【中世 守護大名・大内氏物語】 [その1]{*(アスタ記号) または( )内は、個人解釈 〕 〈池田 成臣〉 [その1:目次] [古代の概要](古墳時代・飛鳥時代・奈良時代) [平安時代] (16)代 多々良盛房(1150年頃:初代 大内盛房:山口市大内に拠点を置く) [鎌倉時代] (17)代 大内弘盛 (1186年頃) (18)代 大内満盛 (1206年頃) (19)代 大内弘成 (12??年頃) (20)代 大内弘貞 (12??年頃) (21)代 大内弘家 (1281年頃) (22)代 大内重弘 (1310年頃:この代まで、周防国府の在庁官人) (23)代 大内弘幸 (1330年頃:周防国の武将) [室町時代] (24)代 大内弘世 (1350年頃:周防・長門・石見の守護大名:山口市大殿に本拠を構える) (25)代 大内義弘 (1380年頃:周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護大名) [その2](26)代 大内盛見 (1400年頃:周防・長門・豊前・筑前の守護大名) (27)代 大内持世 (1431年頃:周防・長門・豊前・筑前の守護大名) (28)代 大内教弘 (1441年頃:周防・長門・豊前・筑前・肥前の守護大名:安芸、石見の一部を領有) (29)代 大内政弘 (1465年頃:周防・長門・豊前・筑前の守護大名:安芸、石見の一部を領有) (30)代 大内義興 (1492年頃:周防・長門・石見・安芸・豊前・山城の守護大名) [その3](31)代 大内義降 (1524年頃:周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護大名:大寧寺で自害) (32)代 大内義長 (1543年頃:周防・長門の戦国大名:大内家最後の当主) 大内輝弘 (1568年頃:大内再興で決起) *巻末(中世 山口県城跡 map) *【(1)琳聖太子】については、【(25)代 大内義弘】を参照。 *(7)代 多々良正恒から、【多々良氏】を名乗る。(右田周辺を拠点) *(16)代 多々良盛房から、「山口市大内」に拠点を移し。 地域豪族として、地名から【大内氏】を名乗る。 【古代の概要】 ★ 古墳時代(3世紀中頃〜6世紀) 6世紀中頃 ?:防府に桑山塔ノ尾古墳・岩淵古墳・車塚古墳が造られる。 ★ 飛鳥時代(592〜710)) 593:推古天皇即位。(603年:来目皇子(聖徳太子の弟)を土師猪手〈はじのいて〉が桑山に殯(もがり:仮埋葬)する ⇒ 塔ノ尾古墳と年代がずれる?) 645:(大化の改新)律令制が制定され、国衙の造営が始まる。周防国衙=何時頃 造営されたか(?)は、解っていません。 670?:防府市右田高井に大日古墳の造営 (埋葬者は不明。琳聖太子との伝承があるが、? また、大仁土師娑婆連猪手との伝承もある。) ★ 奈良時代(710〜794):周防国衙の木簡に、[達良君猪弖(たたらのきみいて)]の人名が記載。 (これが文献で確認できる大内氏の最古の記録とされている。?) *国衙(こくが)=日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画。 国衙に勤務する官人(国司)・役人や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。 国衙は国の政務機関の役所群の意味。 *国司(こくし、くにのつかさ)=古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、 四等官制(しとうかんせい)である 守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す。 国司は国衙において政務に当たり、 祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。 *国衙領(こくがりょう)=平安時代中期頃以降の公領を、荘園に対して呼ぶ歴史学用語。 *国府(こくふ)=奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。 国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、 各国における政治的中心都市であるとともに 司法・軍事・宗教の中心部であった。 *国庁=国衙の中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。 *律令制=概して7世紀後期(飛鳥時代後期:推古天皇期)から10世紀頃まで実施された、法体系。 |
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古代 国造 map | ||||||||||||
★古代の行政には、大和王権が国ごとに、国造(くに の みやつこ・こくぞう)を任命した。 *国造=古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。 地域の豪族が支配した領域が国として扱われたと考えられる。 朝廷への忠誠度が高い「県主(あがたぬし)」とは違い、 国主(くにぬし)と言われた 有力な豪族が朝廷に帰順して「国造」に任命された。 *県主=律令制が導入される以前のヤマト王権の職種・姓(かばね)の一つである。 地方の豪族がそのまま任じられたと言われている「国造」とは違い、「県主」は ヤマト王権への忠誠度が高く、 ヤマト王権の代権者としてその地方を治めたと 考えられている。 その詳細は律令国が整備される前の行政区分であるためはっきりとはしていない 部分が多い。 * 県(あがた)=ヤマト王権が直轄する地方行政区分の一つ。(天領地のようなもの) 【国司の祭祀する神社map】 |
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*国司は、神社の祭祀も重要な勤めであったが、各神社が 遠いので「国衙」近くに「総社」を造り合祀する。 【長門国衙】=毛利氏による近世城下町が築かれたため、 国府の遺構が壊される結果となり、国衙位置も明らかで ないが、総社のあった位置などから、 現在の忌宮神社境内周辺と推測されている。 |
