【中世 守護大名・大内氏物語】 [その3]{*(アスタ記号) または( )内は、個人解釈 〕
 
   【(31)
大内義隆系譜参照】 戦国大名。 周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前の守護。
          
1524:父【(30)義興】 に従って安芸国に出陣する
(17才)。 厳島へ入り、重臣の[陶興房晴賢の父)]と共に安芸[武田氏]の
   佐東銀山城
(広島市安佐南区:広島I.Cの南西:参照:城跡 mapを攻めた。 しかし[尼子方]として救援に赴いた[毛利元就]に敗退する。
1528:父が死去したため、【(31)義隆】 は22歳で家督を相続する。
   【大内家】では家督相続の際に一族家臣の間での内訌が起こることが常態化していたが、【(31)義隆】相続の際には起こっていない。
   これは【(31)義隆】 の【弟・弘興】の早世による親族の欠如と、重臣の[陶興房]の補佐によるところが大きいとされている。
1530:九州に出兵し、北九州の覇権を豊後国の[大友氏]や筑前国の[少弐
(しょうに)氏]らと争う。
   家臣の[杉興連]や[陶興房]らに軍を預けて、筑前国の[少弐氏]を攻めた。
    そして肥前国の[松浦氏]を従属させ、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握した。
   しかし[杉興連]に行なわせた[少弐氏]攻めでは、[少弐氏]の重臣・[龍造寺家兼]の反攻にあって大敗を喫した。
1532:[大友氏]が[少弐氏]と結んで侵攻してくると、【(31)義隆】は長府に在陣し、北九州攻略の大義名分を得るために
   〔大宰大弐(
だざいのだいに:太宰府の次官)〕の官職を得ようと朝廷に働きかけるが失敗した。
1534:[龍造寺家兼]を調略して[少弐氏]から離反させ、[少弐氏]の弱体化を図った。 
   また[陶興房]に命じて大友氏の本拠地豊後を攻略しようとするが失敗する。
   北肥前にいた、九州探題
(幕府の軍事的出先機関)・[渋川氏]を攻め滅亡に追い込んだ。
1536:ようやく〔大宰大弐〕に叙任され、北九州攻略の大義名分を得た【(31)義隆】は[龍造寺氏]と、ともに肥前多久城での戦いで
  [少弐資元]を討ち滅ぼし、北九州地方の平定をほぼ完成させた。
   このとき[龍造寺氏]の本家の当主・[龍造寺胤栄]を〔肥前守護代〕に任じている。
1537:室町幕府・将軍[
12代将軍:足利義晴]から幕政に加わるよう要請を受けて上洛を試みるが、山陰を統一して南下の動きを
   示していた[尼子氏]に阻まれ、領国経営に専念するためにこれを断念した。
1538:将軍[(12)足利義晴]の仲介により宿敵・[大友氏]と和睦する。翌年に[陶興房]が病没する。
1540:[尼子晴久]が安芸国へ侵攻し、【大内氏】の従属下にあった[
毛利元就]の居城である吉田郡山城参照:城跡 map)を舞台に戦った。
   【(31)義隆】は[
陶 晴賢(すえ はるたか)系譜参照]を総大将とした援軍を送り[尼子軍]を撃破する。
15
41:[尼子方]の安芸[武田氏]と[友田氏]を滅ぼして安芸国を完全に勢力下に置いた。
 
 《文治体制》  *(文治派
〈ぶんち は〉=政務を担う武将) ≒ (武断派=軍務を担う武将)
1542:出雲国に遠征して月山富田城
(安来市)を攻囲するが、配下の国人衆(その地方の豪族)の寝返りにあって[尼子晴久]に大敗した。
   しかもこの敗戦により養嗣子(
ようし し:家督相続人となる養子)の【大内晴持:(31)義隆の姉の子】が敗走途中の揖屋浦いやのうら:松江市)
   
