【第21代 雄略(ゆうりゃく)天皇】   父は、第19代 允恭天皇(の第5皇子)  母は、忍坂之大中津比売
                      
【登場人物は、相関図参照
 〔雄略天皇:オオハツセワカタケルノ命:大長谷若建命:名を改める〕は、長谷の朝倉の宮(桜井市)にて、天下を治め。
叔母である〔仁徳天皇〕の娘〔ワカクサカノ王
(みこ):若日下王〕を、皇后に迎えました。 
 この皇后との間には、御子は産まれませんでした。
過去に自害した、葛城の豪族〔ツブラオホミ〕との約束を守り、〔カラヒメ〕も娶
(めと)りました。
そして、〔シラカノ命:白髪の命:次の第22代 清寧天皇〕と、ワカタラシヒメ〕の二柱の御子が産まれた。
 ある時、〔雄略天皇〕は、日下の道を通って河内方面に、国見(くにみ:〔天皇〕が高山に登って領国を見渡し、地勢を褒め称えて五穀豊穣を
与祝する農耕儀礼
)に、出かけていきました。
山の上から遥かに国を望むと、鰹魚木(かつおぎ:棟木の上の鰹の形をした木)を屋根に上げて作った家が、見えたので、
「こやつめ、おのが家を〔天皇〕の御舎(みあらか)に似せて作るとは、はなはだ 不遜な奴だ」と、激怒し屋敷を焼き払うよう命じた。
それを知った、その家の主人の〔大県主
(おおあがたぬし)〕は、すっかり恐れ入り、
「私は、卑しい者なので、つい 身分不相応なことをしてしまいました、 なにとぞ、お許し下さいませ」と、平謝りして、許しを請う
ことができました。
お詫びのしるしにか、〔大県主〕は、白い大きな犬に豪華な布を掛け、大きな鈴を首に付けて、献上しました。

 〔天皇〕は、すぐさま この犬を、〔叔母:ワカクサカノ王
(みこ)〕に、結納の品として持参しました。 「まあ!〔天皇〕みずから
こちらへ・・・・おそれ多いこと」 とは、 思ったけれど、侍女にこう奏上させた。
「東の大和より、日に背を向けて河内へいらっしゃるのは たいそう不吉なことです、私から参上いたします」そう伝えて、合おうとは
しなかった。 (兄を殺した、男の弟は〔天皇〕とはいえ、おいそれと従うわけにはいかなかったのだろう)
 そのため〔天皇〕は朝倉の宮に帰えることになったが、生駒山の峠で歌を詠み、 この歌を〔叔母:ワカクサカノ王〕の使いの者に
持たせて帰した。  後に〔天皇〕が〔叔母:ワカクサカノ王みこ〕を、〔皇后〕にされたのは、このような経緯がありました。


《アカイコ:赤猪子》
 ある日、雄略天皇が、三輪川のほとりに 野遊びに行かれたました。 〔天皇〕は、河の岸で洗濯をしている美しい〔童女〕に、声をかけ
名を尋ねたのでした。 その〔童女〕は、「私の名は、〔アカイコ:赤猪子:引田部(桜井市初瀬の部民で神社の祭司に当っていたらしい)の娘〕と、
申します」と答えた。  すると、〔天皇〕は、その〔童女〕に「お前は、夫を持つな、近いうちに、宮中に召しかかえることにする」と、
申し伝えた。
〔アカイコ〕は、〔天皇〕の言葉を信じて、誰にも嫁かず、ひたすら〔天皇〕からの呼び出しを待ち。 そして、とうとう、八十年
(八は、
単に数が多いことを表す)
が、過ぎました。