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★ 平安時代(794〜1185) 815:編纂された古代氏族名鑑[新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)]に、 任那系の渡来人として「多々良公(氏)」が掲載されており、 この一族との関連性も考えられる。 多々良大内氏は、代々 周防国で「周防権介」を世襲した「在庁官人」の出であること以外、実態は不明である。 *権介(ごんのすけ)=「介」は国衙で国司に次ぐ No2の官人、「権」は定員外の役職。 *在庁官人(ざいちょうかんじん)=中央派遣の「国司」が現地で採用する実務官僚であり、地方有力者が多い。 901:菅原道真が太宰府に左遷途中、国府に立ち寄る。(菅原道真は、太宰府の権帥 ごんそち:定員外の「帥」) 1152:在庁下文に、【多々良氏】3名が署名している。 これが【多々良氏】の初見であり、この頃すでに在庁官人として大きな勢力を持ち始めたと推定される。 *在庁下文=国庁の行政文書。 *周防国に、奈良時代の後半から平安時代には『多々良氏』の一族が居たことが、わかります。 *【多々良氏】=中世の集落があった右田周辺を本拠地としていた。 * 王権より任命された「国司」は、一定の租税収入が確保されると、任国へ赴任しないようになった、 そのため、実務上の最高位は次官の「介」であった、【多々良氏】が実権を握り、次第に豪族化する。 *【(16)多々良盛房:系譜参照】が、周防で最有力の実力者となり、「周防介」に任じられた。 その後、盛房は、大内(山口市大内 ?)に移り住み、【大内氏】を名乗る。 1156:保元の乱(皇位継承の内紛)により朝廷が[77代:後白河天皇方]と[75代:崇徳上皇方]に分裂。 [天皇方(平家)×上皇方(源氏)の対立で【(16)大内盛房 親子?】が上皇方に加担] 1177:平家打倒の陰謀事件で、【(16)大内盛房、(17)弘盛、盛保】らは伊豆等に流罪にされたが、 翌年に罪を許された。 このため在庁で重きを成しだしたのが【(17)弘盛】であった。 【(17)弘盛】は寿永年間(1182〜1183)から大内介・権介を称している。 1179:平清盛による平氏政権の成立。 1185:[壇ノ浦の戦い] *源平合戦では【(17)弘盛】は、源氏に味方をすることで地歩を固めていく。 そのためか[壇ノ浦の戦い]後には、在庁の最高権力者としての地位を固めた。 ★ 鎌倉時代(1185〜1333) 1186:「俊乗房重源」らが、東大寺再建のため、佐波川奥地の木材を切り出す。 *【(17)大内弘盛:系譜参照】は、法皇(77代:後白河天皇)により、 周防に派遣された重源の国務行為を地頭と共に妨害したりしている。 (1156:保元の乱の法皇〈77代:後白河天皇〉に対する確執か ?) * 地頭=国衙領を管理支配するために設置した職。 守護とともに設置された。 在地御家人(平安時代には、貴族や武家の棟梁に仕える武士)の中から選ばれる。 1192:源 頼朝が征夷大将軍となり「鎌倉幕府」を創設。(実質的な創設は、2006年頃から、1185年とする新説) 1206:【(18)大内満盛:系譜参照】は、山口白石に瑞雲寺を創建した。これが後年に激しくなる【大内家】の山口盆地への進出の端緒(たんしょ)となった。 瑞雲寺は、【(31)大内義隆】の菩提寺として、現在の地(山口市大殿:大内館跡)に移築して、「龍福寺」と称した。 |
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*山口に拠点を置いた【大内氏】は「山口」から「国衙」の道路を整備して、 「山陽道」も「大前(おおさき)の渡し」の点線ルートを「大渡し:本橋付近の中州」 で川越するるルートに変えた。(後の「大内氏の古文書の壁紙〈条例を書いた 文書〉」に、渡し賃などを書いてありました) *[右田ヶ岳城:参照:城跡 map]は、右田ヶ岳の山頂に鎌倉時代末期に築城さ れており、頂上は東・中・西の3つに分かれている城。 【大内氏】の本拠・山口防衛の要衝で、急峻な右田ヶ岳により天然の要害と なっていた。現在は、城跡は不明。 12??:【(19)大内弘成:系譜参照】父の【(18)満盛】の頃から続く【大内家】の 発展期であり、実質的には守護に近い扱いを「六波羅探題」より受けていた といわれる。 *「六波羅探題(ろくはらたんだい)」=鎌倉幕府の職名の一つ。朝廷方の動きを常に 監視し、西国の御家人を組織して京の警備・朝廷の監視・軍事行動などを行わ せた。 |
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【(20)大内弘貞:系譜参照】 周防国の在庁官人。 祖父【(18)満盛】は鎌倉幕府の設立に貢献し、周防・長門国における領地を広げたが、 西国武士ということもあって完全なる幕府の管轄は受けなかった。 【(20)弘貞】は幕府の御家人に近いような振る舞いをするようになり、幕府の閑院御所の造営にも加担した。 1274:[元寇(げんこう)]一次蒙古襲来。 1281:二次蒙古襲来の際には幕命を受けて、豊前国へ進出。元軍に備えた。 【(20)弘貞】は信仰心篤い武将で、阿知須に北方八幡宮等を造営する。 【(21)大内弘家:系譜参照】 大和国矢田郷(現在の大和郡山市)で生まれたという。 1300年に27才で死去。 【(22)大内重弘:系譜参照】 在庁官人大内氏の当主。 「大内氏系図」には、【(22)重弘】は六波羅探題の評定衆を務めていたと記されている。 大内氏は周防の在庁官人から鎌倉幕府の御家人となっており、六波羅探題傘下で京都の治安維持にあたる「在京人」となっていた。 1312年以降に国衙に赴任した大勧進職・国司上人が、在庁官人や他の寺社領を全て国衙領に加える事で在庁官人と全面衝突する。 在京していた【(22)重弘】は六波羅探題での地位を利用して幕府や朝廷に働きかけ、東大寺の末寺である阿弥陀寺の所領を寄進して収拾を図った 【(23)大内弘幸:系譜参照】周防国の武将 ★【敷山城の戦い】 * 験観寺=矢筈ヶ岳の八合目付近が敷山と呼ばれ、12寺坊の寺があった。 |
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