での溺死を契機に、領土的野心や政治的関心を失い、以後は文治派の[相良(さがら)武任]らを重用するようになった。 
   このため武断派の[陶晴賢]や[内藤興盛]らと対立するようになる。
1547:天竜寺の策源周良
(京都の寺院の僧)を大使に任じて最後の遣明船を派遣している。
1550:山口に来た
フランシスコ・ザビエルを謁見したが、汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たない、
   【(31)義隆】の放蕩
(ほうとう)振り(酒や女遊びにふけること)・仏教の保護・当時一般的だった男色などを非難する、など礼を大いに
   欠いていたことから【(31)義隆】は立腹し、布教の許可は下さなかった。ザビエルは畿内へ旅立った。
    同年、[陶・内藤]らが謀反を起こすという情報が流れ、【(31)義隆】は一時大内軍を率いて館に立て籠もったという。
   このときの反乱は風評に終わる。
   側近の[冷泉
(れいぜい)隆豊]は[陶晴賢]ら武断派の討伐を進言したが【(31)義隆】はこれを受け入れなかった。
1551:ザビエルを再び引見する。ザビエルはそれまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを学んでおり、
   今回は一行を美麗な服装で飾り、珍しい文物を【(31)義隆】に献上した。
    献上品には、本来なら天皇に捧呈すべく用意していたポルトガルのインド総督とゴア司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・
   置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったという。
   【(31)義隆】は、ザビエルに対して布教の許可を与え、その拠点として、大道寺を与えた。
 
  *ザビエルの滞在とキリスト教布教を許したため、日本初の南蛮寺
(大道寺)でクリスマス行事(日本のクリスマスは山口から)
   行われるなど、西洋の文化も流入していた。
  *大道寺は、山口市金古曽町
(日赤病院の東)に存在した寺。ザビエル記念碑がある所が大道寺跡。
 
 
 
大寧寺の変
    謀反に至るまで出雲遠征を主導した[陶 晴賢系譜参照]ら武断派を国政の中枢から遠ざけた。
   出雲での大敗が極端なまでの厭戦気運(
えんせんきうん: 戦争することを嫌うこと)を助長したばかりでなく、政務を文治派の
   寵臣[相良
さがら氏]に一任して政務から遠ざかり、学芸・茶会などに没頭。
   公家のような生活を送るようになり、国内治政さえ顧みなくなった。
   さらには多額の出費を賄うため、年貢の増徴も行われたため、土豪や領民も増税に苦しむようになった。
   このため、【大内家】の主導権を巡って武功派の[陶 晴賢・内藤氏]らが、文治派の[相良氏]を敵対視するようになった。
1545:険悪関係は深刻度を増し、[相良氏]は[陶 晴賢]を恐れるあまり【大内家】を辞仕、出家後に肥後に隠棲して身の安全を図った。
    しかし、、【(31)義隆】の要請を受け【大内家】に再出仕した。
   この頃、豊前守護代である重臣[杉重矩(
しげのり:[陶 晴賢]とは犬猿の仲)]が、不穏な動きをする[陶 晴賢]について
   【(31)義隆】に進言したが、聞き入れられなかったとされる。
(これが後に、[陶 晴賢]の遺恨となり、万倉(宇部市)で切腹させられる)
1549:【大内氏】と[毛利氏]の同盟を強化するための【(31)義隆】の計らいで、[毛利元就]が息子たちを連れて山口を訪れて
   【(31)義隆】に謁見する。
1550:[相良氏]と[陶 晴賢]との対立が決定的となり、[相良氏]暗殺まで謀られるに至るが、事前に察知した[相良氏]は
   【(31)義隆】に密告して難を逃れた。 しかし、[陶 晴賢]が謀反を起こすという伝聞が流れるまでになり、【(31)義隆】の
   側近である[冷泉隆豊]は【(31)義隆】に[陶 晴賢]の誅殺を進言するほどだった。
   [相良氏]は、美貌で評判だった自分の娘を[陶 晴賢の息子・長房]に嫁がせることで和睦を図ろうとしたが、[陶 晴賢]が
   家柄の違いを理由に縁談を拒否し、融和案は決裂した。
 
