【中世 守護大名・大内氏物語】 [その2]{*(アスタ記号) または( )内は、個人解釈 〕
 
   【(26)
大内盛見(もりはる)系譜参照】 武将、守護大名。 周防・長門・豊前・筑前守護。
          
1400:【
5男弘茂】が周防・長門に下向すると、【(26)4男盛見】は敵対したが敗退して一旦豊後に引き下がる。
   【
5男弘茂】は守護として国内の平定に乗り出す。
1401:【(26)
4男盛見】は【5男弘茂】の留守を突いて反撃に出る、四王司城(長府:参照:城跡 mapを攻め落とされると【弘茂】は、
    佐加利山城に逃れた後、ここで自害した。 (佐加利山城
〈下山城〉:下関市長府:参照:城跡 map
   【
5男弘茂】の跡を継いだもう1人の弟【7男道通】をも滅ぼした上、 安芸・石見に進撃して 【7男道通】を
   支援した国人衆
(安芸・石見の在郷武士)も降伏させ、家督を掌握した。
   更に【
7男道通】の補佐を期待した【大内満世2男満弘の子)】も【(26)4男盛見】に降伏してしまった。
1404:[3代
将軍足利義満]は【(26)盛見】に対抗できるような人物をすべて失い、[少弐氏・菊池氏]に攻められている
   九州探題(室町幕府の職名)の支援に乗り出す必要性もあったため、【(26)盛見】には家督相続を追認、
   周防・長門守護職を安堵している。
   だが、前年に「周防・長門凶徒」として治罰(
じばつ:取り締まり罰する)の御判御教書を発して、
    追討の対象としてきた【(26)盛見】の討伐に失敗したことは、[(3)足利義満]にとっては屈辱であり、
   【(26)盛見】も[(3)足利義満]の在世中には決して上洛しなかった。
1408:[(3)足利義満]が没すると、以後は幕命により九州の経営に尽力し、豊前守護職にも任命される。
1409:【(26)盛見】は上洛して在京、相伴衆(
しょうばんしゅう:殿中で将軍に随従・相伴する人々の事。管領家の一族や有力守護大名に限定)として
   幕政に参加するなど幕府に重用された。
1425:九州探題が[少弐
(しょうに)氏・菊池氏]らに敗れると帰国して九州に下向し反乱を平定。
1429:再度上洛して新将軍となった[
6代将軍足利義教]に拝謁、筑前が幕府の御料所となると、
   【(26)盛見】は筑前の代官に任命された。 (後、守護となる) 
1431:【(25)義弘】を弔うためここに五重塔の建設を開始した。 (後の寺名:
瑠璃光寺の五重の塔)
   しかし、【(26)盛見】は、九州の[少弐氏・大友氏]と筑前の領有をめぐって敵対関係となり、九州に遠征して
   両氏と戦ったが、筑前国怡土郡にて戦死した。
  *【(26)盛見】の死後、甥の【(27)持世持盛】兄弟が後継ぎ争いを起こし、【(27)持世】が家督を継いでいる。
 
