【中世 守護大名・大内氏物語】 [注釈] ●【多々良氏】=「防府国衙」の北に「多々良」の地名がありますが、ここが「多々良氏」の出自(しゅつじ:出所)かも(?) * 国府跡の8世紀後半(奈良時代末)国司館庭園跡から「達良君猪弖(たたらのきみいて)」の人名木簡出土。 (「弓」に下線が有るので調べました、「くっつきの助詞」の「遠、波、弖、爾:を、は、て、に」の「弖(て)」でした。) * 地名由来=多々良:朝鮮南部の「多羅」の古代国名(6世紀中)による、「多羅」が新羅に滅ぼされ日本に移り住んで故国を 忍んでつけた地名とされている。 「和名抄(国・郡・郷の名称:938編集〈平安中期〉)」に、佐波郡「達良郷」、「玉祖郷」の地名がある。 古くから「達良」の地名が有り、その後、今の「多々良」と変化した。 「たたら製鉄」の「鑪(たたら)」とは、関係が無いようです。 牟礼:古代朝鮮語で「山」を意味する ムロ・ムレ から地名になった説もある。 ●【国造(くに の みやっこ、こくぞう)】 ★ 阿武国造(あむ の くにのみやっこ)=(萩市・阿武郡地域) 国造本紀によると景行天皇の時代、阿牟君(あむのきみ)を祖としており、 萩市大井にある円光寺穴観音古墳(6世紀末:円墳で横穴式古墳:幅2.56m、奥行き9m、高さは奥室で 2.5m:北長門随一の巨大な石室)は、 阿牟君一族の墓と考えられております。 *阿武の地名=阿武郡は、古代に「阿牟(あむ)」と呼ばれていたが、「阿武(あむ)」の文字になった。 現在では、地名は「阿武(あぶ)」、苗字は「阿武(あんの)」と読む。 阿武郡はもともと「あむ」と呼ばれていた。苗字を「あむ」と読ませると読みづらいので「あむの」と読ませているうちに 「あんの」と読み方が変化したとされる。苗字としては山口県に集中して分布する。 *相撲部屋に「阿武松(おうのまつ)部屋」で「阿武」と書いて「阿武(おうの)」と呼ぶのがありますが、 これは、萩では『阿武(あぶ)の松原』と読むと、現在の菊ヶ浜のことで。 萩市大井にも「阿武の松原」が存在していた。こちらは「大井(おうい)の阿武( あぶ)の松原」が 「おうのまつばら」に変化して「阿武(おうの)」と、地名も呼ばれるようになった。 大井小学校の校歌にも「阿武(おう)の砂浜…」という歌詞が存在します。 大井地区が萩よりも古くから栄えた土地だと考えると、長州藩のお抱え横綱(第6代横綱の阿武松緑之助:1820年頃:能登出身)の 四股名(しこな)を長州に関わりのある変わった地名から「阿武松(おうのまつ)」と呼ばせたものです。 ★ 穴門国造(あなと の くにのみやっこ)=山口県西部・下関市地域。 穴門とは海峡(関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見える。 下関市の新下関駅近くの仁馬山(じんばやま)古墳(前方後円墳:4世紀後半:国史跡)は県下3番目の規模であり、 被葬者は地域最大の首長級と比定。 7世紀に「穴戸国」が設置され、7世紀後半に「長門国」に改称し、下関市長府に国府が置かれた。 ★周防国造=山口県東部地域。 光市小周防が周防国の名の発祥地として、周防小学校の脇には 周防国造在所之地碑があるが国造の居宅遺跡は不明。(郷土の歴史で、発祥地としたものか?、文献なし) 柳井市の茶臼山古墳は国造の墳墓と推定。 *防府の国衙は、飛鳥時代後半か平安時代前半頃、周防国の国府として造営。 ★波久岐(はくき)国造 =宇部市・山口市地域。 実在したかどうかは不明。 ★都怒(つぬ)国造=周南市・都濃郡地域。(16代)仁徳天皇の時代に国造を定めたとある。 山口県内最古である周南市の竹島御家老屋敷古墳は、国造のものと推定されている。 ★大島国造=(13代)成務天皇の時、国造を定めたとある。後の奈良時代に平城宮の長屋王(ながやのおおきみ) 邸宅跡から大島郡を示す木簡が多く出土していることから皇族・長屋王の封戸(ふこ:知行地:荘園)が 置かれた可能性が指摘されている。 *長屋王=天武天皇の孫で皇族を主体とする政治体制勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、 対立する藤原不比等の4息子の陰謀といわれる「長屋王の変」で自殺した。 (この時、周防大島の荘園を管理していたとされる「大江氏」が「毛利元就」の先祖。) ★沙麼(娑婆:佐波)県主=日本書紀の神功記に沙麼県主「○○松屋種」が出て来るだけで、他には無く、 沙麼県主の実在性は不明。 ●国造本紀(先代旧事本紀に収録)によると、(10代)崇神天皇の時代に「国造」を定めたことに始まるとされる。 関連の古墳や出土品が無いために「国造」は、実在したかどうか不明である。 *先代旧事本紀=序文には、聖徳太子が著したものが多く、成立時期を807年〜876年とみる説があり、 物部氏の氏族伝承などが多くあり、物部氏による偽書説とする研究者が多い。 |
|||