【古事記ー要約】       〈池田 成臣〉


 古事記【下巻 しもつまき

* 下巻の特徴は、 和歌
(詠歌)を中心とした 歌物語的な展開が多いことであるが、一方、皇族の反逆や変事、皇位承をめぐっての闘争や
  暴虐が数多く記されているのも特徴であり、 その後、直系の皇統が断絶して傍流
(ぼうりゅう)から 第26代継体天皇が迎えられたことが
  記される等、大和政権の危機的状況、 天皇権力の盛衰を窺い知ることができる。

【*記号 または( )内の注釈は、個人解釈です。


  目次:第16代 仁徳
(にんとく) 天皇
    :第17代 履中
(りちゅう) 天皇
    :第18代 反正
(はんぜい) 天皇
    :第19代 允恭
(いんぎょう)天皇
    :第20代 安康
(あんこう) 天皇
    :第21代 雄略
(ゆうりゃく)天皇
    :第22代 清寧
(せいねい) 天皇
    :第23代 顕宗
(けんぞう) 天皇
    :第24代 仁賢
(にんけん) 天皇
    :第25代 武烈
(ぶれつ)  天皇
    :第26代 継体
(けいたい) 天皇
    :第27代 安閑天皇〜第33代 推古天皇 【古事記:完】

【第16代 仁徳(にんとく)天皇】   父は、応神天皇。 母は、中日賣命(出自不明)の娘
* 〔天皇〕は様々な善政や大規模な治水事業等を行い、その御世は聖帝(ひじりのみかど)の世と称えられるほど
 であった。
 ところが〔大后
(おほきさき)〕の磐之媛(いわのひめ)命は、とても嫉妬深く、吉備の〔クロヒメ:黒日賣〕に嫉妬し、
 〔ヤタノワキイラツメ
:八田若郎女〕に嫉妬し、さらに怒って宮を飛び出し、天皇がそれを慌てて追いかけ、
 歌を詠んで宥
(なだめる)ほどであった。
 また、〔天皇〕は〔メドリ
:女鳥王〕を娶めとろうとしたが、 〔メドリ〕は、その〔大后〕の気性を恐れ、
 義兄と通じて〔天皇〕に反逆し、討伐されてしまった。
 とにもかくにも〔仁徳天皇〕は〔大后〕に振り回され続ける女難の〔天皇〕でもあった。

〔天皇〕は難波之高津宮において天下を治めた。
 〔大后〕との間の御子は四柱(長男が太子)、妻で日向の娘との間の御子は二柱。


《聖帝(ひじり みかど)の御代》
 秦人(
はたびと:渡来系の秦氏が連れて来た民)を使って、堤と池を作り、難波の堀江を掘って海に通した。
ある時、〔天皇〕は高い山に登り、四方の国土を見渡して国見
〈〔天皇〕が高山に登って領国を見渡し、地勢を褒め称えて五穀豊穣を与祝する農耕儀礼〉
に出かけた。
「どの家々の竈かまどからも、煮炊きする煙が立ち昇っていない」 これは貧しくて食べる物がなく、竈に火が入らないからに相違あるまい。
そこで、人民の税や労役を三年間やめることにした。
 そのため、宮殿は破れ壊れ、ことごとく雨漏りするようになったけれど、全く修理することなく、器で その漏れる雨を受け、漏れない所に
移って避けた。
やがて国中を見渡すと、国土に煙が満ちていた。そこで、人民が豊かになったため、ようやく 税や労役を課した。 
こういうわけで、百姓は栄え、税や労役に苦しまなくなった。 そのため、その御世を称たたえて聖帝世
(ひじりみかどのよ)と言うのである。


《クロヒメ への嫉妬》
 さて〔天皇〕は、吉備海部直(
きびのあまべのあたひ:吉備の漁業集団の統率氏族)の娘〔クロヒメ〕が、その容姿が端正だと聞き、召し上げて使う
ことにした。 ところが、〔大后〕の妬ねたみを恐れ、吉備国に逃げ下ってしまった。
〔天皇〕が高い楼閣において、その〔クロヒメ〕の船が出て行くのを眺めて詠んだ歌は「帰ってしまうのが悲しい・・・・・」
この歌を聞いて〔大后〕は、心底から怒った。 ただちに難波に使いを出すと〔クロヒメ〕を船から下ろしてしまった、 そのため〔クロヒメ〕
は、吉備まで歩いて帰らねばならなかった。

 それを知った〔天皇〕は、〔クロヒメ〕を愛しく思い、ついに密会を目論んで、〔大后〕に こう嘘をつく。
「淡路島を見てみたい」。 天皇は旅立ち、淡路島にやってくると、さらに 船を進めて吉備国に入った、ただちに〔クロヒメ〕を訪ねた、
驚いた〔クロヒメ〕は、〔天皇〕に献上する食事でもてなした。
〔天皇〕が大和に帰る時、〔クロヒメ〕は「あなたと離れ離れになっても、私はあなたを忘れません・・・」と、歌を贈った。
(この後の二人の関係がどうなったのかは、古事記には記されていません)


