【中世 守護大名・大内氏物語】 [その1]{*(アスタ記号) または( )内は、個人解釈 〕   〈池田 成臣〉
 
    [その1:目次]
 [古代の概要](古墳時代・飛鳥時代・奈良時代)
 [平安時代]  (16)代 多々良盛房(1150年頃:
初代 大内盛房:山口市大内に拠点を置く)
 [鎌倉時代]  (17)代 大内弘盛 (1186年頃)
         (18)代 大内満盛 (1206年頃)
         (19)代 大内弘成 (12??年頃)
         (20)代 大内弘貞  (12??年頃)
         (21)代 大内弘家 (1281年頃)
         (22)代 大内重弘 (1310年頃:
この代まで、周防国府の在庁官人)
         (23)代 大内弘幸 (1330年頃:周防国の武将)
 [室町時代]  (24)代 大内弘世  (1350年頃:周防・長門・石見の守護大名:
山口市大殿に本拠を構える)
         (25)代 大内義弘  (1380年頃:周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護大名)
    [その2](26)代 大内盛見  (1400年頃:周防・長門・豊前・筑前の守護大名)
         (27)代 大内持世  (1431年頃:周防・長門・豊前・筑前の守護大名)
         (28)代 大内教弘  (1441年頃:周防・長門・豊前・筑前・肥前の守護大名
:安芸、石見の一部を領有
         (29)代 大内政弘  (1465年頃:周防・長門・豊前・筑前の守護大名
:安芸、石見の一部を領有
         (30)代 大内義興  (1492年頃:周防・長門・石見・安芸・豊前・山城の守護大名)
    [その3](31)代 大内義降  (1524年頃:周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護大名:
大寧寺で自害
         (32)代 大内義長  (1543年頃:周防・長門の戦国大名:大内家
最後の当主
             大内輝弘 (1568年頃:大内再興で決起)  *巻末(中世 山口県城跡 map
 
   
  *【(1)琳聖太子】については、【(25)代 大内義弘】を参照。
  *(7)代 多々良正恒から、【多々良氏】を名乗る。(右田周辺を拠点)
  *(16)代 多々良盛房から、「山口市大内」に拠点を移し。 地域豪族として、地名から【大内氏】を名乗る。
 
 
【古代の概要】

古墳時代(3世紀中頃〜6世紀)
     6世紀中頃 ?:防府に桑山塔ノ尾古墳・岩淵古墳・車塚古墳が造られる。
飛鳥時代(592〜710))
 593:推古天皇即位。(603年:来目皇子(聖徳太子の弟)を土師猪手〈はじのいて〉が桑山に殯(もがり:仮埋葬)する ⇒ 塔ノ尾古墳と年代がずれる?)
 645:(大化の改新)律令制が制定され、国衙の造営が始まる。周防国衙=何時頃 造営されたか(?)は、解っていません。
 670?:防府市右田高井に大日古墳の造営
(埋葬者は不明。琳聖太子との伝承があるが、? また、大仁土師娑婆連猪手との伝承もある。)
奈良時代(710〜794):周防国衙の木簡に、[達良君猪弖(たたらのきみいて)]の人名が記載。
           (これが文献で確認できる
大内氏の最古の記録とされている。?)
 *国衙
(こくが)=日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画。
    国衙に勤務する官人(国司)・役人や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。 
    国衙は国の政務機関の役所群の意味。 
 *国司
(こくし、くにのつかさ)=古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、
    四等官制
(しとうかんせい)である 守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す。
    国司は国衙において政務に当たり、 祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。
 *国衙領
(こくがりょう)=平安時代中期頃以降の公領を、荘園に対して呼ぶ歴史学用語。
 *国府(
こくふ)=奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。
    国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、
    各国における政治的中心都市であるとともに 司法・軍事・宗教の中心部であった。
 *国庁=国衙の中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。
 *律令制=概して7世紀後期(飛鳥時代後期:推古天皇期)から10世紀頃まで実施された、法体系。
古代 国造 map
 ★古代の行政には、大和王権が国ごとに、国造(くに の みやつこ・こくぞう)を任命した。
  *国造=古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。 
      地域の豪族が支配した領域が国として扱われたと考えられる。 
      朝廷への忠誠度が高い「県主
(あがたぬし)」とは違い、 国主(くにぬし)と言われた
      有力な豪族が朝廷に帰順して「国造」に任命された。
  *県主=律令制が導入される以前のヤマト王権の職種・姓
(かばね)の一つである。
      地方の豪族がそのまま任じられたと言われている「国造」とは違い、「県主」は
      ヤマト王権への忠誠度が高く、 ヤマト王権の代権者としてその地方を治めたと
      考えられている。 
      その詳細は律令国が整備される前の行政区分であるためはっきりとはしていない
       部分が多い。
  * 県
(あがた)=ヤマト王権が直轄する地方行政区分の一つ。(天領地のようなもの)
 