 「お召しくださるのを待って、もう80年、もはや身体は痩やせ萎しぼみ、もう今では、〔天皇〕にお仕えることが、できない年になって
しまった。 けれど、待ちつづけたという誠意と気持ちだけは、ぜひ、お伝えしたい。 このままで、あの世に行きたくはない」と、
決心しました。
 そして、女性から婿に贈る〈百取りの机代:
ももとりのつくえしろもの:結納品〉を自ら持参し〔天皇〕の宮へ参上した。
ところが、当の〔雄略天皇〕は、もう、80年前のことですので、スッカリ忘れていました。
「お前のような老婆が、何があって ここに来たのか?」と聞くと
「昔のことです、いずれ呼ぶから待てと、お言葉を頂いて、それ以来 お召しの声を待っているうちに、80年の歳月が過ぎてしまいました。
若かった姿は変わり果て、衰えてこんな老婆になってしまいました。
もう、お召しかかえも望みませんが、若き〔童女〕が、天皇のお言葉を信じて待ちつづけた、心だけは知っていただきたいと、こうして 
参ったのでございます」 と、老婆になった〔アカイコ〕が答えました。

 〔天皇〕は、この時、忘れていた昔を思い出し、たいそう驚いて、詫びを入れた。
「私は、昔のことをまったく忘れてしまっていた。それなのに、お前は、私を信じて操を守りつづけ、たいそう不憫
(ふびん)な思いをさせ、
 女盛りを ムダに過ごさせてしまった、申しわけないお許しくだされ」。
〔天皇〕は、老女〔アカイコ〕の心に答え、平謝りして、御歌を送った。
「・・・・の神聖な乙女よ、引田の栗林で、若い頃 寝てしまえばよかったものを共に老いすぎてしまった」
この歌を聞いた〔アカイコ〕は、着物の赤い袖を涙で濡らし、〔天皇〕の気持ちに歌で返した。
「・・・・・いま身の盛りの若い人の 羨ましいこと・・・」
〔天皇〕は、〔アカイコ〕の返し歌に感動して、たくさんの賜り物を授けて、帰りの道を送られた。


《吉野の乙女》
 ある時、〔雄略天皇〕は吉野離宮
(吉野町宮滝あたり)に、お出ましになりました。  
吉野川のほとりでは、美しい〔乙女〕と出会い、ひとときの楽しい時間を、過ごされました。
〔天皇〕は、吉野の離宮から、長谷の朝倉の宮へ戻られても、あの美しい〔乙女〕にことが気になっていました。
後になって、また天皇は吉野へ、お出かけになられました。 
その〔乙女〕が、また あらわれたので大御呉床(おおみあぐら:天皇が足を組んで座る台)を設営して、その〔乙女〕を招待しました。
 そして、〔天皇〕みずから琴を弾いて、その〔乙女〕に、舞を舞うように、仰せになりました。その〔乙女〕は、みごとな舞を披露しました。
(この話は、吉野の〔巫女〕と〔天皇〕が、聖婚された という説もあります。 吉野の山奥には離宮が設営されていました。また、後々の
 天皇方なども、ひんぱんに吉野に入られました。
つまり、朝廷においては、吉野の地は、特別な意味をもつ場所であったのでしょう。)

 〔雄略天皇〕は、吉野の離宮から、足を伸ばして狩りを楽しんでおられました。 御呉床に坐って、一休みしている時に、一匹の虻が 
飛んできて天皇の腕に噛みついた。 するとその時、蜻蛉(
あきず:トンボ)が、どこからか飛んできて、その虻をくわえて飛び去りました。
そこで天皇は、この野原の地名を、「蜻蛉野
(あきずの)」と名付けて、歌を詠んだ。
(〈あきず〉は、トンボの古名です、イザナギとイザナミが『大八嶋国』を生む段で、秋津島=大倭豊秋津島
オオヤマト トヨ アキツシマ(本州):
秋津はトンボが合体しながらんでいる姿が、本州に似ていることからついた名前


