]は、[中臣鎌足]が臨終のさい[天智天皇]から、[中臣鎌足]の出生地の地名を取って与えられたものである。 ★『藤原京』 飛鳥京の西北部、奈良県橿原市(map参照)に所在する日本史上最初で最大の都城である。 また、日本史上最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。また、宮の主要建築物は礎石建築で、はじめて瓦を葺いたと考えられている。 676年(天武5年):造成の着工に始められていた。 690年(持統4年):再着工され、 694年(持統8年):飛鳥浄御原宮からに遷都した。『藤原京』の完成は遷都後10年経過の704年(慶雲元年)。 710年(和銅3年):平城京に遷都されるまで[持統・文武・元明]の三天皇が居住した16年間、日本の首都であった。 ・『藤原京』の名称は近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には登場しない。 『日本書紀』ではこの都城のことは、『京』が「新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)」(持統天皇六年正月十二日条)、 『宮』が『藤原京』と呼びわけられている。 規模は、5.3km(10里)四方で少なくとも25平方キロメートルあり、『平安京』(23平方キロメートル)や『平城京』(24平方キロメートル)をしのぎ、 大極殿などの建物は中国風に瓦葺で造られた(日本の宮殿建築では初めて)。 ◎『藤原京』が711年(和銅4年)に焼失したという記事がある。これが事実だとすると、遷都の翌年に焼けたことになる。 しかし、『藤原京』跡での発掘で、火災の痕跡は発見されていない。 完成から16年後の710年、『平城京』に都を移されたのかははっきりと分かっていません。 わずか16年で廃都となった『藤原京』。わが国最初の都城・『藤原京』は、和銅3年(710)(続日本紀:しょくにほんぎ)『平城京』へ遷都され廃都と なった。何故これ程の短期に『藤原京』から『平城京』に遷都されたのであろうか。 その原因について諸々の研究されているがそれらを列挙すると以下のとおりである。 (1)汚水処理の不具合による疫病の多発など都市問題の深刻化。 (2)704年に帰国した遣唐使が持ち帰った唐・長安城の最新情報と『藤原京』との落差への衝撃。 (3)[藤原不比等]による藤原氏一門による朝廷に於ける権勢増大策の一貫として遷都を主導した。 これらのうち、私は(3)の[藤原不比等]説が最も当を得たものではないかと考えるがどうであろうか。 その理由は以下のとおりである。 ・天皇の外戚となって絶大な権勢を手中に収めたい[藤原不比等]にとっては、己の孫である[首皇子(聖武天皇)]を確実に即位させることが 悲願であった。[首皇子]即位に向けての基盤を盤石にする必要があった。 その為には必ず障害となる[皇親勢力]に[藤原氏]の権勢を誇示し畏怖させる必要があった。 遷都はそのための最良の策であった。 ・従って都市問題の深刻化や長安城との大きな齟齬(そご:上下の歯がかみ合わない事:つまり、食い違いがある)は [藤原不比等]にとっては千載一遇の好機であった。 続日本紀:708年[元明天皇(女帝)]は平城京遷都の詔を発するが、 そのなかで「宮室を造る者は苦労し、これに住まう者は楽をする、ということばがある。遷都のことは必ずしもまだ急がなくてよい。」と述べた後で 「ところが王公大臣はみな言う」と続け、結論として「ここ(平城)に都邑を建てるべき(中略)、秋の収穫の終わるを待って、路や橋を造らせよ」と、 何とも歯切れの悪いものとなっている。これは[藤原不比等]等の圧力に抗しきれなかった[元明天皇(女帝)]が、心情の一端を言外に伝えたかった 結果の詔とも読める。 兎に角も和銅3年(710)3月10日平城京へ遷都され、『藤原京』は廃都となった。 ◎『藤原京』から平城京への遷都は707年に審議が始まり、708年(和銅元年)には[元明天皇(女帝)]により遷都の詔が出された。 しかし、710年に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、 寺院や邸宅は、山城国の『長岡京』に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。 (『長岡京(ながおかきょう)』は、784年から794年まで) ★『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。菅野真道らが(797年)に完成した。 内容は、[文武天皇(697年)]から[桓武天皇(791年)]まで。 日本書紀:トップ ページ ヘ このページ(その5)のトップ へ |
||||||||||||