《ヤタノワキ への嫉妬》
 ある日のこと、〔大后〕が、新嘗祭(
にいなめさい:天皇が五穀の新穀を食す:収穫祭)の翌日に行う酒宴で酒杯として使用する御綱柏(み つな かしは
:酒を盛るための柏の葉)を採りに、の船を仕立てて紀伊国に出かけた。
〔天皇〕は〔大后〕の留守の間に、かねてより恋心を抱いていた〔ヤタノワキ
:応神天皇の娘〕を昼も夜も側に置き遊び興じた。
(つまり 〔天皇〕は、腹違いの妹〔ヤタノワキ〕と恋に落ちたのだった)
そんなことを知らない〔大后〕が、御綱柏を船に満載して戻ってくる途中であった。
この時、〔大后〕の船に乗り遅れた〔女官〕が、別の船で難波の船着き場に着いたとき、その船着き場に、吉備国出身で宮中の飲料水を司る
役所の人夫が、たまたま 故郷に帰ろうやってきていた。 彼は〔女官〕の一人に、こんなことを語った。
「この頃 〔天皇〕は、〔ヤタノワキ〕と昼も夜も 戯たわむれあって遊んでおられる。〔大后〕は、ご存知ないからだろう、のんびり 柏の
葉などを集めておられる」 これを聞いた〔女官〕は、すぐに〔大后〕の乗った船に追いつくと、ご注進に及んだ。
そこで〔大后〕は、大いに怨みと怒りで、その船に載せていた御綱柏を、すべて海に投げ捨てた。
 そして宮には入り戻らずに、その船で難波の運河伝いに、川を溯上そじょうして、生まれ故郷の葛城
(かつらぎ)を目指して山城国まで上った時、
ようやく 怒りも静まったのだろう、天皇を称える歌を詠んだ。「・・・・・歌は割愛」
このように詠んでから戻り、しばらく筒木韓人(
つつきのからひと:百済からの帰化人)の家に滞在された。

 〔天皇〕は、いくら待っていても帰ってくる気配のない〔大后〕に、「おまえを愛している」という歌を次々作り、それを使者に持たせて
〔大后〕に送った、が 効果はなかった。
〔天皇〕は、再び歌を作って二人目の使者を送った。 その使者が逗留している館に着いた時、ひどい雨降りであった。
その雨をさけようともしないで、表の戸口にやって来ると ひざまつき、〔天皇〕の歌を奏上しょうとした。
すると〔大后〕は、裏の戸口へ出てしまった。そこで 使者も裏の戸口へ回って ひざまづくが、今度は 表の戸口へ出てしまう・・・・・・
そんな〔大后〕の使者への八つ当たりが繰り返された。
どしゃぶりの雨の中、使者は もう 一歩も動けなくなり、庭の中に しゃがみ込んでしまった。
それを見て一人の〔女官〕が、使者を憐れむ歌を詠み、はらはらと涙をこぼした。
それを いぶかしんだ〔大后〕は、「おまえは なぜ 泣いているのか」と聞いた、「あの使者は、私の兄でございます」、それを聞いて〔大后〕
は、八つ当たりをやめ、天皇の歌の奏上を聞く。
それでも〔大后〕は、帰る気配がないので、〔天皇〕に反逆する異心があると誤解されるので、使者と その妹の〔女官〕 それに 逗留して
いる館の韓人と相談して、〔天皇〕に こう報告することにした。
「〔大后〕が韓人の館に逗留しているのは、韓人が飼っている虫は、一度は這う虫になり、一度は繭
(まゆ)になり、一度は飛ぶ鳥になる、
三色に変わる奇妙な虫がいます。この虫を見るために訪れになったのであり、他の意図はありません」と伝えた。
 このように奏上すると、〔天皇〕は「それならば私も奇妙と思うので、見に行きたい」と言って〔天皇〕がみずから迎えに来たので
〔大后〕は、機嫌を直し大和に帰って行く。 また 奇妙な虫は、蚕
(かいこ)のことであった。

* 〔天皇〕と〔ヤタノワキ〕との恋は、その後も続いたようだ。
* 日本の養蚕は、きわめて古く、それは渡来人の代表である秦氏によって伝えられたと言われます。


《天皇の異母弟御子〔ハヤブサワケ〕の反逆》
 次に〔天皇〕は、その弟の〔ハヤブサワケ
:速総別:応神天皇の御子で仁徳天皇の異母弟〕を仲立ちとして、〔メドリ:女鳥王:〔ヤタノワキ〕の妹
を欲しいと頼む。 じつは〔メドリ〕は、仲介役の〔ハヤブサワケ〕に思いを寄せていた。そのため〔ハヤブサワケ〕に こう言う。
「大后の気性が激しく、〔ヤタノワキ〕を迎えておられないほどなので、お仕つかえできないと思います。私はあなた様の妻になりましょう」
と語り結婚した。こういうわけで〔ハヤブサワケ〕は報告に戻らなかった。