  ★ 山口市の「
七夕提灯祭り」は、【(26)盛見】がお盆の夜に先祖の冥福を祈るため、笹竹の高灯籠に火を灯したのが
   始まりと伝えられています。
 
 
   【(27)
大内持世(もちよ)系譜参照】武将、守護大名。 周防・長門・豊前・筑前守護
  *【(26)盛見】が敗死した後、【大内氏】内部では跡継ぎを巡って争いが起こった。
  *室町幕府との交渉で兄【(27)持世】に大内家の家督を継がせ、弟【持盛】に長門国と安芸の一部を継がせることが幕府に認められ。
1432:これに不満を抱いた、弟【持盛】は、九州出陣中であった 兄【(27)持世】の陣を襲って反乱を起こし、
   【大内氏】領国の掌握に成功、【(27)持世】は石見国の[三隅氏]を頼って逃亡した。
   【(27)持世】は、石見の国人衆の支持を背景にして山口を取り戻し、弟【持盛】は豊前国で討ち取られた。
1435:九州の[少弐氏・大友氏]が再挙兵すると、再び九州に向かい北九州を平定。
1439:九州遠征を終えた【(27)持世】は山口に帰還するが、【大内氏】の勢力が急速に拡大していくことに不安を覚えた
   [(6)足利義教
]は、【(27)持世】が上洛命令に応じないことを理由に安芸国の所領を没収する。
1440:【(27)持世】は、[(6)足利義教]に[少弐氏]との和睦を取り持ってもらうことで[少弐氏]を存続させる。
   これは、[少弐氏]と同盟関係にある対馬の[宗氏]との関係悪化を恐れたとも言われているが、一方で【(27)持世】が
   [李氏朝鮮]に対して対馬の割譲と引き換えに軍事同盟を結んで[少弐氏・宗両氏]を滅ぼそうと計画していたものの、
   翌年に突然の【(27)持世】の死亡によって立ち消えになった。
  *当時、[(6)足利義教]によって[一色氏・土岐氏]が殺害される事件があり、【(27)持世】の身も危惧されたが。
1441:【(27)持世】が[(6)足利義教]に反抗していた異母弟の[足利義昭]を匿っていた、薩摩国の[島津氏]を
   【(27)持世】が説得してその首を差し出させたことが[(6)足利義教]に評価されて信頼を得た。
    だが、この年、[赤松氏]が結城合戦の戦勝祝いにと祝宴を開いた時、【(27)持世】も[(6)足利義教]に従って
   臨席していたが、[(6)足利義教]は[赤松氏]に暗殺され【(27)持世】も重傷を負い、それがもとで死去する。
   跡を[甥]で【(26)盛見】の養子の【(28)教弘】を養嗣子(
ようしし:家督相続人となる養子)として継いだ。
 
 
   【(28)
大内教弘(のりひろ)系譜参照】 武将・守護大名。 最盛期には周防・長門・豊前・筑前・肥前と、
              安芸・石見の一部を領有し、強大を誇った。 応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。
              【(26)盛見】の子
(一説には大内持盛の次男)【(27)持世】の養嗣子となる。
              
1441:【(27)持世】が([
6代将軍:足利義教]の暗殺事件)に巻き込まれて死去したため後を継いで当主となり、
   周防・長門・筑前・豊前の4ヶ国を領する。
1442:当主就任後は幕命に従って九州探題(室町幕府の職名)と共に[少弐氏(北九州の名門)]と交戦。
 