                
【国司の祭祀する神社map】
    
*国司は、神社の祭祀も重要な勤めであったが、各神社が
    遠いので「国衙」近くに「総社」を造り合祀する。  
【長門国衙】=毛利氏による近世城下町が築かれたため、
  国府の遺構が壊される結果となり、国衙位置も明らかで
  ないが、総社のあった位置などから、
  現在の忌宮神社境内周辺と推測されている。

平安時代(794〜1185)
815:編纂された古代氏族名鑑[新撰姓氏録
(しんせんしょうじろく)]に、 任那系の渡来人として「多々良公(氏)」が掲載されており、
   この一族との関連性も考えられる。
   多々良大内氏は、代々 周防国で「周防権介」を世襲した「在庁官人」の出であること以外、実態は不明である。
  *権介
(ごんのすけ)=「介」は国衙で国司に次ぐ No2の官人、「権」は定員外の役職。
  *在庁官人
(ざいちょうかんじん)=中央派遣の「国司」が現地で採用する実務官僚であり、地方有力者が多い。
901:菅原道真が太宰府に左遷途中、国府に立ち寄る。(菅原道真は、太宰府の権帥
ごんそち:定員外の「帥」)

1152:在庁下文に、【多々良氏】3名が署名している。 
   これが【多々良氏】の初見であり、この頃すでに在庁官人として大きな勢力を持ち始めたと推定される。 
  *在庁下文=国庁の行政文書。
  *周防国に、奈良時代の後半から平安時代には『多々良氏』の一族が居たことが、わかります。
  *【多々良氏】=中世の集落があった右田周辺を本拠地としていた。
  * 王権より任命された「国司」は、一定の租税収入が確保されると、任国へ赴任しないようになった、
   そのため、実務上の最高位は次官の「介」であった、【多々良氏】が実権を握り、次第に豪族化する。
  *【(16)
多々良盛房系譜参照】が、周防で最有力の実力者となり、「周防介」に任じられた。 
   その後、盛房は、大内(山口市大内 ?)に移り住み、【
大内氏】を名乗る。
1156:保元の乱(皇位継承の内紛)により朝廷が[77代:後白河天皇方]と[75代:崇徳上皇方]に分裂。
   [天皇方(平家)×上皇方(源氏)の対立で【(16)大内盛房 親子?】が上皇方に加担]
1177:平家打倒の陰謀事件で、【(16)大内盛房、(17)弘盛盛保】らは伊豆等に流罪にされたが、 翌年に罪を許された。
   このため在庁で重きを成しだしたのが【(17)弘盛】であった。
  【(17)弘盛】は寿永年間(1182〜1183)から大内介・権介を称している。
1179:平清盛による平氏政権の成立。
1185:[壇ノ浦の戦い]
  *源平合戦では【(17)弘盛】は、源氏に味方をすることで地歩を固めていく。
   そのためか[壇ノ浦の戦い]後には、在庁の最高権力者としての地位を固めた。

鎌倉時代(1185〜1333)
1186:「俊乗房重源」らが、東大寺再建のため、佐波川奥地の木材を切り出す。
  *【(17)
大内弘盛系譜参照】は、法皇(77代:後白河天皇)により、 周防に派遣された重源の国務行為を地頭と共に妨害したりしている。 
    (1156:保元の乱の法皇〈77代:後白河天皇〉に対する確執か ?)
  * 地頭=国衙領を管理支配するために設置した職。 守護とともに設置された。
     在地御家人(平安時代には、貴族や武家の棟梁に仕える武士)の中から選ばれる。
1192:源 頼朝が征夷大将軍となり「鎌倉幕府」を創設。(実質的な創設は、2006年頃から、1185年とする新説)
1206:【(18)
大内満盛系譜参照】は、山口白石に瑞雲寺を創建した。これが後年に激しくなる【大内家】の山口盆地への進出の端緒(たんしょ)となった。
   瑞雲寺は、【(31)大内義隆】の菩提寺として、現在の地
(山口市大殿:大内館跡)に移築して、「龍福寺」と称した。