 そこで〔天皇〕は〔メドリ〕の所に直接出向いて、その御殿の戸口から中を覗くと、〔メドリ〕は機織りの前に座って服を織っていた。 
そこで〔天皇〕が詠んだ歌は、「その織っているのは誰のためのものだろう・・・」。 すると〔メドリ〕は、歌を返した
「空を飛ぶハヤブサ
に着せたい・・・」。 そういうことであったのかと、〔天皇〕は諦めて宮殿に帰って行く。
入れ違いに、〔ハヤブサワケ〕が〔メドリ〕の屋敷にやって来た。 なにも知らない〔ハヤブサワケ〕に、〔メドリ〕はこんな歌を詠んで
出迎えた「天高く飛ぶハヤブサよ、あのサザキ
(ミソサザイのことで、仁徳天皇の名前)を とり殺しておしまいなさい」。  やがて この歌が
〔天皇〕の耳に入り、あの二人は謀反を企んでいるのか・・・。そう〔天皇〕は思い、ただちに 二人を討つため軍勢を〔メドリ〕の屋敷に
差し向けた。 それを知って二人は逃げ延びるが、宇陀(
うだ:奈良県宇陀郡)で軍勢に追いつかれ殺されてしまう。
この軍勢の〔将軍〕は、その〔メドリ〕が手に巻いていた玉釧(
たまくしろ:玉で作った腕輪)を奪って自分の妻に与えた。

 このことがあった後、豊楽(
とよのあかり:宮中での宴会)を催すことになり、各氏族の女たちが皆参内(さんだい)した。
そして 〔将軍の妻〕は、その〔メドリ〕の玉釧を自分の手に巻いて参列した。
そして〔大后〕は、自から酒杯の柏の葉を取って、参列した女たち一人一人に与えた。
〔大后〕は〔将軍の妻〕がする腕輪に見覚えがあった。〔メドリ〕を殺した〔将軍〕は その遺体から盗んで妻に与えた、そう判断した
〔大后〕は、〔将軍の妻〕に柏の葉を与えず、ただちに退席するよう命じた。
 そして〔大后〕は、〔将軍〕を呼び出し、激怒して、「〔メドリ〕たちが殺されたのは、〔天皇〕が 邪心を抱いたから、これは当然のこと
です、それなのに お前は、なんとむごたらしいことをした、自分の主君にあたる〔メドリ〕の死体から、それも まだ肌の温もりがあるうちに、
腕輪を取り上げて妻に与えるとは・・・」 こうして 〔将軍〕はただちに死刑に処されたのである。

この〔仁徳天皇〕の崩御は八十三歳。
御陵は毛受之耳原(
もずのみみはら:大阪府堺市大仙町にある 全長486mの日本最大の前方後円墳である大山古墳:ホームページトップの古墳)。
*ただし、履中陵よりも新しいことが確実とされており、これを逆とし、履中陵(百舌鳥
もずミサンザイ古墳)を実際の仁徳陵と見る意見等がある。


* 以後の古事記で登場人物が判りづらいので、下記の【相関図】を参照して下さい。

  

【第17代 履中(りちゅう)天皇】父は、第16代 仁徳天皇(第1皇子) 母は、磐之媛命(孝元天皇の玄孫:豪族葛城氏の祖の娘)
〔履中天皇〕=〔イザホワケ:伊邪本和氣命〕は、最初の宮・難波の宮から、若桜の宮(桜井市池之内)に移り、
天下を治めることになる。
若桜の宮へ移転した理由は、実弟〔スミノエ〕が起こした謀反でした。
〔履中天皇〕の御子は三柱で、娘の〔イイトヨ〕は、〔第22代 清寧
(せいねい)天皇〕の時、次の〔天皇〕選出に
大きく関与する。    
【登場人物は、相関図参照
《スミノエの謀反》
〔長男:イザホワケ〕は、難波の宮に住んでいた頃、大嘗祭[
だいじょうさい:新天皇が初めて行う新嘗祭(にいなめさい)の、豊明りの酒宴(新嘗祭翌日の
酒宴)
]を、開催したとき〔イザホワケ〕は、祝いの酒を飲みすぎて、深酔いしてグッスリと 眠ってしまった。
すると、〔同母弟:スミノエ:墨江中王〕は、兄・〔天皇〕の殺害を企て 大殿(天皇の寝室殿)に火を付けたのです。
しかし、家臣〔アチノ直:阿知の直〕が、真っ先に異変に気づき、〔イザホワケ〕を起こしたが、目が覚めないので、眠ったままの
〔イザホワケ〕を抱きかかえ 外へ逃げだし馬に乗せて、大和に逃げのびたのでした。