 ある時、〔雄略天皇〕は葛城の山に登っておられた。 途中、大きな猪が出てきた。
〔天皇〕はすぐに 〈鳴り鏑矢:
なりかぶらや:矢の先に音が出るように穴を開けた矢〉をもって、そのイノシシ
めがけて射たのだが、 そのイノシシは怒り狂って 唸り声をあげて、猪突猛進してきました。    
身の危険を感じた〔天皇〕は、逃げ走り 近くの榛(
はり:ハンノキ)の木の上に登って助かりました。 
そして、その木の上で、歌を詠んだ。(省略) 
(〔天皇〕は、この猪がよほど恐ろしかったのでしょう。 このような場面で歌を詠むとは、考えられません)
《一言主大神(ひとことぬし の おおかみ)
 ある時、〔雄略天皇〕は、百官を引き連れて、葛城山
(かつらぎやま)を登山していていました。 百官の家臣は、皆、青摺り(あおずり)の衣を
着て、赤い紐のタスキを巻いて、登っていました。 その途中、隣りの山の尾根づたいを登る、大勢の人々の姿が見えました。
どういうわけか、その一行の装いも人の数も、形も、〔天皇〕の一行と、すべて同じなのでした。
 〔天皇〕は、これをご覧になって、さっそく 向こう尾根の人々に 大きな声で尋ねました。
「この大和の国に、私のほかには大王
(おおきみ)は、いないはず、この一行を治める長(おさ)は どなたなのか?」
ところが、向こう尾根の人々は、言葉も態度も、まるで〔天皇〕とそっくりな、オウム返しで答えてきた。

 そこで〔天皇〕は、ひどく怒られて、矢をつがえ、百官も矢をつがえて構えたのです。 するとまた、彼らも同じように皆、矢をつがえ
たのです。   そこで〔天皇〕は、相手に叫んだ「私は、大和の国の王、〔オオハツセ〕である、そちらの名は何と申す?」
 (当時の戦は、互いに名を名乗りあってから、始めましたので、〔天皇〕はルールに則って名を聞きました)
すると、相手は、「私の名は、悪しきことにも一言、善きことにも一言、言い放つ神・葛城の一言主の大神であるぞ」
これを聞いた〔天皇〕は、大いに恐縮して、深く拝礼いたしました。
「これはこれは、わが大神。 たいへんなご無礼をお許しください。恐れ多いことでございます。 私は人間の身のゆえ、あなたが大神と
見抜けませんでした、たいへん失礼いたしました。お詫びに、大御刀・弓矢・百官の着ている衣類、すべて献上しますので、お許しください」。


《衰えない乙女への恋心》
 ある日、〔雄略天皇〕が、丸邇わにのサツキノ臣
(春日の豪族:孝昭天皇の第1皇子の子孫)の娘〔オドヒメ〕を妻に、迎えるため、春日(奈良の東)
に向かったときのこと。 行列を引き連れた〔天皇〕を見た〔オドヒメ〕は、恥ずかしがって 急いで、逃げ隠れてしまいました。
〔オドヒメ〕が、丘に逃げたのは、〔天皇〕から逃げたくて、逃げたのではありません。 また、別に好きな男がいたわけでも ありません。
ただ、初めて見た〔天皇〕の行列に 驚いたのと、乙女心の恥ずかしさも あったことでしょう。

 ある秋、長谷の郊外で、新嘗祭の酒宴を催したとき、伊勢の三重から采女(
うねめ:女官)として遣わされた少女が、酒杯を高く捧げ、
〔天皇〕に差し出した。 
その時、欅の葉が落ちて来て、少女の捧げ持つ酒杯に浮かんだ。 それに気づかず、そのまま 酒杯を〔天皇〕に差し出した。 
酒杯に浮かぶ落ち葉を見た〔天皇〕は、かっとなって、「無礼者ッ」と、いきなり少女を打って倒し、その首に太刀を当てて斬り殺そうとした。
すると少女は、〔天皇〕を見上げるようにして、「私を殺しなさいますな、申し上げることが ございます」 そう言い、こんな内容の歌を
詠んだ。 
「纒向の宮殿は・・・繁った欅の枝、上の枝は天を覆い、中の枝は東の国を多い、下の枝は田舎を覆ってる、・・・・下の枝の葉は、三重の
 采女の捧げている酒杯に落ちて浮き漂い、水を こおろこおろ と掻き均し、浮かんでいる、 これこそ 天の沼矛で男神女神(イザナギ・イザナミ)
 が、ぐるぐる混ぜた その国のよう、・・・・・」
〔天皇〕は、状況に応じて適切な判断をして、歌を詠む少女の頭の良さに感心して、その罪を許した。
そして 少女を褒めて、たくさんの贈り物をした。
 (この日、前述した春日の〔オドヒメ〕も、〔天皇〕に酒を献上して、〔天皇〕の寵愛を受けたことだろう。)
 
