【不思議な地形:江原(よわら)ウバーレ集落】 (場所:美祢市旧秋芳町 別府 江原)     〈池田 成臣〉
 
 
●江原は「よわら」と呼びます。(地名の いわれは不明:参考文献・梅光女学院大学 発行「地域文化研究-13」)
  H28年9月の新聞に、擂り鉢状の地形の中の集落の記事がありました。大変興味を持っ
たので出かけていきました。
 そこは、カルスト台地で、厚東川の形成の浸食により、左右に「台地」が形成され、通常 秋吉台と呼ぶのは「東台」であって、
 この江原は「西台」のカルスト台地にありました。  【参照-map】
 
  この集落は、名水百撰の別府弁天池の集落から、南に県道239号線を一車線の離合困難な舗装道
(林道のような山道:3.4Km)を、
 幸いに対向車にも遭わずに登って行くと、突然眼下の谷間に ひしめくように軒を並べた五、六十戸の集落が俯瞰して見えてくる。
 (参照-mapの
(1)からの俯瞰画像)。
 いかにも隠れ里を思わせる たたずまいだ。一戸一戸は、かなりの規模で、家と家との間には庭も畑もあり、谷間だと見えるのは、
 カルスト台地特有の巨大ドリーネだ。 (さらに、2Km進むと、同じような地形の集落があります。)
  集落に入る道を探しましたが、急傾斜の道路がありました、可成りの急傾斜で降りてみて道が無かった場合などに、車の
 向きを変えられず、バックで元の道路に登るのは軽四輪駆動車以外は、不可能に近いと思い、
 来た道をUターンをして途中に在った家の空き地
(集落の集会所)に、勝手に駐車をして、そこから徒歩で集落に行きました。 
  
  集落内は、狭い坂道で曲り角も多く下手に車で入り、車の方向転換をする場合は一人では無理と思う、脱輪しそうな道路です。
 (脱輪すれば、JAFを始め 救急車も進入は無理と思う道路です、徒歩で行くのが賢明です。)

*カルスト台地=雨水が石灰岩の割れ目に沿って集中的に地下に浸透する過程で周囲の石灰岩を溶かすため、地表にはドリーネと
      呼ぶ「すり鉢型の窪地」が多数形成される。
*ウバーレ(ドイツ語)=ドリーネが徐々に拡大して隣り合った複数のドリーネがつながって、より大きな窪地に成長したものが
     ウバーレである。
*地下水位が浅くあるドリーネでは、豪雨時に一時的に地下に浸透した水が沸き出し、ドリーネ湖が生じることがあり。
 秋吉台の景勝地「帰水:
(秋吉台カルスト道路で駐車スペースのある所)」ドリーネは珍しいものです。

●この集落は、ウバーレと呼ばれるカルスト台地特有のすり鉢状の窪地の中に出来た不思議な景観の集落です。
 他郷から隔離された、すり鉢状の谷に家屋がひしめいて密集しています。
*カルスト台地のため地表に川は見られず、降った雨はウバーレ内の低地に無限の闇につながる不気味な「吸い込み穴
:ポノール」と
 呼ばれる縦穴に吸込まれ、大雨の時は逆に、この穴から水があふれ出してくるという。 
*この盆地底(標高:145m)の「吸い込み穴」に浸透した雨水は、長い年月をかけて、麓の弁天池(水面標高:105m)、
 白水の池(水面標高:90m)に湧き出しているのでは、と思われます。 【参照-map-2】
(一般に山に降った雨水の湧水は、数年〜十数年かかるとされています)

 別府 弁天池
  弁天池の水が コバルトブルーに澄みきって見えるのは、カルスト台地に浸透した雨水は長い年月をかけて伏流水として、
  地上に湧き出る時、ミネラル
(カルシュム・炭酸水素塩・等を含む)を含んだ水が、太陽光線7色の光の屈折率を変化させると、
  6色の光は水に吸収され残った青色が反射して見える現象。
*「参照-mapの中段の拡大図地図」で、集落の周辺の山道に入る黒い線は、山にある畑に行く道です。
*集落の家屋には、石灰岩の露出岩
(ラピエ)に囲まれた家屋もあります。

*集落の盆地の概形は、南北に約1000m、東西に約700mで、県道標高と最低地の標高差は40mで、
 いわゆる 擂り鉢状の地形ではない。
 盆地底の中央に7m位の急崖があり、その上下に緩やかな平坦面がある。
 その崖を中心に 上組
(上部落)・下組(下部落)と地域を分けて冠婚葬祭はこれを基準に行われる。

 
            
 [集落を南から望む]   [集落内]      [吸込み穴]  [石灰岩に囲まれた家屋]

              (画像クリックで拡大します)
 
●[この集落の成り立ち]
*この集落は、隠れ里に住む「平家の落人」の末裔と思っていましたが、集落の旧家所蔵の系譜に、「関ヶ原」の落武者が
 入植したと古文書があり。
 旧秋芳町教育会が考古学的踏査を行い、表面採集された遺物(茶碗・皿・等)から近世以降の陶磁器片であり、
 また 集落内の寺社の創建時期からも江戸初期であることが裏付けられました。
*江戸初期に入植された江原集落では、江戸後期の「防長風土注進案」では、八四軒の集落となり、江戸末期の
 嘉万村内の最大の集落であった。
*昭和15年の大火で六十戸が全焼したという。 
 当時は藁屋根のため、ひしめく集落に火の粉が飛び散り延焼したため、トタンや瓦屋根に葺き換える。