  *[陶 晴賢]は、[毛利元就]と[吉川元春]宛に2通の密書を書き送り、
   『[杉氏]や[内藤氏]と相談し、【(31)義隆】を廃し、【大内義尊
系譜参照】に跡目を継がせたい。』として協力を求めて
   いるのが、[陶 晴賢]が謀反を示す最初の史料とされる。
  *仁壁神社・今八幡宮で行われた例祭での参詣を【(31)義隆】は急遽欠席し、[右田隆次]を代参させた。
   これは 「 [陶 晴賢]が、【(31)義隆】・[相良氏]を幽閉する 」という噂で、【(31)義隆】側が警戒したものと考え
   られている。 翌日に【(31)義隆】は[陶 晴賢]を呼び出して詰問するが、[陶 晴賢]は無実を主張した。
   他方、[相良氏]は同日に再び【大内家】から出奔し、石見の[吉見氏]の元に逃げていた。
  *[陶 晴賢]は、病気と称して居城 若山城
(周南市:参照:城跡 mapに籠もり、年明けの大頭役の勤めも果たさなかった。
   この時、【(31)義隆】も[陶 晴賢]らの謀反を恐れて、自ら甲冑を着けて居館に立て籠もり、さらに[陶 晴賢]
   に詰問使を送るなどしたことから、【(31)義隆】と[陶 晴賢]の仲は最悪の事態を迎えた。
1551:出奔していた[相良氏]が、筑前守護代の[杉興連]によって身柄を確保された。
   この一連の騒動で【(31)義隆】から責任を追及されることを恐れた[相良氏]は、『[陶 晴賢]に謀反の疑いがあると
   主張したのは
(普段より[陶 晴賢]と不仲であった)[杉重矩]である。』と弁明。
    しかし、その注進が受け入れられなかった[杉重矩]は、
([陶 晴賢]の怒りを買わないように保身のため)讒訴(ざんそ:事実を
    曲げて言いつけること
)を[相良氏]がしたとすり替えて[陶 晴賢]に近づき、対立していたはずの[陶 晴賢]に寝返った。
 
  *どちらかというと【(31)義隆】擁護派であった[杉重矩]が、[陶 晴賢]の謀反に協力するようになったのは、
   [陶 晴賢]を疑わない【(31)義隆】に失望したとも、される。
  *[陶 晴賢]らは、[大友義長
(【(31)義隆】の姉の子=義隆の甥:後の【(32)大内義長系譜参照】)]を【大内新当主】として
   擁立する旨に協力を願う密使を[大友氏]に送る。 
   
(北九州における【大内領】の利権を割譲する代わりに[大友義長]を貰い受けることを約束。
 
 
  *【(32)大内義長】=養嗣子(ようし し:家督相続人となる養子)の[一条晴持系譜参照]の死により、[大友義長]を
   猶子(
ゆうし:兄弟・親類または他人の子を自分の子としたもの。義子。養子。)としたが、【大内義尊系譜参照】が生まれたため、
   猶子を解除される、 後、[陶晴賢]の変後に【大内当主】とされる。
 
 
  ★《 [
陶 晴賢系譜参照]の蜂起:大寧寺の変
 
1551:8月、文治派の[相良氏]は、[陶 晴賢]を恐れて、【大内家】から三度目の出奔して筑前に逃走する。
  [陶 晴賢]は[内藤興盛:長門守護代]らと共に挙兵。[陶軍]は最初に東の厳島の神領と桜尾城
参照:城跡 mapを接収、
   呼応して出陣した[毛利軍]も佐東銀山城
(安芸武田氏の本拠:広島市安佐南区:広島I.Cの南西:参照:城跡 mapを接収して、
   山陽道の要衝を押さえた。
    若山城
(周南市:参照:城跡 mapから出陣した[陶軍]は、[陶 晴賢]率いる本隊が徳地口から、[陶家臣軍]の率いる
   別働隊が防府口から山口に侵攻した。
  [杉・内藤]の軍勢も呼応して[陶軍]の陣営に馳せ参じた。 
([陶軍]は兵力 5,000〜10,000と言われる。)
   これに対して、【(31)義隆】の対応は非常に鈍かった。 [陶軍]の山口侵攻の噂で騒然としていたとされるが、
   豊後[大友氏]からの使者等を接待する酒宴を続けており。[陶 晴賢]出陣前日には能興行を行っていた。 
 