 *
瑠璃光寺五重の塔が完成。
   (五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・奈良の法隆寺とならび日本三名塔の一つに数えられることもある。)
1446:長門国守護代[鷲頭氏]を解任し、2年後に鷲頭弘忠を長門国深川城にて攻め滅ぼした。
  [鷲頭氏]は【大内氏】と同族でかつ【大内氏】が周防国を征服するまで同国の守護を務めていた。
  【(28)教弘】は領内の荘園を保護する一方で、事実上の東大寺領であり【大内氏】歴代当主も手を出しづらかった
   周防国の国衙領にも夫役を課すなど、守護権力の強化に努めた。
1447:【大内氏】は安芸東部の西条(東広島市)を領有していたが、安芸中央の[武田氏]と対立し安芸へ侵攻。
1457:婿の厳島神社神主[佐伯親春]が[武田氏(甲斐武田氏支流)]に所領を横領されたため【(28)教弘】を頼り、
  【(28)教弘】は[武田氏]の居城佐東銀山城(広島市安佐南区)と己斐城(広島市西区)を攻めたが、
   幕府[
8代将軍:足利義政(銀閣寺を建立)]の命令を受けた[毛利煕元元就の4代前:安芸吉田の領主:主君山名氏)
   ・[小早川煕平(安芸沼田の領主:主君足利将軍)]・[吉川之経(安芸国在地の領主:主君足利将軍)]らの救援で
   両城の奪取に失敗した上、幕府は【(28)教弘】の【大内氏】当主の地位を剥奪し、嫡男(後の【(29)政弘】)
   に与えることした。
1459:長禄合戦(越前で[守護 斯波
(しばし)氏]と家臣[甲斐氏:足利将軍の直臣扱]の間に勃発した合戦群の総称)に敗れた
   [斯波
氏]が山口に亡命。
1461:幕府は[斯波氏]を匿っていることを理由に【(28)教弘】討伐を決め、【(28)教弘】の領土だった東西条を
   [武田氏]に与え、引渡しの命令を伝えるために[小早川煕平]を山口に派遣する検討をしている。
   これに反発した【(28)教弘】は、[小早川盛景
(安芸竹原領主:主君足利将軍)]らと共に東西条に出陣、
   [細川氏
(足利氏の支流)]及び幕府の支援を受けた[武田氏]と戦い、【大内氏】の勢力を安芸・石見・肥前に拡大した。
  *【(28)教弘】は、[細川氏]と朝鮮との交易(日朝貿易・日明貿易)を巡って争い勝利、朝鮮と通交する。
1463:先の処分が取り消され、名実ともに【大内氏】当主に復帰する。
  *管領として幕政に大きな影響を与えていた[細川氏]との対立は幕府との関係を悪化させていく。
1465:幕命に従って伊予の[河野氏]討伐に伊予に渡海したが、逆に[河野氏]と手を結んで四国における、
  [
細川勝元(細川氏嫡流:四国・摂津等守護:応仁の乱の東軍総大将)]の軍に対して優位に戦ったが、直後に病死する。
   死後、家督は長男の【(29)政弘】が継いだ。
 
◆朝鮮王朝から通信符を与えられ、交易の自由を保障される。

 
【(29)
大内政弘系譜参照】 守護大名。最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し、強大を誇った。
   応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。
1465:父に引き続き日明貿易をめぐり[管領 細川勝元]と争い[細川氏]と敵対する伊予の[河野氏]を支援する。
   これに対し[細川勝元]は【大内氏】追討の幕命を発し。  [武田氏
(甲斐武田氏支流)]や[小早川煕平(安芸沼田の領主)
   ・[毛利豊元
(元就3代前:安芸吉田の領主)]らが安芸で【大内軍】と衝突した。

1467〜1477:◆
応仁の乱◆ 8代将軍の継嗣争い等複数の要因によって発生。
  [
9代将軍:足利義尚]を推す[細川勝元]と[足利義視]を推す[山名氏]らの有力守護大名が争い全国に拡大した。
   乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
   十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。
 