 多遅比野(
たじひの:大阪府羽曳野市)に着いた頃、〔天皇〕が目を覚ましビックリして「ここはどこだ? 私はなぜここにいるのだ」と、
家臣〔アチノ直〕に聞いた。 家臣〔アチノ直〕は、「殿が就寝の後、〔スミノエ〕が謀反を企て 大殿に火を放ったのです。
殿の眠りが深かったので、眠ったままの殿を私が馬に乗せて、この多遅比野の地まで逃げてきました。 これから大和へ向かいます」と。
説明を聞いて〔イザホワケ〕が、丘から難波の宮の方角を見ると、赤々と炎上する火が見えた。 
(この事件を機に、〔イザホワケ〕は難波の宮の地を離れ、若桜の宮へ移る)

 大和へ向かって進む途中、大坂山の河内からの入り口で、若い乙女が向こうからやって来て、天皇に申し上げた。
「武器を持った兵隊が多勢 山の麓に待機しています、当岐麻道
(たぎまち)へ迂回する道が安全と思います」
大和へ行く一番近い道は、穴虫峠の道なのだが、この道の峠の下では、〔イザホワケ〕の命を狙う兵隊たちが待ち伏せしているので、
当岐麻道を通る道が安全ですと、告げました。
〔イザホワケ〕と家臣〔アチノ直〕は、乙女の言葉を信じ、当岐麻道を廻って進み無事に大和に到着した。
そのまま 〔イザホワケ〕は、石上神宮(いそのかみじんぐう:天理市布留)に、お入りになられました。
峠の麓で集合していた兵隊たちは、〔スミノエ〕が遣わした兵隊でした。
〔イザホワケ〕は、は、乙女の言葉を信じ、迂回して難を逃れました。 (乙女への褒美は、? 記載なし)

 〔イザホワケ〕は、猜疑心で、心がいっぱいです。 信頼していた血を分けた 実の弟〔スミノエ〕に、殺されそうになったのです。
 この事件から、〔イザホワケ〕は他の兄弟にも疑念を抱きはじめました。 猜疑心で、心がいっぱいです。
大和へ逃げた〔イザホワケ〕は、三番目の弟〔ミズハワケ:水歯別の命〕を、呼びつけて詰問します。
「お前も、〔スミノエ〕と同じ仲間ではないか、どうなんだ、俺は疑っているぞ」 弟の〔ミズハワケ〕は、「それは違います、私には
謀反の心など持っていません、〔スミノエ〕と同じ心だなんて、とんでも ありません」
 すると兄は、「これから直に難波に帰って、〔スミノエ〕を殺して証明せよ。ならば、お前の心を信じよう」と、〔イザホワケ〕は、
謀反人〔スミノエ〕の抹殺を、別の弟に実行させ、その弟の白黒を見極めるつもりなのです。

 さて、どう討つか・・・と、策をめぐらして。〔ミズハワケ〕は、〔スミノエ〕の家臣〔ソバカリ〕を呼びだし命じた。
(家臣〔ソバカリ〕は、敏捷かつ勇敢なことで知られる隼人で、〔ミズハワケ〕は、言葉巧みに欺くことだった)
「お前が私の命令に従うなら、私が〔天皇〕となり、お前を大臣に取り立て、一緒に天下を治めよう・・・・」
そして 褒美の金品を ど〜んと並べて見せた。 「仰せの通りにいたします」 家臣〔ソバカリ〕は簡単におちた。 
〔ミズハワケ〕は「おまえの主君〔スミノエ〕を殺せ」と、命じた。

 家臣〔ソバカリ〕は、直ちに動いた。 主君〔スミノエ〕が厠かわやに入る隙をひそかにうかがい、一気に矛で刺し殺した。
こうして、弟〔ミズハワケ〕は、自分の手を汚すことなく〔スミノエ〕を討ち取り、兄〔イザホワケ〕に自分の身の潔白を証明して、
”信”を確保したのでした。


《隼人を騙し討ち》
 さて、もうひとつ山を越えねばなりません。これからが問題です。主君を成敗した〔ソバカリ〕は、自分が大臣に本当に成れると
思いこんでいます。 〔ミズハワケ〕は、〔ソバカリ〕を連れて、大和へ向かった。
大坂山の河内からの入り口に着いた〔ミズハワケ〕は、〔ソバカリ〕を呼んで こう言うった。
「今日は ここに泊まって酒宴を催し、明日 大和に上ろう」〔ソバカリ〕は、「なんの祝いですか?」と 聞くと、 〔ミズハワケ〕は、
「お前に大臣の位を授ける」。
(偽の儀式で〔ミズハワケ〕の〔天皇〕即位式を開催して、その場で〔ソバカリ〕を大臣に任命する、芝居を行う)
 いよいよ、大盃を交わす儀式です。まづ、〔ミズハワケ〕が 酒を飲み干しました。
つづいて〔ソバカリ〕が飲み干す番で、酒が盃に溢れんばかりに ナミナミと 注がれました。
〔ソバカリ〕が、盃の酒を勢いよく飲み干した時。 その時、〔ミズハワケ〕が、大きな声で、「主君殺しで天誅をくだす」と叫び、
〔ソバカリ〕の首を切り落とした。 (豊明りの酒宴の席での帯刀は、ご法度ですが、〔ミズハワケ〕は隠し持っていました)