崩御: 雄略天皇は、御年124歳で崩御。 御墓は、河内の多治比
(たじひ)の高鷲(たかわし:羽曳野市
    (高鷲丸山古墳〔円墳・径76m〕と、平塚古墳〔方墳・辺50m〕に比定されている。)

* 即位後も人を処刑することが多かったため、後に大悪天皇と誹謗される原因となっているが、大悪天皇の記述は武烈天皇にも見られる
  ことから、両者は同一人物ではないかとの説もある。
* 『万葉集』や『日本霊異記(
にほんれいいき:平安初期の仏教説話集)』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は
  未熟ではあったものの、 雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。
* 『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に
〔雄略天皇:日本書紀記載の:ワカタケル=幼武天皇の“武”〕比定される。
 その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されてある。
 熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌
(ぎんぞうがん)鉄刀銘 や 埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘(きんさくめい)鉄剣銘を
 「獲加多支鹵大王」、すなわち〔ワカタケル
:若建命=雄略天皇〕大王と解して、その証とする説が有力である。

    
    上図は、 《稲荷山古墳(前方後円墳:墳丘長120 m・高さ12 m)出土の金錯銘鉄剣(国宝)》
  表面に古代国家の成立過程に関する115文字(漢字)が刻み込まれていた。
  内容は,[私の先祖は代々、親衛隊の長を務めてきた。 私はワカタケル(雄略天皇)に仕え、天下を治める補佐をした。 
  471年7月に、これまでの功績を剣に刻んで記念とする。]

* 歴史上で〈空白の4世紀〉の大王とされ、この時代に大和王朝は、 ほぼ 日本全土を平定。

* 〈空白の4世紀〉=266〜413年間は、中国史書に倭国の記事は無い。
 ◆ 弥生時代(後期)
  57:奴国王が中国(後漢)に使いを送り、中国の光武帝が金印(漢委奴国王)を授ける。[後漢書]
 107:倭国から使者(帥升
すいしょう)を後漢に送り、交わりを始める。[後漢書]
 150:倭の国に大乱が起こる。[魏志倭人伝]
 239:卑弥呼が中国(魏)に使いを送る。[魏志倭人伝]
 266:卑彌呼の宗女壹與が朝貢。[晋書]
 ◆ 古墳時代
・285:漢字が中国から伝わる。(王仁
わに博士) [日本書紀]
・350:この頃、大和朝廷が国内をほぼ統一する。 各地に古墳がつくられる(前方後円墳・円墳・方墳)。
・369:百済が七枝刀(銘文「泰和4年(369年)」)を倭王に贈った。 [銘文から推定]
・391:大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける。 [日本書紀]
・400:新羅救援の倭兵を撃退。 [広開土王碑(好太王碑)]
・413:倭王讃が東晋に使者を派遣し朝貢。 [晋書] (中国の史書に倭の五王が登場する)

 

【第22代 清寧(せいねい)天皇】 父は、第19代 雄略天皇(の第3皇子) 母は、葛城韓媛(豪族葛城氏一族)
                 
【登場人物は、相関図参照
 〔シラカノオオヤマトネコノ命
:白髪の大倭根子の命〕が、〔清寧天皇〕に即位した。
〔天皇〕は、伊波礼
(いわれ)の甕栗(みかくり)の宮(桜井市池之内)にて、天下を治められました。
生まれつき、白髪だった〔清寧天皇〕は、皇后をもたなかったので、御子はおりません。
そして 没した。   (史料によると、四十に なるかならぬかの ときであったようだ)