1467:【(29)政弘】は西軍の[山名宗全]に与力し、上洛、およそ10年間にわたり畿内各地を転戦する。
1468:西軍に将軍として擁立された[足利義視]は【(29)政弘】を左京大夫に任ずる。
   これに対し、東軍側にいた将軍[
6代将軍:足利義政]は[山名宗全]・【(29)政弘】らを朝敵として討伐を命じた。
   これを受けて東軍方の[少弐氏(
しょうに し:北九州諸国の守護)]と[宗氏(対馬守護)]が、【(29)政弘】の不在を
   突いて筑前に侵攻するが、撃退されている。
1470:[少弐氏・細川勝元]らに使嗾(
しそう:指示)された【教幸(【(29)政弘】の叔父)】が、赤間関(下関市)で謀反を起こす。
   【(29)政弘】は、家臣を急遽帰国させ、留守を守っていた重臣[陶弘護(
すえ ひろもり:陶晴賢の祖父)]にも反乱鎮圧に加わらせた。 
   豊前にまで追い込まれた【教幸】は、自害し、乱を鎮圧された。
1473:[山名宗全]・[細川勝元]が相次いで病死し、[山名・細川両氏]が和解する。
   だが、戦いは小競り合いとなり、[(8)足利義政]は改めて【(29)政弘】を
(東軍による)左京大夫に任じるなどの懐柔に乗り出す。
1476:最終的に【(29)政弘】は[
8代将軍:足利義政]による東西和睦の周旋要請を受諾する。
   新将軍になった[
9代将軍:足利義尚]の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された【(29)政弘】と
   最後まで西軍方であった諸大名が帰国のために京都を出たことで、応仁の乱は収束した。
1477:応仁の乱が収束すると山口に帰国。
1478:九州に出陣して[少弐氏]と戦い、豊前・筑前を確保する。
   安芸、石見の豪族や国人らを臣従させ、北九州や瀬戸内海の海賊衆を平定するなど西国の支配権確立に力を傾ける。
    ところが、【(29)政弘】の留守中に、叔父【教幸】の反乱を鎮めた[陶弘護]が領国を掌握し、
   【(29)政弘】と[陶弘護]は対立を深めていく。
1482:そんな最中に山口の【(29)政弘】の館で[陶弘護]が[吉見氏(津和野城主)]に殺害される。
   (通説では[陶弘護]から実権を取り戻したい【(29)政弘】が背後にいたとする説もある。)
   殺害の理由はどうあれ、家中で最も力を持った重臣が消えたことで、【(29)政弘】は家中を掌握することに成功し、
   政庁機構の再編・専制確立の権力強化・戦場になった領国の再建に力を注ぐことになった。
1490:【(29)政弘】は朝廷が東大寺領として与えていた周防国の国衙領の目代に息子の【尊光】を任じて、 以後
   国衙領の租税は大内氏が徴収して東大寺に送付することとしたが、実際に徴収された租税が東大寺へ送られる事は無く、
  【大内氏】の領国の中で東大寺が独自の地位を築いてきた周防国の国衙領を押領することに成功した。
1495:中風が悪化したため【(30)義興】に家督を譲って隠居。 翌年に【(29)政弘】は死去した。
 
 ★
雪舟 
1454年頃:周防に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵を構える。
 (雲谷庵=山口市天花
〈野田学園の北300m〉:ここで毛利博物館所有の国宝・四季山水図長巻を描いたらしい(1486年)
1469:前年に遣明船で明へ渡航。 帰国し、周防のほか豊後や石見で創作活動、また美濃などへ旅行。
 
 *
常栄寺庭園:【(29)政弘】は当時山口に滞在していた雪舟等楊に対して庭園の造営を依頼し、枯山水を用いた池泉回遊式庭園を造る。
  1563年に毛利元就が息子隆元の急逝を嘆き、山口にあった国清寺
(【(26)盛見】の菩提寺)を接収して常栄寺とした。
 
 *常徳寺
(山口市阿東蔵目喜:山口線三谷駅から萩方面8Km)に池泉式鑑賞庭園があり、この庭園の作庭者は『雪舟』ではないかと
  いう伝承記録があり、常徳寺の開創時期
(1573〜1591)と雪舟の生年(1420〜1506)の隔絶から否定する記録(風土注進案)も残っています。
 
