【古事記ー要約】 〈池田 成臣〉 [上巻]は、神代の神話的な物語の世界でした。 [中巻]は、人代の物語で歴代の天皇(初代 神武天皇〜15代 応神天皇)の天下を治めた宮の地名・后の名前・御子の名前で始まり、 具体的な実績と出来事が記載されていますが、ほとんど 実在性の薄い天皇の物語です。 これらは、力のある氏族の歴史の物語を神話的に、 まとめて 綴った古書と思えます。 しかし 朝鮮半島との関わりは、弥生時代から 間違いなくあったと思います。 【*記号 または( )内の注釈は、個人解釈です。(“紀”:日本書紀と対比して記述しています)】 古事記【中巻 なかつまき】 目次:神武東征 (初代 神武天皇) :欠史 八代天皇 :第10代 崇神(すじん) 天皇 :第11代 垂任(すいにん) 天皇 :第12代 景行(けいこう) 天皇(日本建命) :第13代 成務(せいむ) 天皇 :第14代 仲哀(ちゅうあい)天皇(神功皇后) :第15代 応神(おうじん) 天皇 : 【神武東征】 (初代 神武天皇:“紀”:即位:紀元前660年2月11日 ) *初代 神武天皇[神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコ ノミコト)] を、以後 [イワレヒコ] と呼ぶ 。 『日本書紀:神日本磐余彦尊・彦火火出見(ひこほほでみ)』 * 「記・紀」において「やまと」の文字を 「倭・日本」と使い分けている。 * [イワレヒコ]は、[山幸彦]の子である、[父 鵜葺草葺不合命 〈参照:神々の系譜〉]の四男で、十五歳の時、太子となった、理由は不明。 しかし、兄達に不満は無かった。 (次男・三男は常世国と母の里の海の宮に行ってしまう) |
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◆ [イワレヒコ]が、[(長兄)五瀬命(イツセ ノミコト)]と二人、高千穗宮で相談し、「どこに住んだら、天下の 政が出来るだろうか、 やはりもっと東に住んだ方がいいだろう」と、日向(ひむか:場所不明)から 筑紫へ向かう。 (“紀”:ニニギノミコトが天孫降臨してから、1,792,470年 経ったが、東方に豊かな国があると聞き、一族を 率いて、日向の吾田を出立する。速吸之門〈はやすいのと:流れの速い海峡の意:豊予海峡?〉に来た時、一人の漁師が 小舟で近づいて来た・・・・・ここから船出する) ◆ 途中、豊国(とよくに)の宇沙(大分県宇佐市)で、その土地の宇沙都比古(ウサツヒコ)が、足一謄宮(アシヒトツアガリノミヤ)を 造り、[イワレヒコ]一行を、もてなす。 |
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◆筑紫に移って、岡田宮(北九州市遠賀川河口)に、一年滞在した。 (“紀”:筑紫国の岡水門〈おかのみなと:遠賀川の河口付近の港 〉に寄り道した。しかし、その地域は交易や稲作が盛んな先進地であったため、 田舎者である天皇の一族はまったく歓迎されなかった。 → すぐに出発した。) ◆ 安芸国(広島県)へ移って、多祁理宮(タケリノミヤ)に、七年滞在した。 (“紀”:安藝国に進んだ。誰も歓待してくれなかったので、勝手に家を造って〈三ヶ月〉滞在した。) ◆ 吉備(岡山県)へ移って、高島宮に、八年滞在した。 (“紀”:吉備国の高嶋に家を造り、三年間をすごした〈武器・船舶調達〉) ◆ 速吸門(はやすいのと:吉備国の児島)で、亀に乗って釣りをしている、国津神(槁根津彦:サオネツヒコ)と出会う、海の道に詳しいことを知り、 服属させる。 ◆ やがて浪速(なみはや:摂津)の海を経て白肩津(しらかたのつ:河内国)の浜に着く。 この時に登美(とみ:奈良市)の長髄彦(ナガスネビコ)が軍勢を 率いて、[イワレヒコ]一行に戦いを挑んできて[イワレヒコ]の軍勢は負けてしまう。 (この戦いで兄「イツセ」は矢傷を負う) 「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない、廻り込んで日を背 にして(西を向いて)戦おう」と言って。それで南の方へ回り込んで行く。(大阪湾を南下‥‥) (“紀”:難波碕から川を上り、白肩之津〈しらかたのつ〉の港に着き、一族郎党を引き連れ、徒歩で胆駒山〈生駒山〉を越える時、長髄彦に阻まれ、 兄の五瀬命が流れ矢にあたってしまった、「我ら一族には日神の子孫という神話があるのに、日に向って進んだのがいけなかった」と言い ながら逃げ出す。) ◆ 紀伊の雄水門へと上陸し、竈山(そうざん)へと進軍した。(ここで、重傷の兄「イツセ」は息を引き取ったという) (“紀”:雄水門〈おのみなと:大阪府南部の沿岸部〉に避難する。名草邑〈なくさのむら:和歌山市周辺〉に着き、名草の女族長を殺した。 なにがあったかは書かれていないが、その地に移住しようとして揉めたのであろう。一団は追い出されたか逃げ出したか、 とにか狭野〈新宮市の地〉を越えて熊野の神邑〈みわのむら〉に進んだ。 ◆[イワレヒコ]一行が熊野についた時に、大きな熊(熊野の山の荒ぶる神の化身)が、現れすぐに姿を消した。 すると、[イワレヒコ]と、 その軍勢は、毒気に当てられて気を失ってしまった。 「天照大御神」は「武甕槌神〈イザナミが迦具土神の首を切り血から生まれた神:参照 神々の系譜〉」に命じ、援軍に「一横刀を国津神(高倉下)の 屋根に降下させ、国津神は倒れている[イワレヒコ]に、 その「横刀」を渡す、そうすると[イワレヒコ]は正気を取り戻し、軍勢も皆起上がった。 同時に大熊軍は、 自然と みな切り倒されてしまった。 (“紀”:熊野の荒坂津〈所在不詳〉に着いたが、そこでまた揉めごとがあり、丹敷(にしき)の女族長を殺してしまった。 その時、神が毒の 息を吐いて、人々が病に倒れてしまい、先に進むことができなくなった。 これを熊野の高倉下〈タカクラジ〉が、師霊〈ふつのみたま〉という剣 の力で治した。そして、頭の大きな八咫烏〈やたからす:大きなカラス〉の導きで進軍する。 |
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◆ 先に進むと、高御産巣日神(高木神:参照 神々の系譜)が現れ「天津神の御子よ、この先は荒ぶる神が沢山いて 大変危険なので、今、天から八咫烏(ヤタ カラス:サッカー協会のシンボルマークの三本足の烏)を遣わし先導させる ので、その後に続いて進むように」と、お告げをされた。 その後、一行は山中を踏み分けて宇陀(うだ:奈良県宇陀郡)へと出た。 |
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◆ 宇陀には、兄の宇迦斯(エウカシ) ・ 弟の宇迦斯(オトウカシ)と言う兄弟が、治める地であった。 まず 八咫烏を遣わして、[イワレヒコ]に仕えるかどうか尋ねさせたが、兄の「エウカシ」は、鳴鏑(なり かぶら)を射て八咫烏を追い返したが、 「エウカシ」は、迎え撃つ軍勢が集まらなかったので。そこで[イワレヒコ]に仕えると偽って罠を仕掛けたが、弟の「オトウカシ」は、 [イワレヒコ]に、このことを知らせた。そこで[イワレヒコ]は、逆に「エウカシ」を、自分が仕掛けた罠に かかるようにしてしまう。 ◆ 宇陀から更に進んで、忍坂(奈良県桜井市)に、土雲(蜘蛛の借字)という、猛者達が待ち構えていたが、油断させて全滅させる。 ◆ 再び、登美(とみ:奈良市)の長髄彦(ナガスネビコ )を攻める。長髄彦は「我らは天より降りた天津神の御子 饒速日命(ニギハヤヒ:ニニギの兄 :物部氏の祖)に仕えてきた。あなたは、天津神を名乗り、土地を取ろうとされているのか?」と問うた、ところ、[イワレヒコ]は、 「あなたの君が、天津神の子であるなら、それを証明してみよ」と返す。 