 皇太子がいないとなると、〔雄略天皇〕の血筋が途絶えてしまう。 〔雄略天皇〕は、自分が即位するため、多くの身内を殺している。 
そこで 〔雄略天皇〕の血筋を探し求めたところ、〔雄略天皇〕が殺した、従兄の〔イチノベノオシハ〕の妹、〔イイトヨノ王:飯豊王〕が、
葛城に いることがわかった。
 そこで 〔イイトヨ〕が、しばらくの間、角刺(
つのさし:奈良県北葛城郡忍海おしみ)の宮で、天下を治めた。 (記では即位と記載)  
その いっぽう〔イイトヨ〕は、兄の二人の遺児、甥っ子の行方を探し求めた。

〔雄略天皇〕に殺された、〔イチノベノオシハ〕の遺児〈参照〉、兄の〔オケノ王
:意富祁〕と、弟の〔ヲケノ王:袁祁〕の二人は、播磨の国へ逃げ
延びて、土地の首長、〔シジム〕の家に、住み込み労働者として働いていた。二人は、名を変え、牛の世話する牛飼い人として働いていました。

 あるとき 〔シジム〕は、新築の完成祝いに酒宴を催した。 その酒宴に播磨国の〔長官〕が出席した。 宴もたけなわになった頃、
身分の上から順々に立ち上がり、次々と舞い踊った。 竈のそばでは、火炊き役の少年二人が座っていた。 「お前たちも舞え」 最後に
火炊き役の少年たちにも踊らせることになった。 「兄さん、先に」 「いや お前が先に」 大げさに譲り合う二人を見て、
そこに集まっていた人々は、譲り合うような柄でもないのにと笑った。
とうとう 兄が先に舞った。 次に弟が舞うことになったが、弟は舞う前に こんな歌を歌った。
「天下を安らかに お治めになった、かの〔履中天皇〕の御子である〔イチノベノオシハ〕は、私たちの父君です」

 この歌を聞いていた〔長官〕は、驚きのあまり、坐っていた上床
(うわとこ)から 転げ落ちました。
ただちに 人払いして、この二柱の王子を膝に抱き寄せ、うれし泣きの涙を流し。さっそく翌日には、二人の王子のために、仮の宮を建てて
住まわせ、大和に早馬の使者をおくった。

 この朗報を聞いて、叔母の〔イイトヨ〕は喜び、二人の王子の〔兄:オケノ王〕と、〔弟:ヲケノ王〕を、自分の住まう葛城の角刺の宮に
引き取った。 こうして 二人の兄弟は、皇族に復権するのである。


《歌垣(うたがき)での恋争い》
(歌垣とは、男女が野山や海辺に集まって飲食や舞踊をしたり、歌を歌ったりする〈集団見合い〉のようなもの:村社会の時代には、血族結婚
 が多くなりやすく、村の血が濃くなるので、他の「血」を入れる為に、1定の規則のもとに、男女交際の場が開かれていました。)

〔兄:オケノ王〕と、〔弟:ヲケノ王〕は、国を治める立場となった。 この二人が、天皇の位に就く前のこと。〔弟:ヲケノ王〕は、
豪族の娘〔オオウオ〕という少女を妻にしたいと思っていた。 ある晩、〔弟:ヲケノ王〕は、歌垣の集まりに赴いた。
この歌垣に〔オオウオ〕も参加していたので、〔弟:ヲケノ王〕は、求愛しようとして、〔オオウオ〕に近づくと、先に〔オオウオ〕の
手を取る者がいた。 平群臣(
へぐりのおみ:大和の有力者)の息子〔シビ〕であった。
〔弟:ヲケノ王〕と〔シビ〕は、相手を嘲
(あざけ)る歌を詠み、その応酬は、夜通し続いた。
 その翌朝、〔兄:オケノ王〕と、〔弟:ヲケノ王〕は、「朝廷に仕える人は、昼になれば〔シビ〕の家に集っている。 〔シビ〕に そその
かされて何をするかわからない、今なら 門前には、人はいないだろう、」 二人は、ただちに 軍を起こして 〔シビ〕の屋敷に、不意を
襲って 〔シビ〕を殺害した。