   【(31)義隆】の[重臣]は[杉重矩]邸への討ち入りを提案するが、【(31)義隆】は、『[杉・内藤]は敵には
   ならないだろう』と答えたと伝わる。
  [陶 晴賢]の侵攻を伝える注進が届いて、ようやく【(31)義隆】は、大内氏館
(山口市大殿大路:現龍福寺)を出て、
   多少でも防戦に有利な山麓の法泉寺
(県庁の北西・鴻ノ峰の北東の五十鈴ダムの下流)に退く。 一緒に逃亡した公家たちや
   近習らを除けば、【(31)義隆】に味方した重臣は一人くらいであり、兵力も2,000〜3,000人ほどしか集らなかった。
 
    法泉寺の【(31)義隆】軍は逃亡兵が相次いだことから、山口を放棄して鴻ノ峰の北を山越えして、西鳳辧山の
   東麓の凌雲寺
(父・【(30)義興】の墓所)に下山して、肥中街道参照: mapを通り長門に逃亡。
   法泉寺には、[陶隆康
(【(31)義隆】の重臣)]が殿として(身代わりに変身)残って討ち死にしている。
   なお、継室の[おさいの方]は、山口宮野の妙喜寺
(現在の常栄寺)に逃れた。
 
   【(31)義隆】は、足を痛めながらも明朝には長門仙崎にたどり着き、海路で縁戚
(姉の嫁ぎ先)に当たる、石見津和野の
   [吉見氏]を頼って脱出を図ったが、暴風雨のために逃れることができなかった。
   引き返した【(31)義隆】らは、長門深川の大寧寺までたどり着くとそこに立て籠もった。 
    このとき、【(31)義隆】に従った重臣・[冷泉
(れいぜい)隆豊(居宅跡:参照:城跡 map):京都の冷泉家とは別系で、
    (24)弘世の子孫が母方の家号を称して冷泉氏を名乗った。
]の奮戦ぶりが目覚しかったが、所詮は多勢に無勢で、
   【(31)義隆は[冷泉隆豊
]の介錯で自害した。 享年45。
 
    [冷泉隆豊]は、【(31)義隆】の介錯を務めた後、[陶軍]の中に突撃して壮絶な討死にしたと伝えられる。
   また、【(31)義隆】の嫡男・【大内義尊
系譜参照】は従者と共に逃亡するが、[陶方]の追っ手によって殺害された。
   ただし、次男である【問田亀鶴丸
系譜参照】は、母方の祖父が[内藤興盛]の孫(興盛の娘の子)であることもあり
   助命された。
   【(31)義隆】・【義尊】の死により、周防【大内氏】は事実上滅亡した。 
   また この時、周防に滞在していた多くの公家たちもこの謀反に巻き込まれ殺害された。
 
  《結果》
  * 文治派の[相良
(さがら)氏]は、[陶 晴賢]が筑前に送り出した[野上氏]の軍勢により花尾城(北九州市八幡西区)で攻め殺される。
   [相良氏]の首は、[陶 晴賢]によって山口で晒された。
  *[
毛利元就]は、東西条の【大内領】に兵を進め、【(31)義隆】派の[平賀氏]が籠もる頭崎城(かしらざきじょう:東広島市)を攻めた。
   [平賀氏]は頭崎城から逃亡して、槌山城
(東広島市)の[菅田氏]の元に入った。
   [毛利元就]は、[吉川・小早川・宍戸]らと共に軍勢4000で槌山城を攻め、降伏させた。
  *[陶氏]と姻戚関係にあった石見七尾城主
(益田市)の[益田氏:柿本人麻呂の後裔?]が、【(31)義隆】方の[吉見氏:津和野町]を
    攻撃するが失敗した。 また、[相良氏]の子を捕らえて殺害している。
1552:[杉重矩
(しげのり)]は、[陶 晴賢]と犬猿の仲ながら、[陶 晴賢]の謀反に同調して【(31)義隆】を討った。
    謀反の直後、[杉重矩]は再び[陶 晴賢]と対立した。 これは[杉重矩]が、謀反後になって主君や公卿らを殺害した、
    自らの軽挙を後悔して周防佐波郡大崎に蟄居していたのだが、謀反前に[陶 晴賢]を討つように【(31)義隆】に
    進言していた事が、[陶 晴賢]に知られてしまったためである。
  *[杉重矩]は[陶 晴賢]に敗れて、長門万倉
(宇部市)の長興寺で自害に追い込まれる。
 