  *山口に拠点を置いた【大内氏】は「山口」から「国衙」の道路を整備して、
   「山陽道」も「大前
(おおさき)の渡し」の点線ルートを「大渡し:本橋付近の中州
   で川越するるルートに変えた。(後の「大内氏の古文書の壁紙〈条例を書いた
   文書〉」に、渡し賃などを書いてありました)
  *[右田ヶ岳城
参照:城跡 map]は、右田ヶ岳の山頂に鎌倉時代末期に築城さ
   れており、頂上は東・中・西の3つに分かれている城。
   【大内氏】の本拠・山口防衛の要衝で、急峻な右田ヶ岳により天然の要害と
   なっていた。現在は、城跡は不明。
 
12??:【(19)
大内弘成系譜参照】父の【(18)満盛】の頃から続く【大内家】の
   発展期であり、実質的には守護に近い扱いを「六波羅探題」より受けていた
   といわれる。
  *「六波羅探題
(ろくはらたんだい)」=鎌倉幕府の職名の一つ。朝廷方の動きを常に
   監視し、西国の御家人を組織して京の警備・朝廷の監視・軍事行動などを行わ
   せた。
   【(20)大内弘貞系譜参照】 周防国の在庁官人。 祖父【(18)満盛】は鎌倉幕府の設立に貢献し、周防・長門国における領地を広げたが、
   西国武士ということもあって完全なる幕府の管轄は受けなかった。
  【(20)弘貞】は幕府の御家人に近いような振る舞いをするようになり、幕府の閑院御所の造営にも加担した。
1274:[元寇
(げんこう)]一次蒙古襲来。
1
281:二次蒙古襲来の際には幕命を受けて、豊前国へ進出。元軍に備えた。
  【(20)弘貞】は信仰心篤い武将で、阿知須に北方八幡宮等を造営する。

  【(21)
大内弘家系譜参照】 大和国矢田郷(現在の大和郡山市)で生まれたという。 1300年に27才で死去。

  【(22)
大内重弘系譜参照】 在庁官人大内氏の当主。
  「大内氏系図」には、【(22)重弘】は六波羅探題の評定衆を務めていたと記されている。
   大内氏は周防の在庁官人から鎌倉幕府の御家人となっており、六波羅探題傘下で京都の治安維持にあたる「在京人」となっていた。
1312年以降に国衙に赴任した大勧進職・国司上人が、在庁官人や他の寺社領を全て国衙領に加える事で在庁官人と全面衝突する。
   在京していた【(22)重弘】は六波羅探題での地位を利用して幕府や朝廷に働きかけ、東大寺の末寺である阿弥陀寺の所領を寄進して収拾を図った

  【(23)大内弘幸系譜参照】周防国の武将
1331:[96代
後醍醐天皇]をによる鎌倉幕府(執権:北条氏)討幕で【(23)弘幸】は、幕府に味方して後にうとまれ、長門探題(元寇に対処するための
   最前線防衛機関:北条氏が長門守護)を討った叔父「
鷲頭長弘系譜参照」が、周防守護に命じられ、大内氏の惣領として君臨した。
 
  *[
鷲頭長弘]=【(16)初代:大内盛房】の三男が、都濃郡鷲頭庄(現・山口県下松市の切戸川流域)を領地として[鷲頭氏]を称した。 
   [鷲頭氏]の居館は、現在の下松市の鷲頭山の山麓にあったと推定される。
   [鷲頭氏]の血脈が途絶えたため、宗家から【(21)
大内弘家】の次男を[鷲頭長弘]として迎えた。
 
  ([
後醍醐天皇]隠岐島に幽閉→1333年 脱出)
1333:[
後醍醐天皇]が再度挙兵すると、[足利尊氏]がこれに呼応して鎌倉を陥落させる。 鎌倉幕府滅亡。
 
 
★ 建武の新政 (
けんむのしんせい:1333〜1336)
  *建武の新政=鎌倉幕府滅亡後に[
後醍醐天皇]が「親政(天皇が自ら行う政治)」を開始する。
   天皇親政
(天皇が院政をおこなわず、実権を握ること)によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、
  [
足利尊氏]が離反したことにより、政権は崩壊した。
1335:【(23)弘幸】は、[
足利尊氏]に款(かん:交わりを親しくする)を通じ、武家方となった。
   しかし、弟の【弘直】は、[
後醍醐天皇]方に味方して、武家方と戦った。(兄弟が南朝・北朝で戦う)
1336:[足利尊氏]は[
後醍醐天皇]方との戦いで大敗し、[足利尊氏]は京都を放棄して、一旦、九州に落ちて再起をはかる。
   官軍(
後醍醐天皇方)の追撃に備え中国地方全域の総指揮者として、上野頼兼(足利一族)を石見国の守護に、周防国には守護「鷲頭長弘」、
   長門国には守護「厚東氏」を配置した。 ほどなく[
足利尊氏]は東上を開始する。