 こうして いよいよ どちらかが皇位に就くときがきた。 〔兄:オケノ王〕は、〔弟:ヲケノ王〕に こう言った。「播磨の〔シジム〕の家で、
もし お前が勇敢に名前を明かさなかったなら、世に出る ことはなかった、お前の手柄なので、弟が先に天下を治めても 一向に かまわない」。
弟は辞退するが。 ついに 〔弟:ヲケノ王〕が、兄より先に天下を 治めることになる。 後になって、第23代 顕宗
(けんぞう)天皇と 呼ばれる。



【第23代 顕宗(けんぞう)天皇】 父は、市辺之忍歯王(履中天皇の御子)  母は、“記”には、記載なし?
                   
【登場人物は、相関図参照             “紀”では、(はえひめ:豪族葛城氏一族)
 〔顕宗天皇:ヲケノ王
:袁祁〕は、飛鳥の宮(羽曳野市飛鳥)にて、天下を治められました。
また、〔天皇〕は、難波の王(
なにわのみこ:イワキノ王の娘)を娶ったが、子はなかった。

 父〔イチノベノオシハノ王
:市辺之忍歯王〕が〔オオハツセ:雄略天皇〕に、狩り場で殺害されたので、〔顕宗天皇〕は、〔天皇〕に即位して
すぐ、父の遺骨を探し求めました。 (忍歯の王の、忍歯
(おしは)は、八重歯のことです。 :押歯(おしは)とも書く)


《父の遺骨を探す》
 その父は、殺されて馬の飼い葉桶に入れられ、草叢
(くさむら)に埋められたので目印となるものは無く、その埋められた場所の盛り土さえも、
探すことができません。 ところが、〔イチノベノオシハノ王〕の御骨が埋められている場所を知っている、一人の〔老女〕が現れれました。
さっそく、この〔老女〕に案内させ、蚊屋野(
かやの:滋賀県秦荘町)の草叢で、父〔イチノベノオシハノ王〕の、歯の形を 確かめ遺骨を見つけ
ました。 (イチノベノオシハノ王 の八重歯は、長さ一寸あったそうです) 〔天皇〕は、蚊屋野の東の山に。御墓を建てて弔いました。
そして、〔オオハツセ
:雄略天皇〕の部下、猪狩りを計画した〔韓嚢:からぶくろ〕の子孫に墓守りを命じたのでした。

 このあと〔顕宗天皇〕は、父の遺骨の情報をもってきた〔老女〕を、宮廷に召し入れ手厚くもてなしました。
さらに、その〔老女〕の住む家を宮の近くに建てて、毎日のように宮廷にて御馳走を振る舞われました。
年月が過ぎた頃、この〔老女〕は天皇にお願いしました、
「〔天皇〕さま、長年、お世話になりました、私も年を取りましたので、故郷へ帰って暮らしたいです」
そして、〔天皇〕は、〔老女〕に世話役を伴わせ、家臣の馬車で、故郷まで送らせたのでした。
〔老女〕が故郷へ立つ朝、〔天皇〕は、歌を詠み見送った。 「・・・・会えなくなってしまうのだなあ・・・・・淋しくなるなあ」。と、
いう天皇の感慨深い気持ちが込められています。 少年時代に、キビシイ他人の飯を食べた天皇だから、人を大切にする人でしたが、その反面、
徹底的に攻撃する冷酷な面も持っておりました。)


《猪飼
(いかい)へ報復》
〔顕宗天皇〕は、以前、兄と二人で〔オオハツセ
:雄略天皇〕の追手から逃げている途中で、食べ物を奪っていった、猪飼の老人を探しだして、
切り捨てました。  また、その一族全員の、膝の筋を切り断つ、罰を与えました。 さらに、膝の筋を切り断ったその子孫たちを、ある場所
まで、強制して歩かせて連れて行きコンコンと、その時の話を聞かせて、この場所を示して説教しました。