  ★[
陶 晴賢]は、[大友義長系譜参照]を山口に迎え、【(32)大内義長】として【大内家】の家督を継がせ、
   傀儡(
かいらい:あやつり人形)の当主として【大内家】の実権を掌握した。
 
 
   【(32)
大内義長系譜参照】 周防・長門両国の戦国大名。周防【大内氏】 の第32代で事実上最後の当主。
  *豊後[大友氏]の当主と・【(31)義隆の姉】の次男として生まれる。
1543:[尼子氏]との戦いで【大内軍】が敗走する際に、【(31)義隆】の養嗣子(
ようしし:家督相続人となる養子)で
   ある【晴持(土佐[一条氏]と・【(31)義隆の姉】の子)】が死去したため、継嗣を失った【(31)義隆】は、姉婿である
   豊後[大友氏]の次男である[義長]を猶子(
ゆうし:相続を必ずしも第一の目的としない養子)とした。
1545:その後、【(31)義隆】に【義尊
よしたか系譜参照)】が、生まれたため[義長]の猶子を解約する。
1553:《大寧寺の変》以後、【大内家】を再興するため、[陶 晴賢]は、豊後から【(32)大内義長】を当主として
   迎え入れる。 しかし当主になったとはいえ、実質的には[陶 晴賢]の傀儡(
かいらい:操り人形)であった。
1554:[
毛利元就]は厳島を占領すると宮尾城(厳島:参照:城跡 mapを接収・補修し、襲来してきた[陶軍]を撃退する。
 
 
  《厳島の戦い》
1555:[陶軍]は《厳島の戦い》の前哨戦で敗れていたが、当時[陶 晴賢]は、石見津和野城主・[吉見氏]を
   降していたため戦闘が大規模化することはなかった。
  *宮尾城には[陶方]から[毛利方]に寝返った[己斐氏ら]が、約500人の兵力で守りについていた。
   [陶 晴賢]はこれを攻めるために厳島に向けて出撃した。
   [陶軍]は、岩国付近を出発した時の船団は500艘、兵の数は2万とも3万とも伝えられている。
   厳島の大元浦に上陸し、厳島神社近くの塔の岡
(現在の豊国神社付近)に本陣を置き宮尾城を包囲し攻撃を開始した。
  *一方の[毛利軍]は、厳島の対岸に位置する草津城(
広島市西区:参照:城跡 map)に集結していたが、兵数で劣っていた。
   この兵力差を埋めるために、[毛利元就]は伊予の[村上水軍]に援軍を求めた。
   この水軍はなかなか現れず[毛利元就]も援軍を諦めたほどだったが、厳島に渡る直前になって約300艘が到着し
   [毛利軍]に加わった。
   草津城から地御前に前進した[毛利軍]は、厳島へ向けて舟を漕ぎ出し、上陸を果たした。
  *翌早朝、[毛利軍]は[陶軍]の背後
(紅葉谷側)と城内(要害山側)から一斉に攻撃を仕掛けた。
   前夜が暴風雨であったため油断があり、狭い島内に大軍がひしめいていた
(厳島神社周辺に集まっていた)ため進退できず、
   混乱に陥って戦況の変化に対応できずにいた[陶 晴賢]の軍勢は総崩れとなった。
   [陶軍]は我先と島からの脱出の舟を奪い合い沈没したり溺死する者が続出した。
  *[
陶 晴賢]も島外への脱出を図ったが、海上は伊予水軍に制圧されており既に脱出の為の舟も部下の将兵達によって
   使い切られて無くなっていた。
   舟を求めて大江浦に逃亡したが、結局ここで諦め自刃して果てた。 享年35才
 