    この年、周防国衙の国司上人は、[
後醍醐天皇]の寵遇(ちょうぐう:目をかけて特別に扱う)が厚かった。
   周防・長門の武将の多くが[
足利尊氏]に味方して上京するなか、国衙の役人であった小目代 清尊(僧籍)達は、上司の上人と[後醍醐天皇
   との繋がりを思い[
足利尊氏]に敵対し、験観寺を城として籠城する。(敷山城:参照:城跡 map) 【敷山城の戦い

  ★【敷山城の戦い】 * 験観寺=矢筈ヶ岳の八合目付近が敷山と呼ばれ、12寺坊の寺があった。
    京都の戦に敗れた「
足利尊氏」は一旦、九州に落ちて再起をはかることとし。将兵を山陽道の諸国に配置して、官軍の追撃に備え、
   周防国には守護 大内弘直
鷲頭長弘)、長門国には守護「厚東氏」を配置した。 
   防長地方の豪族の大勢はすでに「
足利尊氏」へと靡(なび)いていた。
 
   「
足利尊氏」は九州から東上の途につき、「足利尊氏の一族・上野氏」を石見国の守護に任じて、中国地方全域の総指揮者の役割も与えた。
   かくして、周防、長門、安芸、石見など近隣諸国の豪族は競って「
足利尊氏の一族・上野氏」の旗の下に集まった。
    周防国の大内弘直
鷲頭長弘の甥)だけは、反「足利尊氏」の姿勢を貫いていたが、その勢力は振るわず。 
   これに反して「
足利尊氏」の傘下に入った「鷲頭長弘」は、大内家の長老として一族の支持を得、長門の「厚東氏」とも結束を固め、
   勢力を伸ばしていった。
    防長の天下が「
足利尊氏」へ靡(なび)いていくのを歯がゆく見ている男もいた。周防国府の「清尊」達である。
   周防国府の国司 上人
(京都法勝寺の長老)は、後醍醐天皇(1332年:鎌倉幕府により隠岐の島に流島)の寵遇(ちょうぐう:寵愛して特別に待遇すること。
    ・目をかけて特別に扱うこと。
)が厚かった。
   「清尊」達らが深く尊敬している最大の上司の上人と
後醍醐天皇との深い繋がりを思うと、「足利尊氏」憎しの血がたぎる。
   だが、身は僧籍にあり武力は持たない。勝負も既に見えている。
    しかし後方を攪乱し、「
足利尊氏」に一泡吹かせることは出来るのではないか。 国府の「清尊」達は、遂に決断した。 
   僧衣を捨て、勝ち目のない戦いに向けて兵を挙げたのは、九州から東上して来た「
足利尊氏」が湊川の戦(摂津国)で楠木正成と
   新田義貞を破った直後の5月末であった。
   
    次の問題は挙兵の場所、城である。 国庁は防府の平野にあって城には適していない。そこで「清尊」等は、矢筈ヶ岳中腹の験観寺
   目を向けた。 大きな寺で、本丸・二の丸になり得る建物も備わっているので、ここに籠城する。
 
    しかし、[
足利尊氏 勢]は、安芸勢を東の江泊(浮野)から、長門勢を西の佐波川から、石見勢を北の真尾峠から差し向けた軍勢に
   より験観寺は、あえなく陥落した。
 
   *【(23)弘幸】の弟【弘直】も「
足利尊氏の一族・上野氏:中国地方全域の総指揮者」の留守の石見で、旗揚げして背後を脅かしたが戦死する。
 
 
 