《〔オオハツセ
:雄略天皇〕の墓》
〔顕宗天皇〕は、父を殺した〔オオハツセ
:雄略天皇〕への怨みは、ものすごく深いものでした。
猪飼の老人への報復も、徹底的に行ったが、〔オオハツセ〕への怨みをどう晴らす機会を狙っていました。
 そこで、〔オオハツセ〕の御墓を破壊して、その名誉をズタズタに毀損
(きそん)、しようと考えていました。
今回は、兄〔オケノ王
:意富祁〕が、自らその役目をかって出ました。 ところが、兄・〔オケノ王〕は、〔オオハツセ〕の御墓の傍らの土を、
少しだけ掘って 宮へ還り。「御墓を打ち壊してきました」と、報告しました。
しかし、あまりにも早く兄が帰って来たので、本当に壊したのかどうか〔天皇〕は問いました。
「あまりにも早く帰られたので、兄者に聞きますが、どこまで取り壊したのですか?」 兄が答える、「墓の傍らの土を、少し堀りました」
〔天皇〕は、眉間にしわをよせて、兄に言いました。「兄者、父王の仇の墓ですぞ、その墓をことごとく破壊すべきです、なぜ、少し掘った
だけですか?」。兄が答えます。「父王の怨みを晴らすため、その霊に復讐しようと思う気持ちは、私も同じです。 しかし、その墓に眠る
父の怨敵・〔オオハツセ〕は、〔第21代 雄略天皇〕なのです。
 今、たんに、父王の仇打ちのみ執着して、天下人の〔天皇〕の御墓を、ぶち壊したとなれば、世間では、 今の〔天皇〕である、あなたの
ことを、心の狭い天皇というでしょう。 きっと、後世にまで、あなたのことを非難するに違いありません。
しかし、父王の仇打ちをしなければ、我々は、子として失格です。ですから、墓の土を少し掘ったのです。
このことで、すでに恥辱を与えたことになります。 これで、後世の人に、報復の志を十分に示すことが出来た、と思うのであります」 
この兄の言葉に、〔天皇〕は、「なるほど、これは大きな理
(ことわり)である。さすが兄者、これでこの件は終わりにしよう」

崩御 :〔顕宗天皇〕は、38歳にて崩御されました。 在位期間は八年間でした。 
御墓 : 片岡
(奈良県香芝市)の石坏の岡(いわつきのおか)にある。

【これ以降、10人の天皇、(第24代〜第33代まで)、に関しては、古事記に、簡単な記述があるのみです】

 

【第24代 仁賢(にんけん)天皇】 父は、市辺之忍歯王(履中天皇の御子)  母は、“記”には、記載なし?
                   
【登場人物は、相関図参照】             “紀”では、(はえひめ:豪族葛城氏一族) 
 〔顕宗天皇〕が崩御の後は、兄・〔オケノ王
:意富祁〕が、〔第24代 仁賢天皇〕に即位した。
〔天皇〕は、石上
(いそのかみ)の広高(ひろたか)の宮(奈良県天理市)にて、天下を治められた。
〔天皇〕の〔大妃〕は、父の仇、〔雄略天皇〕の皇女・〔春日の大郎女・
おおいらつめ〕で、御子の〔小長谷の若雀の命おはつせのわかさざきのみこと〕が、
〔第25代 武烈天皇・
ぶれつてんのう〕に即位した。 
ほかには、〔若子の郎女・
いらつめ〕を娶った。 生まれた御子は、合わせて 7柱です。  

 尚、この〔仁賢天皇〕の崩御年齢、在位年数、御墓の所在場所等については、記述はありません。

 

【第25代 武烈(ぶれつ)天皇】  父は、仁賢天皇   母は、春日の大郎女
                   
【登場人物は、相関図参照
 〔武烈天皇
:小長谷の若雀の命〕は、長谷の並木の宮(はつせのなみきのみや:桜井市)にて、天下を治めた。
〔天皇〕には、日継ぎの御子が、おりませんでした。