 翌日、〔ミズハワケ〕は、大和の石上神宮へ向い、(長男:イザホワケ)へ奏上しました。
「仰せの件、すべて平定し終えたことを申しあげに 只今、参上いたしました」。うむ、御苦労であった、休むが良いぞ」と 
〔イザホワケ〕も安心し 功績を称え褒美をとらせました。
この夜、〔イザホワケ〕と〔ミズハワケ〕は、久しぶりに兄弟の関係に戻り、朝まで酒を酌み交わしました。
(今回の一番の功労者・火の中から〔イザホワケ〕を助け出した家臣〔アチノ直〕は、蔵官(
くらのつかさ:財務管理の長官)と領地を与え、
大出世を遂げたのでした)

(〔ソバカリ〕の首を切り落とした段で)
〔ソバカリ〕を成敗した翌日(明日)とのことで、その地を〈近つ飛鳥
(あすか):大阪府羽曳野市〉と言うのである。
また、今日は、ここに泊まって禊みそぎをして、明日、石上神宮
(〔イザホワケ〕の居る所)に参上しよう・・・・
その地を名付けて、〈遠つ
(難波の宮から遠い)飛鳥(あすか):奈良県明日香村〉と言うのである。
こうして〔イザホワケ〕、若桜の宮で即位し、のちに〔履中天皇〕と呼ばれる。 
崩御:〔履中天皇〕は、64歳にて崩御。 御墓は、毛受(
もず:堺市)にある。

 

【第18代 反正(はんぜい)天皇】   父は、第16代 仁徳天皇(第3皇子)  母は、磐之媛命 
                   
【登場人物は、相関図参照
 兄の後を継承した〔ミズハワケ
:水歯別:反正天皇〕は、柴垣(しばかき)の宮にて、天下を治めておりました。
身の丈は:九尺二寸半あり、御子は四柱。 〔反正天皇〕の伝記録は少ない。
(〔履中天皇〕や〔反生天皇〕は、〔仁徳天皇〕に比べると、事蹟の表現がかなり少ないですが、これは、〔天皇〕の勢力や後世への
 血脈の関係するところなのかも知れない)
在任期間:兄の崩御されたあと、4年間、在任された。
崩御:〔反正天皇〕は、御年60歳にて崩御された。 御墓は、毛受野
(もずの)にある。

 

【第19代 允恭(いんぎょう)天皇】  父は、第16代 仁徳天皇(第4皇子)  母は、磐之媛命 
                   
【登場人物は、相関図参照
 〔オアサズマ
:男浅津間:允恭天皇〕は、遠つ飛鳥の宮で、天下を治められました。
この〔允恭天皇〕は壮年の時、病弱な身体だったので、実兄〔反正天皇〕が崩御された後、「私は、病弱で長患いのため、辞退します」と、
自ら、皇位を辞退されていました。
 しかし、〔大后:オサカノオオナカツヒメ
:忍坂之大中津比売〕や、家臣たちの 熱心な勧めによって、天皇に即位されたのでした。 
〔允恭天皇〕の即位式には、新羅の国王が、豪華な船・八十一艘、奉納しました。
この奉納式の大使は、漢方薬の権威〔王族の男〕が務め、〔允恭天皇〕に漢方薬を投与して病を癒やしました。
 病気の治った〔允恭天皇〕は、〈氏・姓
かばね〉の乱れが、朝廷の混乱の元になると考え、明確にするため、釜に熱湯を入れ〈誓湯(くかたち)
:これは熱湯の中に手を入れさせ、神意を伺う〉の儀式を行った。
 朝廷が所有・管理する、民の技能集団(いわゆる 部
・長おさ)に、釜の熱湯に手を入れさせ、正しい先祖の名前を告げる者は火傷せず、
氏や姓を偽っている者は火傷する。
こうして 国中の多くの 〈部・長・氏・姓〉を正しく定めることが出来た。

 〔允恭天皇〕は、、〔大后〕との間に五男四女をもうけ、
御子たちは皆、美男・美女と評判されるほど、誉れ高い子ばかりでした。
とくに、兄〔キナシノカルノ王
:木梨之軽王〕と、妹の〔カルノ大郎女おおいちつめ:軽大郎女〕の二人は、絶世の美男と美女といわれ、 
国中に評判が広まり、民衆は褒め称えていました。