 
   【(30)大内義興:
系譜参照】 戦国大名。 周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護。
           
1492:父の命令で[六角氏
(近江守護)]討伐に参戦する。
   
(応仁の乱後、[六角氏]は荘園や将軍・義尚近臣の所領を押領するなど反抗的態度を表す、幕府は威信回復を企図して[六角氏]を討伐した。)
   ところが、その最中に管領[
細川政元]が将軍[10代将軍:足利義材(よしき)]を幽閉する政変が発生する。
  * 管領
(かんれい)=室町幕府で将軍に次ぐNO2の地位の官職
1495:父の死去により、名実ともに【大内氏】の当主となる。
  *先の畿内出兵中に【(30)義興】に従って出陣した[陶武護
(晴賢の叔父)]が[実弟]と対立して出奔する。
  [武護]は後に帰参して[実弟]を殺害する。?   
   そして、[陶武護]は【(30)義興】に[内藤氏]が【弟・大内高弘】を【大内当主】に画策している、
   と讒言(
ざんげん:作り話)したが、嘘がバレて。 【(30)義興】は[陶武護]を誅殺する。  
  [陶氏]は、末弟の[陶興房(晴賢の父)]に継がせて再興させた。
1496:【大内氏】は長い間、北九州で[大友氏]や[少弐氏]らと合戦を繰り広げながら勢力を拡大してきた。
   [大友政親]が【(30)義興】の【叔母】を妻として婚姻関係にあったが、北九州の【大内】領侵攻のために兵を挙げた。 
   ところが、[大友政親]の乗った船は遭難して事もあろうに【大内氏】の本拠地である長門国に辿り着いてしまう。
   【(30)義興】は激怒して[大友政親]を捕らえて切腹させてしまった。
   事件の背景には【大内氏】の勢力拡大と北陸地方に亡命中の前将軍[(10)足利義材]との連携を
   恐れた管領[細川政元]の暗躍があったとみられる。
1497:一方、筑前国の奪回を狙っていた[少弐氏]も[大友氏]と結んで肥前国から筑前国に兵を進めて【大内】軍と戦っていたが、
   【(30)義興】は筑前に攻め込んだ[少弐氏]を破って肥前へと侵攻、自らの勢力も広げた。
   一方で[大友氏]との戦いでは防戦を強いられ、苦戦している。
1499:重臣[杉氏]が、【(30)義興】の【弟:高弘】を【大内当主】に擁立する反乱を起こしたが【(30)義興】は、
   これを鎮圧して[杉氏]を自殺させ、【弟:高弘】は[大友氏]を頼って豊後に亡命した。
  *【弟:高弘】は管領[細川政元]が擁していた将軍[
11代将軍:足利義澄(義高)]の偏諱(へんき:貴人から名前を賜る)を
   受けて【大内高弘】と名乗っている。 
(これも、管領[細川政元]の暗躍があったと推察できる)
1500:諸国を亡命していた前将軍[10代将軍:足利義材]が【(30)義興】を頼って山口に入った。
   [(10)足利義材]は自らを現在でも現職の将軍であると主張して山口に自らの幕府を置き【(30)義興】も管領[細川政元]に
   対抗して[(10)足利義材]を擁して上洛しようとしていた。
   これに対して、将軍[(11)足利義澄]・管領[細川政元]は[大友氏]・【弟:大内高弘】・[少弐氏]・等に
   【(30)義興】討伐を命じるとともに、翌年には[後柏原天皇]から【(30)義興】討伐の綸旨(
りんし:天子の命令)を獲得した。
   【(30)義興】は「朝敵」ということになり、西日本の大名・有力国人28名に【(30)義興】討伐が命じられた。

    だが、この頃、大内領である豊前国に攻め入っていた[大友氏・少弐氏連合軍]は【(30)義興】の反撃を受け、西では豊前国を
   取り戻し、東では【(30)義興】の討伐命令の受けていた安芸国の[毛利弘元
(元就の父)]を味方に引き入れることに成功している。
   間もなく、【(30)義興】は前将軍[(10)足利義材]の仲介により[大友氏・少弐氏]と和睦し、北九州の勢力を保っている。
1504:【(30)義興】は、上洛の具体的な構想を描いて領国内で臨時の段銭徴収(
たんせんちょうしゅう:賦課された税)などを行う。
1507:現将軍[(11)足利義澄]を擁立して幕政を牛耳っていた管領[細川政元]にが暗殺された。
   その後も細川氏内部では抗争が続いたため、畿内進出の好機と見た【(30)義興】は、前将軍[(10)足利義材]の上洛を口実として
   九州・中国の諸大名に動員令を発した。
    [右田弘詮:大内分家]らに本国の留守を任せて山口から進発し、備後にまで進出した。
   これに対して[細川家]では、養子であった[細川高国]が【(30)義興】と通じて、同じく[細川家]の養子である
   [細川澄元]と対立・抗争する。
1508:[細川澄元]は[細川高国]・【(30)義興】らに圧迫され、現将軍[(11)足利義澄]と共に近江に逃走した。
   [(10)足利義材]を奉じて堺に入った【(30)義興】は上洛を果たし、[(10)足利義材]を将軍職に復帰させ、自らも管領代として
   [細川高国
(細川家当主)]と共に幕政を執行する立場になった。軍功により、【(30)義興】は山城守護も与えられた。
   