●[生活環境]
*集落の住民は、近世まで部落内婚を主体とした婚姻形態であった。
*水に乏しい この集落では、米作りは望めない。 このため農業は、水はけがよい畑作中心で昔の主食は、
 もっぱら、芋、麦、そば に頼り。 水田は明治末期から、この集落の南の窪地に2反ほど耕作されている。
 水田は遠くの麓の田を購入し出作が行われている。そのため、運搬用に牛馬の飼育が盛んに行われていた。
 鮮魚は仙崎から売りに来ていた。

*麓の村々では、水田を中心に「安定的な」生業が営まれたのに、なぜ 水が乏しく畑地しかない擂り鉢状のウバーレの
 盆地に住み着いたのは、「防長風土注進案」に書かれているように、「田地は無く 畠作を売り歩く困窮者が多く住む集落」
 とあり。 米を柱とする租税制度で村役人は税を「お目こぼし」して少なくしたものか(?)

  しかし、一般にカルスト台地の土壌は、有機質をたっぷり含み、水はけの良いものとされている。
 江原ウバーレ内の畑作は、色々な野菜の収穫豊かなものだったのではないだろうか。
 畑作は米作と比べて、栄養価や収穫の安定性など劣る部分もあるが、作物の多様化や売り歩くため、
 換金性などでは優位な部分もある。江原での畑作は、米作と比べて遜色のない比較して安定したもの
 であったと考えられる。
 そのため、金を貯めた村人は、麓や遠くの於福村などの水田を買い、裕福であったと思われる。
 (その噂を聞いた人々が多く入植して、江戸後期には八四軒の集落となり、村最大の集落となったと思われる。) 

*古くは、上下部落に各一ヶ所の井戸水の湧水を利用していたが、水不足のため天水を利用するための天水溜を設け、
 風呂や灌漑水として使っていた。 現在は麓の弁天池から簡易水道が引かれている。

*明治の始め頃から、大理石の採掘が始まり、江原のほとんどの家から、切り出しの仕事に行くようになる。
 

●[運搬具]
  昭和20〜30年頃は、遠隔農地への移動に比高差約100mの山の上や麓の険しい山道と屈折した未整備
 の坂道を超え、1〜5km離れた農地まで、一日に何度も徒歩で往復するが、道具や肥料等の運搬や農作
 業を行う牛馬力は不可欠であり、麓の遠隔農地の多くは稲作と麦作の二毛作を行い、特に麦は家畜飼
 料にも必要とされている。
  麦作の肥料には、水肥(みずごえ:人糞)が最適で、水肥は「馬ダル」という長胴型の水肥用樽に入れられ、農耕牛の背の専用の鞍に
 縛り付けて遠隔農地へ運搬される。(右上画像は「馬ダル」の鞍)
 「馬ダル」は、汚れを目立たないようにするためベンガラを塗布し、腐食防止になっている。
*水肥は、屋敷内の床下に甕を埋め込み、肥の発酵を促すために魚を洗った水や内臓を入れて、麦の散く月に合わせて最低二ヶ月も掻き
 混ぜながら熟成させて造っていた。 また、この肥は家屋に近い畑に栽培する野菜にも利用していた。
*畑で収穫した野菜を行商に行く時や米の買い出しに、馬も必要でした。
 
● [森様の祭] 
 「森様」の祭は、夏と秋に行われ、水飢饉に対する信仰と思われる。
  水神の使いとされる「蛇」を、上組
(上部落)の「森様」として祀り、下組(下部落)の「森様」は「蛙」を祀っている。
 (祠はないが、どちらも ムクノキの神木を祀っている。)
 「森様」の祭事は、同日に麓の神社から宮司を迎えて、ご神木の木に「シメ縄」を巻いて、それぞれ別個に行われるが、
  上組の「森様」から先に始められる、そうしないと「蛇」が「蛙」を飲み込むからだという。
  ただし、盆地集落の中央にある「水神社」の祭事は、上組・下組合同で行われる。
 (秋の「森様」の祭は、毎年 11月に「参拝、見学自由」の徒歩ツアーが、毎年開催されている。)

『備考』 [森様」を祀っている所は、山口県内にも多く祀っている。
  (森様は、「精霊とお話できる」・「呪いを操る」などの、地域住民の信仰対象)
 * 下関市蓋井嶋の[森様」=それぞれ「椎」と「松」を[森様」の神木として祀る。
 *「どじょう森様
」=美東町綾木柿木原河内神社。由来は、 腰 から下の病に良くきくとして祀る。
 *「もりさま」=山口市の中央図書館付近の荒高地域にあった荒高神社の通称です。
   現在は今八幡宮(野田学園の近く)の境内にある八柱神社に合祀して、「森さま祭り」として盛大に行われている。
  (荒高神社の由緒は、菅原道真の子が太宰府にむかう途中、荒高の森のなかで太刀を忘れたので、村人たちがそれを
   森に埋めて祠を建てたのがおこりと伝えられています。その森にちなんで「もりさま」というそうです。
   荒高神社の御祭神は菅原道真(天神様)です。:山口に大内氏が拠点を置く 250年前は、荒高は寒村であったと
   思われる所を何故に道真の子が旅をしたのか謎〈?〉です)
 *[森様」=光市室積の社叢(ムクの木の大木の森)
   由来は、孝心深い村娘の悲話もあり、五穀豊穣と、家内安一全を祈る村人 の信仰の森でもありました。


● 2015/9月に日本ジオパークに認定された「Mine秋吉台ジオパーク」
  秋吉台カルスト展望台・秋芳洞・帰水・江原ウバーレと集落・別府弁天池・長登銅山跡・万倉の大岩郷・等。

inserted by FC2 system