崩御:〔允恭天皇〕は、七十八才で崩御。


《同母兄妹の狂恋》
〔允恭天皇〕が没したあと、世継ぎの約束されていた、長男〔キナシノカル〕は、あろうことか、まだ即位していないうちに、美しい
同母妹の〔カル〕と 相思相愛の仲となってしまい。(異母の兄弟姉妹間で情交を結ぶことは許されていたが、同母の場合はタブーである)
そのため この〈狂恋〉を知った朝廷や官吏など人々の心は、長男〔キナシノカル〕から離れていき、三男〔アナホ
:穴穂ノ御子〕の
ほうへ移っていった。 「〔長男:キナシノカル〕は、殺したほうがいいのではないか」 そんなことを 漏らす者もいたようだ。
いずれにしても人々は〔三男:アナホ〕に心を寄せ、〔アナホ〕を〔天皇〕に就けようとした。

 これでは 〔長男:キナシノカル〕は、皇位を継ぐどころか、命の危険さえある。
〔キナシノカル〕は、恐ろしくなって 武力で反対者たちを封じ込めようと思い、家臣〔オオマエ
:武器庫の大臣・物部氏〕の屋敷に逃げ込み、
武器庫から〈軽矢
:かるや:銅製の矢〉を用意し、戦闘の準備を整えました。
これを知った弟〔三男:アナホ〕は、兄の行動を黙って見ているわけには、いかなくなりました。
そこで、〔三男:アナホ〕は、軍隊に命じ新しく造らせた・〈穴穂矢
:あなほや:鉄製の矢〉を手に持ち、先頭に立って、家臣〔オオマエ〕の
屋敷を 取り囲みました。
〔三男:アナホ〕軍が、屋敷を取り囲んでいるとき、凍るように冷たい雨が、いきなり降り出してきました。
〔三男:アナホ〕は、歌を詠み・・・「〔オオマエ〕の屋敷の金で飾った門の陰に皆寄って来い雨が止むまで待とう」・・・

 そのとき、家臣〔オオマエ〕が、手をあげ、膝を打ち、舞を踊り歌いながら、出て来て申した。
「われらの天皇となるべき〔アナホ〕よ、 同母の兄王あにみこ相手に 戦う必要は ありません。
私が、〔長男:キナシノカル〕を説得して、必ず、あなたにお渡ししますから、矢を下げてください」
〔三男:アナホ〕は、家臣〔オオマエ〕の言い分を認め、兵を下げて退き 待つことにしました。
まもなく、約束した通り、家臣〔オオマエ〕に説得された 〔長男:キナシノカル〕は、武器を捨て丸腰で出てきた。
捉えられた 〔長男:キナシノカル〕は、そのまま、島流しに処する〈伊余の湯
:松山市道後温泉〉へ抑留。
 
( 〔長男:キナシノカル〕は、伊予で妹を恋しく思い、多数の歌を詠んでいる・・・削除)
 また、〔長男:キナシノカル〕を心から恋しく慕っていた、妹〔カル〕は、兄・〔長男:キナシノカル〕を忘れることができず。
兄・〔長男:キナシノカル〕のいる伊余の湯まで追いかけて行きました。 
その後、二人は、共に自殺いたしました。

崩御:〔允恭天皇〕は、78歳にて崩御。 御墓は、河内の恵賀の長枝(
えがのながえ:藤井寺市国分)。

 

【第20代 安康(あんこう)天皇】 父は、第19代 允恭天皇(の第3皇子)  母は、忍坂之大中津比売 
〔三男:アナホ:穴穂御子:安康天皇〕は、石上(いそのかみ)の穴穂の宮(天理市)にて、天下を治められました。

 
【登場人物は、相関図参照
《勅命による結婚》
 〔安康天皇〕は、〔弟:オオハツセ
:大長谷王子:後の雄略天皇〕の嫁には、誰が最適なのかと、常々、考えておりました。 
そして、偉大な祖父〔仁徳天皇〕の血をひく女性から、選ぶことになりました。
検討した結果、叔母である〔仁徳天皇〕の娘〔ワカクサカノ王
(みこ):若日下王〕が良いという結論になりました。
 この〔叔母:ワカクサカ〕の兄が、〔仁徳天皇〕の皇子〔叔父:オオクサカノ王
(みこ):大日下王〕です。
家臣〔ネノ臣〕は、〔天皇〕から、この件を任され、〔叔父:オオクサカ〕に会いに行きました。 
〔安康天皇〕の父〔允恭天皇〕と、〔ワカクサカ〕は、母違いの兄妹なのですから、義理の伯母にあたる人です。
つまり、〔安康天皇〕は、自分の弟と 自分の伯母を、結婚させたいと考えたのでした。

 家臣〔ネノ臣〕は、〔叔父:オオクサカ〕に申しあげた。
「我が〔天皇〕は、汝の妹〔ワカクサカ〕を、〔天皇〕の弟〔オオハツセ〕の妃に、所望されているが、いかがか?」
〔叔父:オオクサカ〕は、〈玉蘰
(たまかずら)の冠〉を、敬意の印の品として献上して、
「ありがたく思います、誠に恐縮の極みにございます、仰せのままにいたします」と、答えました。
 ところが、家臣〔ネノ臣〕は、献上品の玉蘰の冠を、ネコババしてしまいました。 それだけでは足りず、家臣〔ネノ臣〕は、
〔天皇〕に「〔叔父:オオクサカ〕は、勅命に逆らい ”妹は同族の者の下敷きにはできない”と、言って太刀を抜き怒りました」
と、偽りの報告を〔天皇〕に伝えたのでした。
 〔天皇〕は、家臣〔ネノ臣〕の報告を聞き大いに怒り軍隊を出動し〔叔父:オオクサカ〕を殺してしまいました。
そのドサクサの中、〔天皇〕は、〔叔父:オオクサカ〕の正妻〔ナガタノ大郎女
(おおいらつめ):長田大郎女〕を、強引に自分の〔皇后〕に、
してしまったのです。