室町時代  (1336〜1573

南北朝時代 (1336〜1392)
  *南朝(大和国吉野行宮
〈あんぐう:かりみや〉)=後醍醐天皇、大覚寺統の天皇。   1339年:後醍醐天皇崩御
  *北朝(山城国平安京)=足利尊氏に擁立された持明院統の天皇
1341:室町幕府〈足利将軍〉成立後は「
鷲頭長弘系譜参照」も[足利尊氏]に取り入って、周防守護職の座にあった。
  「
鷲頭長弘」と【(23)弘幸】の対立は続いており、「鷲頭長弘」の放火によって【大内氏】の氏寺 興隆寺が焼失するなど、
1350:【(23)弘幸】は、子の【(24)弘世】とともに「
鷲頭長弘」討伐に乗り出し、東大寺領吉敷郡椹野庄に乱入。
   翌年に[南朝
:吉野朝廷]に帰順。 子の【(24)大内弘世】が南朝から周防守護職に任じられた。
  「
鷲頭長弘」討伐を成し得ぬまま、1352年に【(23)弘幸】は死去。
 
【(24)
大内弘世系譜参照】 南北朝時代の武将、守護大名。周防・長門・石見守護

   
1353:「
鷲頭長弘」と講和して鷲頭一派を傘下に収めた。
   長門国の[厚東氏]は、一族が内部分裂する。 大内氏を取り巻く状況が急変した。
  
  *
厚東氏物部守屋(560:欽明期の蘇我氏と並ぶ、朝廷2大勢力)を祖とし、平安時代に長門守に[物部氏の末裔]がいて、
    厚東氏はこの流れをくみ、厚狭郡東部を支配した在地武士であったが、徐々に勢力を広げていった。
    また、赴任国司の一族が土着して地方豪族に発展 したとする説。
   
「南朝〈吉野朝廷〉」から長門守護に任命され、一族は豊前国企救郡を拝領した。 (名の由来は、厚狭郡の東部からか ?)
  
   [厚東氏]は、源平合戦において、初めは平氏方に加わったが、後に源氏方に転じ、壇ノ浦の戦いでの軍功が認められ、
   厚東郡主となった。  蒙古来襲の役においては、鎌倉幕府の命令によって大内氏とともに出陣し、軍功が認められた。

1355:【(24)弘世】は、南朝方に就いて周防守護職を得て、本格的な[厚東氏]攻略が始まり長門に進出[厚東氏]との戦いに突入する。
1358:霜降城
(宇部市:参照:城跡 mapは落城。 厚東氏最後の拠点であった長府 四王寺城参照:城跡 mapが落城して、
   [
厚東氏]は長門を捨て、故地である豊前企救郡に逃亡した。       【(24)弘世】は、防長両国の守護となった。
  *(山口県 三大豪族の豊田氏
〈下関市豊田町:藤原摂関家の子孫:一ノ瀬城:参照:城跡 mapも、この頃に衰退する)
 
1360:【(24)弘世】は、本拠を山口大内から
山口へ移転。 京都に倣(なら)った都市計画に基づく市街整備を行い、
   後の大内文化に繋がる基礎を築いた。また、京から迎えた姫君を慰めようと、一の坂川を京都の鴨川に見立てて、
   宇治のゲンジボタルを取り寄せ、放したと伝えられている。
1363:【(24)弘世】は、「南朝
〈吉野朝廷〉」に見切りをつけて「北朝〈室町幕府:足利将軍〉」に帰順した。
1366:「足利一族」率いる石見の南朝勢力を駆逐した戦功により石見守護にも任じられる。
   ところが、北朝・室町幕府への帰服を一時的なものと捉える【(24)弘世】と、室町幕府の安定化をみて、その体制下での
   生き残りを図ろうとする、【
嫡男(25)義弘】の間で対立が生じるようになる。
1374:安芸国人[毛利元春]を攻め、 1376年にも再度侵攻した。
   これを知った3代将軍足利義満や管領細川頼之から咎められて石見守護職を剥奪されたため撤兵した。
1379:【(24)弘世】と異なって今川貞世の傘下として各地を転戦していた 【
嫡男(25)義弘】に石見守護職が与えられ、
   【(24)弘世】と 【
嫡男(25)義弘】の力関係が逆転することになる。
1380:【(24)弘世】は死去しているが、【
嫡男(25)義弘】と弟の【満弘】が家督を巡って内戦をしている中の死であった。
   しかも、当時の大内氏は【
嫡男(25)義弘】が実権を握りつつあったにも関わらず、鷲頭氏をはじめ多くの重臣が【満弘】陣営に参加している。
   【(24)弘世】は、【
嫡男(25)義弘】を廃して弟の【満弘】を後継者にしようとした。
   【(24)弘世】の死に、【
嫡男(25)義弘】が関与している可能性がある説もある。
 