 御墓 : 〔武烈天皇〕の御墓は、片岡
(奈良県香芝市)の石坏の岡(いわつきのおか)で、〔第23代 顕宗天皇陵〕と同じ地。
     (顕宗陵を、南陵・
なんりょう・、武烈陵を、北陵・ほくりょう・と呼ぶ)

 (☆ 〔仁徳天皇〕からの皇統・
こうとう・が、〔武烈天皇〕で、切れてしまいました。)

*[日本書紀]の編纂を命じた、天武天皇の祖である継体天皇の即位を正当化する意図があり、
  武烈天皇を非常に悪劣なる天皇として描き。暴君に仕立てたとする説が一般的である。
  ([古事記]には、武烈天皇の暴君としての記述はない)
  
 [日本書紀]は、武烈天皇の異常な行為を記している。 その部分を以下に列挙する。
  ・ 孕婦
(はらめ)の腹を割きて其の胎(たい)を観す。
  ・ 人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
  ・ 人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
  ・ 人を塘(
とう:筒)の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
  ・ 人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
  ・ 女をひたはだかにして平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝(
つるみ:交尾)せしむ。
  ・ 女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

 

【第26代 継体(けいたい)天皇】 父は、応神天皇の四世の孫、   母は、振媛(出自不明)
                   
【登場人物は、相関図参照
 〔武烈天皇〕に、御子が、いないため。 そこで、〔応神天皇〕の五世の孫、〔ヲホドノ命
:袁本杼の命〕を、近江の国から呼んで、
〔武烈天皇〕の姉・〔タシラカノミコト:手白髪命〕と、婚姻させた。そして、この〔ヲホド〕が、20年後に、〔第26代 継体天皇〕に即位した。
〔継体天皇〕は、伊波礼
(いわれ)の玉穂の宮に坐して、天下を治められた。
〔天皇〕と〔皇后:タシラカノミコト〕の間には、生まれた御子は一柱。
           その御子・〔天国押波流岐広庭の命・
あめくにおしはるきひろにわのみこと〕が、〔第29代 欽明天皇〕に即位した。
     〔目子の郎女・
めのこのいらつめ〕を娶って 生まれた二柱の御子の、
          〔広国押建金日・
ひろくにおしたけかなひ・の命〕は、〔第27代 安閑天皇〕に即位した。
          〔建小広国押楯・
たけおひろくにおしたて・の命〕は、〔第28代 宣化天皇〕に即位した。
 御子は、合わせて19柱の御子がいます。
   
崩御 : 御年43歳で、崩御されました。 在位期間は、24年間。
御陵墓 : 三島の藍の陵・
みしまのあいのみさざき・(大阪府茨木市太田の茶臼山古墳)。

 

◆ 【以後の天皇】
 第26代〜第33代 も、宮の名前・后の名前・御子の名前・崩御年齢・御陵墓の場所 が記載されているだけ。
 第33代 推古天皇は、小治田の宮に住んで天下を三十七年間治めた。御陵は初め大野の岡の上にあったが、後に科長の大陵に遷した。
  
 
ここで 「古事記」は、パタッと終わっています。 (「終」・「完」も無く)ー記述はこれのみー

 * 聖徳太子の摂政
(せっしょう)について古事記には、一行も書かれてありません。
  [第31代 用命天皇の段に厩戸皇子(
うまやどのおうじ:聖徳太子)を生んだとのみ記載]


◆ 天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代を記す。
   [古墳時代]
       第26代 継体天皇(507?〜531?)・第27代 安閑天皇(531?〜535?)・第28代 宣化天皇(535?〜539?)・
       第29代 欽明天皇(539?〜571?)・第30代 敏達天皇(571?〜587?)・第31代 用命天皇(585?〜587?)・
       第32代 崇峻天皇(587?〜592?)
   [飛鳥時代]
       第33代 推古天皇(592?〜628?)
 
 
   
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