 この〔皇后:ナガタ〕には、〔叔父:オオクサカ〕との間に、七歳のひとり息子〔マヨワノ王
:目弱王〕が、居たが殺されずに、
〔母:ナガタ〕と供に〔天皇〕の元に連れて来ていた。
 ある時、〔安康天皇〕は、神の神託(
しんたく:自らの体に神霊を乗り移らせて、神の言葉を求める、神懸りのこと)を受けるため、〈神床:かむどこ
に横になり、寝ていました。
その時、〔皇后:ナガタ
:元〔叔父:オオクサカ〕の妻)は、何か心配事がある表情の顔をして天皇の側におりました。
〔天皇〕は〔皇后〕の表情が気になり、 「そなたには、何か心配なことでもあるのか?」 と、聞いた。
〔皇后〕は、「いいえ、〔天皇〕の”ご愛籠”をいただいて、私には、何の心配もございません」 と、答えた。
〔天皇〕は、「実は、私には常に心配していることがある。 それは、お前の子の〔マヨワ〕が 成人した時、自分の父を、私が殺したと
知ったならば、私に反逆の心を持つのではないか? と、いうことが心配なのだ」。
この時、〔マヨワ〕は、丁度 すぐそばの神殿の床下で遊んでいて、運悪くこの話を聞いてしまったのです。

 〔マヨワ〕は、父上の仇討ちをしようと、〔天皇〕の隙をうかがった。 〔天皇〕が〈神床〉で ぐっすり眠り込んで、母の〔皇后〕
が神殿から下がるのを待った。 頃合いをみて〔天皇〕の寝込みを襲い、小刀を天皇の首に打ち刺し殺害した。 
そして、そのまま、無念の死を遂げた父〔オオクサカ〕の家臣で、葛城の豪族〔ツブラオホミ〕の館に逃げ去ったのです。


《兄二人の惨殺》
 兄の〔安康天皇〕が、妻を世話してくれると思っていた同母弟の〔オオハツセノ王子
(みこ)〕は、まだ少年である。
兄(安康天皇)が殺されたことを、聞いた弟〔オオハツセ
:後の雄略天皇〕は、怒りで震え叫んだ。
兄の仇討ちを果たす覚悟で〔オオハツセ
:雄略〕は、兄〔クロヒコ〕に、協力を求めに行き 懸命に訴えました。
しかし、〔クロヒコ〕は、ぼさ〜としたまま、他人ごとのように無関心の怠慢な態度でした。
その態度に激怒した〔オオハツセ
:雄略〕は、ついに ブチ切れた。
「〔天皇〕が殺された大事件というのに、こんな一大事のときに、〔クロヒコ〕のそのいい加減な態度は許せん」
〔オオハツセ〕は、太刀を抜き、〔クロヒコ〕の襟首をつかみ、めった切りにして殺してしまった。

 さらに、〔オオハツセ
:雄略〕は、もう1人の兄・〔シロヒコ〕にも、同じく協力を求めましたが、この兄も、〔クロヒコ〕と同じく、
のらりくらりと、いい加減な態度を示してばかり、協力する気はありません。 二人目の兄・〔シロヒコ〕も、俺には関係無いと、
まったく他人事の感じです。 又も腹が立った〔オオハツセ
:雄略〕は、〔シロヒコ〕を ボコボコにして、外へ引きずり出し、
穴の中に埋めてしまった。  〔シロヒコ〕は、首まで埋められて、両眼が飛び出して死んでしまいました。

 〔オオハツセ
:雄略〕は、もうこうなっては、自分が先頭になって、仇討ちを行うことを、決意しました。
たった一人で 軍を起こして、〔マヨワ〕が逃げ込み隠れている、葛城の豪族〔ツブラオホミ〕の館を包囲する。
〔ツブラオホミ〕の方でも、軍備を整え待ちうけていました。
こうして、両軍はしばらくの間、矢を射かけ合い互角であったが、やがて 〔オオハツセ:雄略〕に有利となった。
〔オオハツセ
:雄略〕は、威風堂々とした度胸で、矛を杖として飛び交う矢をくぐり抜け館の中まで突入しました。
この度胸極まる行動に驚いた〔ツブラオホミ〕は、身に帯びた刀剣を捨て八度も頭を下げてから、こう言うった。
「〔オオハツセ
:雄略〕の、あなたさまより、賤しい身分の私は、力を尽くして戦っても、あなたさまには勝てません。
しかし、今の私は、お世話になっ自分の主君の可愛い〔マヨワ〕を、身捨てることはできません。
私も、〔マヨワ〕も、共に 自害する覚悟でございます。 その後、ぜひ、私の願いを叶えてほしいのです。
葛城の五カ所の屯倉(
みやけ:朝廷の直轄地)を差し上げますので、我が娘〔カラヒメ〕を、妃に向かえてください」と、伝えて
〔マヨワ〕と〔ツブラオホミ〕は自害した。
〔ツブラオホミ〕は、〔オオハツセ
:雄略〕に自分の娘・〔カラヒメ〕を妃にして欲しいと伝えて死んでいきました。