(管領代として11年間京都に居住、一時期ではあるが幕府の実権を握る。)
1516:【大内氏】に日明貿易(遣明船派遣)の管掌権限を恒久的な特権として与えられた。
   (これは[細川高国]の反対を押し切ったものであり、後(1523年)の明との貿易の主導権をめぐっておこった
    【大内氏】と[細川家]の争いの原因となる。)

    しかし次第に将軍[(10)足利義材]や[細川高国]と不仲になり、さらに長引く在京に耐え切れなくなった領国の
   石見や安芸の国人の中で勝手に帰国する者が相次いだ。 そこへ出雲の[
尼子経久(あまご つねひさ)]が侵攻を開始してきた。 
1517:【(30)義興】は、はじめ在京して[尼子氏]を討つため、石見守護となり、[益田氏]や[
吉川氏]など石見在地の豪族と手を結んだ。 
    
(ただし、尼子経久の侵攻と義興の石見守護補任については異なる解釈もある)
1518:しかし[尼子氏]の勢力拡大は抑え難かったため、管領代を辞して堺を出発し、山口に帰国した。
   帰国した【(30)義興】がもっとも力を注いだのは在京中に離反の姿勢を見せた安芸国の[武田氏]や[友田氏]との戦いであった。
1523:[尼子経久]の安芸進出を本格化させ、[
武田氏・友田氏]とも通じた事から、[尼子氏]の【大内領】への侵攻が本格化していく。
   石見は[尼子軍]に攻略され、安芸では【大内家】に従属していた[毛利氏]が[尼子方]に寝返った。
   [尼子経久]は[毛利家当主・毛利元就]を利用して、【大内家】の安芸経営の拠点である安芸西条の鏡山城を攻略させるなどして、
   一時は【大内氏【を圧倒した。
   これに対して【(30)義興】は安芸・石見に出兵して連年のように[
尼子氏]と戦うが、思うように戦果が上がらなかった。
1524:安芸厳島にあった[友田氏]の拠点 桜尾城
参照:城跡 mapを攻略し、[武田氏]の拠点、佐東銀山城(広島市安佐南区:参照:城跡 map
   攻防戦で[尼子軍]を撃破する。
1525:[毛利氏]を継いだ[
毛利元就]が再び帰参したため、安芸における勢力をやや回復する。
   また、[尼子氏]も山陰地方東部を支配しかつ備後国の守護でもあった[山名氏]との戦いもあったため、石見における勢力も
   【(30)義興】は奪い返した。
   さらに北九州の[少弐氏]らとも戦い、有利に戦況を進めている。
    やがて、備後国は北から進出した[尼子経久]と西から【(30)義興】の命で【大内軍】を率いる[陶興房
(晴賢の父)]に侵攻を受けて
   守護の[山名氏]の支配が衰え、同国は[尼子氏]と【大内氏】の争奪戦の舞台となった。
1525:【(30)義興】は細沢山
(備後)の戦いで[尼子経久]を破り、[山名氏・山内氏]とともに[尼子氏]に対抗した。
1528:【(30)義興】は安芸門山城
(廿日市市:参照:城跡 map)攻めの陣中で病に倒れ、山口に帰還直後に死去した。享年52。
   跡を嫡男の【(31)義隆】が継いだ。

  *大内氏遺跡 凌雲寺跡
(山口市吉敷:西鳳辧山東麓にある大内義興の墓)
   凌雲寺は大内義興を開基として、1507年頃、開山。 義興死後に墓所が作られる。
 
 
        
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