  ★[陶 晴賢]の墓所は、洞雲寺(
とううんじ:広島県廿日市市:大内氏・陶氏・毛利氏の保護を受ける)。 
   [毛利氏]によってこの寺に葬られている。
  *[毛利軍]は厳島から引き上げて対岸の桜尾城(
広島県廿日市市:参照:城跡 map)に凱旋、この時[陶 晴賢]の首実検も
   行なわれている。 この首実検の際に[
毛利元就]は、主君を討った逆臣であるとして[陶 晴賢]の首を鞭で3度叩いたという。
   この戦いでの[陶軍]の死者は4,700人にのぼったともいわれる壮絶なもので、戦後[毛利元就]は血で汚れた厳島神社の
   社殿を洗い流して清めさせ、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせたという。
  *なお厳島は島全体が厳島神社の神域であり、島民の女性は月経の際には島外に避難するほど、血の穢れの禁忌
(きんき)は厳しかった。
 
  ★[陶 晴賢]が[毛利元就]との厳島の戦いで敗死すると、血縁があるとはいえ一度解消された経緯のある養子だった
   【(32)大内義長】の求心力は低く、ただでさえ[陶 晴賢]の謀反やその他の内紛で弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、
   【大内家】は急速に衰退していく。
   【(32)義長】は兄の豊後[大友氏]に援軍を求めたが、[大友氏]は[毛利元就]との間に【大内領】分割の密約を結んで
    いたために応じなかった。
 
1556:勘合貿易
(日明間で、正式の使船の証として外国に与えた割符)の再開を求めて明に使者を派遣したが、明からは正統な【大内氏】当主
   としての承認を拒まれている。
  *高嶺城(
山口県庁西の鴻ノ峰山城:参照:城跡 map)の築城は、石見国津和野の[吉見氏]や安芸国の[毛利元就]に備えるべく、
   築城が開始された。
 
1557:しかし、後背の安全を得た[毛利氏]は、予想以上に早く、防長経略で山口へ侵攻。
   【(32)大内義長】は寡兵(
かへい:少数の兵力)もってよく防戦したが、結局高嶺城は、未完成のまま放棄し、
   重臣・[内藤隆世]の長門 且山
(かつやま)(下関市長府:参照:城跡 mapへ敗走した。
   しかし[毛利軍]により且山城を包囲され、【(32)大内義長】は、長門長福院
(下関長府:功山寺)に入った後に
   [毛利軍]に囲まれて自刃を強要され、[陶 鶴寿丸
([陶 晴賢]の末子とされる)]らとともに自害した。享年26。

  ★若山城
(参照:城跡 map)は1400年代後半(1470年という説有力)に造られたと言われており、重臣・[陶氏]の居城。
1550:時の当主であった[陶 晴賢]によって大改修されます。
   その翌年に《
大寧寺の変》が起きたことから、これは明らかに謀反を睨んでの改修だった。(?)
1555:[陶 晴賢]が敗死。 冨田若山城は[陶 晴賢]の子が防衛に当たっていましたが、同じ【大内氏】の重臣で
   あり、以前に万倉
(宇部市)で[陶 晴賢]によって当主を謀殺された恨みを持つ[杉重輔]が富田若山城を襲撃、
   あっけなく落城してしまいます。 (一説によると、篭城していた[陶 晴賢]の子は大内氏残党を糾合して抵抗する
   予定で、軍勢が来たので城門を開けて迎えようとしたところ、それが敵兵だった、ということです)
   [陶 晴賢]の子は、龍文寺
(周南市須々万:陶氏菩提寺:徳山カントリークラブ)まで逃げ込み、自害した。
  
  《【大内輝弘】の乱》
  ★【
大内輝弘系譜参照】は、戦国時代の武将。 【(29)大内政弘】の次男・【大内高弘】の子。
1499:周防【大内氏】の一族だが、父の【大内高弘】が【(30)義興】に謀反を起こして豊後[大友氏]の下へ亡命して
   いたため、豊後国で生まれた。 【大内輝弘】に【大内氏】としての実権は無かったとみられる。
1566:[毛利元就]は、出雲国の戦国大名・[尼子氏]を滅ぼす。
   [毛利元就]は、伊予国へと出兵して、伊予の[河野氏]を支援し、後方の憂いを断った。
1568:[毛利元就]は、【大内氏】の後継を自認して博多の権益を狙い[大友氏]領であった豊前国・筑前国へと
   侵攻を開始した。
   筑前国に侵入して、博多を守る要衝であった立花山城を攻略、[大友宗麟]と全面対決へと至った。
   九州へ侵攻した[毛利氏]は、筑前国の国人(地域の豪族)らを味方に引き入れた。
   そのため[毛利軍]は意気軒昂で、怒涛の攻撃を開始し、[大友氏]は危機に陥った。   
  *[大友宗麟]は寄食していた【大内輝弘】に兵を与え、[大友水軍]を付けて密かに海上から周防国の秋穂浦に上陸させた。 
  ([大友氏の軍師]は[毛利氏]の後方撹乱を狙い、山口へ【大内輝弘】を送り込むことを画策した)
 