 
   【(25)
大内義弘系譜参照】 武将・守護大名。 周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護。
 
       
 
  *【(25)義弘】は、百済王族『
琳聖太子』の末裔を自称し始める。
  *【(25)義弘】は朝鮮半島との貿易を重視した。その中でより朝鮮半島(当時は高麗)との関係を重視するため、
   『琳聖太子』なる人物を捏造して、その子孫を称したと思われる。
   【大内氏】の先祖は[百済]の末裔だと、親近感をもたせ、高麗、明とも独自の貿易を行なった。
    朝鮮との貿易での利益が【大内氏】勢力伸長の大きな要因となった。→下図の
肥中(ひじゅう)街道を整備。 
 
              
 
  *15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒(
ふちょう:家や氏の系譜を書き表した文書)』によれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ、
   推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(防府市)に上陸。
   聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県
(おおうちあがた)を賜ったという。
    しかし、現在の研究では、大内氏は周防国の在庁官人が豪族化して勢力を拡大したという結論に至っており、
   琳聖太子という人物名は、当時の日本や百済の文献に見ることはできない。
  *興福寺大乗院(奈良)の『寺社雑事記』の(1472年)の項では、「大内は本来日本人に非ず…或は又高麗人云々」との記述が見える。
  *琳聖太子の墓所は存在しないが、琳聖太子供養塔が山口市大内御堀の乗福寺に残っている。
 
1391:[〈室町幕府〉3代将軍:足利義満]は、勢力が強すぎた守護大名の弱体化を図る。[山名氏]を挑発して謀反
(むほん)に追い込む。
   【(25)義弘】他、守護大名が鎮圧する。 が、【(25)
長男義弘】の弟【2男満弘】は、戦死する。
    この功績で、【(25)義弘】は、和泉・紀伊国の守護に任じられ、6カ国の守護となる。
1392:【(25)義弘】は、[(3)足利義満]の命を受けて南北両朝の和睦を調停する。
1399:[(3)足利義満]の大守護抑圧政策にあい、【(25)義弘】は反乱を起こし、堺で戦死する。
  *6ヶ国守護を兼ね貿易により財力を有する強大な【大内氏】の存在は将軍専制権力の確立を目指す[(3)義満]の警戒を誘った。 
  *九州での出兵、南北朝合一、等の自らの功績を述べが、それにも関わらず将軍家は和泉と紀伊を取り上げようとし、
   先年の戦いで討ち死にした、弟【
2男満弘】への恩賞がない不満を募らせていた。
  *[(3)義満]は北山第(義満の邸宅、死後に
金閣寺)の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めた。
   しかし、諸大名の中で【(25)義弘】のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わず、[(3)義満]の不興を買った。
  *[(3)義満]が裏で【(25)義弘】を討つように命じていたとの噂もあり憤慨していた。
   大陸との貿易の推進を図る[(3)義満]にとっても朝鮮と強いつながりを持つ【(25)義弘】の存在は目障りなものになった。
  *[(3)義満]は度々【(25)義弘】へ上洛を催促する。 「和泉、紀伊」の守護職を剥奪する。
   『上洛したところを誅殺される』との噂が流れ、【(25)義弘】を不安にさせた。
  *追い込まれた【(25)
長男義弘】は[鎌倉公方(室町幕府の出先機関)足利満兼]と密約を結び。
   左遷された守護・旧南朝の武将に挙兵をうながし、室町幕府に対して反乱を起こしたが、敗走する。 
  *戦乱終盤時【
5男弘茂】は最早これまでと自害しようとしたが、家臣に押し止められて降伏をする。
  *その後の論功行賞で[(3)義満]は【大内氏】の分国和泉・紀伊・石見・豊前を没収。周防・長門を降参した【5男弘茂】に与えた。
   しかし、周防・長門の本拠を守っていた、弟【
4男盛見】はこれに従わずに抵抗。
   【
5男弘茂】は幕府の援軍とともに【4男盛見】と、数度の合戦の後【5男弘茂】は滅ぶ。
  *【盛見】は更に安芸、石見まで勢力を伸ばす。 幕府もこれを認めざるを得なくなり、
   【
4男(26)大内盛見】に周防・長門の守護職を与え、更に豊前・筑前の守護まで加えてようやく帰順させた。
    こうして、いったんは没落しかけた【
大内氏】は再び勢力を盛り返すことになった
 
 
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