(〔安康天皇〕の家臣〔ネノ臣〕の讒言
(ざんげん)が引き起こした、無意味な殺し合いは、やっと終了しました。
  だが、この事件の発端となった讒言の悪党・〔ネノ臣〕のその後は、どうなったか 記載がありません。)


《従兄弟同士の殺し合い》
 この事件からしばらくたった頃、 ある時、近江の国の韓袋
(からぶくろ)という者が、〔オオハツセ:雄略〕に、「淡海(近江国)
蚊屋野
(かやの)では、数多くの猪や鹿がいます。 その獣の立つ足は、まるで 林が広がっているようで、角は枯れた松のように見え
るのです。 王も、猪・鹿狩りに行かれたら良いでしょう、楽しいですよ」 と、 申し上げた。
 さっそく、〔オオハツセ
:雄略〕は、〔履中天皇〕の皇子で、従兄の〔イチノベノオシハノ王:市辺之忍歯王〕を誘って、多勢の家臣を
引き連れて、淡海(
あわうみ:琵琶湖)の国・蚊屋野まで、猪・鹿狩りに出向いて行きました。
(この 〔オシハ
:忍歯王〕の名前は、後の物語(賢宗天皇の段)で〈歯〉の特徴に繋げるために付けられたようだ)

 二人の王
(みこ)は、狩りを楽しむつもりで、別々に仮宮の宿を造りました。       
朝早く起きた 〔オシハ〕は、狩りに向かう途中、〔オオハツセ
:雄略〕の仮宮の前を通りかかった時、仮宮の門番に 
「王は、まだお目覚めではないのか ハハハ‥‥ 夜はもう開けておるぞ 」 と、ひと声、朝の挨拶を馬上からかけた。 
そして、狩り野へ向かって馬を走らせていきました。
〔オシハ〕は、朝の挨拶をしただけでしたが、言葉は、聞いた側の人間が、誤解を生じやすいものです。
この朝の挨拶を聞いた門番は、〔オオハツセ
:雄略〕に、 「まったく、いやな物の言い方をする人です、王は武装して出かけたほうが
良いですよ」 と、言ってしまった。
 この門番の話を、うのみにした〔オオハツセ
:雄略〕は、頭には「兜」 衣の内には「鎧」を着、弓矢・太刀を帯びて馬に乗り
”ムチ”を入れ、〔オシハ〕を追いかけ、狩り野へ向かって突進していきました。
〔オオハツセ
:雄略〕は、〔オシハ〕に追いつくなり、いきなり矢を抜いて〔オシハ〕を、射ぬいた。
さらに、馬から落ちた〔オシハ〕の身にまたがり、止めを刺した。 そのあと、すぐに その身を斬り刻んで馬の飼葉桶に入れて、
草原の草叢
(くさむら)の中に、誰にも気づかれぬように、埋めてしまったのです。

 殺された父〔オシハ〕の、二人の子〔オケ・ヲケ〕たちは、自分たちの身にも危険が及ぶ前に、すばやく、知らない土地を求め
播磨の国
(兵庫県南西部)へ、逃げだしました。
その途中、まだ幼い二人の兄弟は、山城国に着いて、乾飯
(ほしいい)を食べている時、顔に入れ墨をした老人が、現われ、彼らの乾飯を
奪った。  「何をする。 欲しければやろう、お前は何者なのだ」 と、問うと。「私は山城の猪甘(
いかい:豚飼い)だ」 と、
偉そうに言う。 豚飼いごときに無礼なまねをされて〜〜〜〜〜「いつか、この仕返しはしてやる・・・・・」
この兄弟は生き延びるには、とにかく、身分を隠して逃げまわるしか方法がありませんでした。

 兄弟はそこから、丹波の国を抜け、ようやく 播磨の国まで、逃げ延びてきました。
そして、この土地の長
(おさ)で、屯家(みやけ:朝廷の倉元)を担っていた、〔シジム〕の家に雇われました。
二人は、主に馬や牛の世話や、下働きの仕事を行い、住み込みで働きはじめました。

崩御: 安康天皇は、御年56歳で崩御された
(在位は3年間)。 御墓は、菅原の伏見の岡(奈良市宝来町)


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