    【大内輝弘】は、小郡から石州街道
(椹野川沿)を山口に侵攻するのではなく、陶(四辻の西)から 山越えで陶峠を
   経て山口市黒川
(西京高校のある所)に出て山口へ侵攻。
    一方の[毛利方]は、黒川口を守っていたが、数に勝る【大内輝弘】勢は、激戦の末に打ち破って山口支配の拠点・
   高嶺城
(山口県庁西の鴻ノ峰山城:参照:城跡 map)の攻略を開始した。
   高嶺城主の[市川氏]は九州へ出陣中であったが、その留守を守る[城主の妻]が女丈夫
(じょじょうふ)で、鎧を身にまとい、
   わずかな城兵を指揮して鼓舞し、高嶺城に【大内輝弘】軍を寄せ付けなかった。
    高嶺城の攻略を中断した【大内輝弘】は、龍福寺
(当時は白石にあった)に入り、次策を練った。
   翌日も高嶺城への攻撃を開始したが、落とすこともできず、山口を完全に占領することができなかった。
   【大内氏】の一族、というので【大内輝弘】が、周防に入ると[毛利氏]の支配に抵抗する【大内氏】の遺臣がこれに
   呼応し周防国の[毛利軍]はその大半を北九州の戦線に投入していたため、苦戦を強いられた。
 
  *長門国赤間関に陣を敷いて九州攻略の指揮を執っていた[
毛利元就]は、【大内輝弘】の攻撃の急報を受け取ると
   九州からの撤退を指示。 即座に軍を返して[吉川元春
:元就の次男]と[小早川隆景:元就の三男]率いる
   精鋭を周防に向かわせた。[毛利軍]主力10,000が赤間関から山口に進軍。?   
   【大内輝弘】は、その報を受けると、山口を支えることは不可能となった。
   [毛利軍]は途中、【大内輝弘】に組した輩を徹底的に討伐し、着実に【大内輝弘軍】に迫った。
   【大内輝弘】への包囲が始まりつつある状況を知った[大内遺臣]は、次第に【大内輝弘軍】から離散した。

  *【大内輝弘】は残った手勢800を率いて上陸地である秋穂浦へと撤退したが、既に軍船は無く、【大内輝弘軍】は、
   東へと向かった。([毛利軍]による焼き討ち、もしくは[大友軍]が【大内輝弘軍】を見殺しにして逃亡。) 
    しかし途中で[南方氏]率いる右田ヶ岳城
(防府市:参照:城跡 map)の城兵に攻撃され、敗走。
   目的地であった三田尻に入るが、船はなく、やむを得ず牟礼の浮野峠を越えて山陽道を富海に入った。 
   しかし、この先の椿峠には[杉元相]が手勢を率いて迎撃準備を進めており、【大内輝弘】はこの方面への撤退を諦め
   末田の茶臼山
(防府市:参照:旧山陽道 map)に引き返した。 
   ところが後方には[吉川元春]率いる毛利軍主力が迫っていた。 
   【大内輝弘】は最期の一戦を試みたが、衆寡敵せず
(多数と少数では相手にならない)壊滅。 
   【大内輝弘】は自刃して、【大内輝弘】の乱は終結した。
   
  ★【大内輝弘】の山口侵入によって[毛利軍]は本州に撤退せざるを得なくなり、
   [大友氏]は筑前国など北九州の[毛利方]の諸城の奪回に成功した。
 
 
   
【大内氏物語】完
 

 
      
 
 
        
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