長髄彦は、証拠の品を見せる。[イワレヒコ]も同じものを見せた。長髄彦は、それでも戦いを止めなかった。饒速日命が現れ、 「天津神と人は違う」のだと、 長髄彦を諌めたが 長髄彦の性格が、 ひねくれたため 饒速日命は長髄彦を殺し、[イワレヒコ]に帰順して 忠誠を誓った。 (“紀”:長髄彦(ナガスネビコ)は、「昔、天磐船(あまのいはふね)で天降って来た、饒速日(ニギハヤヒ)命とは協力し合い、うまくやっている。 天皇は同じような天神の子孫という証拠をみせるが長髄彦は信用せず争いになり、饒速日命は長髄彦を殺してしまった。 そして天皇一族の移住を受け入れ、お互いに協調を約束したのである。これが物部氏の遠い祖先である。) ◆ このようにして、荒ぶる神々たちを服従させ、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや:橿原の宮)で、大物主(大国主の分身)の娘の 媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃として、初代の神武天皇に即位した。 * 後に、三人の御子(日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳)が生まれる。 神武天皇が東征する前、日向にいた時に阿比良比賣を妻として生んだ子が、多藝志美美命(タギシミミ)。多藝志美美命は、神武天皇が死ぬと 后の媛蹈鞴五十鈴媛命を犯し、御子たちを殺してしまおうと企む。 (日本書紀では、皇后を犯すことは、おそれ多いことでしょうか、記載されていません) 御子の兄達は恐れおののき、末っ子が、勇敢に戦い‥‥征伐し、末っ子が、二代の天皇になる。 * 古事記は、ニニギ・山幸彦・神武天皇・二代天皇など、末っ子が、なぜか後継者になるのが多い。‥‥‥‥ 【神武東征ルートMap】 【欠史 八代天皇】 * 第2代 綏靖(すいぜい)天皇から→安寧(あんねい)→懿徳(いとく)→孝昭(こうしょう)→孝安(こうあん)→孝霊(こうれい)→孝元(こうげん)→ 第9代 開化(かいか)天皇までは、系譜や宮名のみが記され、(誰々の子を娶り・何歳で崩御し・廟は何処・等) 具体的な事績の記載は、 ほとんど見えない。 * そのため、多くの歴史学者は、これを「欠史八代」と呼んで架空の存在と考えている。 【第10代 崇神(すじん)天皇】 * 父は、開化天皇。 母は、饒速日 |
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天皇は三輪山の西南麓(桜井市)の宮で天下を治めていた。御子たちは併せて十二柱。 あるとき、疫病が大流行し人々が苦しんだため、天皇は神の床(神意をうかがうための寝床)に寝ていた夜、 大物主大神が夢現れ、「これは私の仕業によるもの、もし オホタタネコに私を祀せたら、 祟りは 収まるだろう」と言った。そこで、オホタタネコを探がして、 朝廷に連れてこさせた。 天皇は「お前は誰の子か」と訊ねた。すると「私は大物主の娘の子孫です」と答えたので、 天皇は神の子孫だと聞いてたいへん喜び、オホタタネコを神主として、三輪山の大物主の御霊を祭祀させ、 疫病の流行は収まり国は平安になった。 * 大物主大神=[大国主の国作り]で、大国主の手助けをして「三輪山」に祀られるようになった神。 |
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天皇は、オホタタネコが神の子孫と判ったのは、次の経緯があったからだ。 [ある 容姿の美しい姫のもとに、夜な夜な訪ねて来る男がいた。その内、彼女は身ごもったので両親が問いただすと、 姫は、ありのままを話します。 そこで、両親は男の素性を探ろうと、「お前の寝床の周りに赤土を敷き、糸巻きの麻糸に針を通して置き、男が来たら着物の裾に、 その針を刺して置きなさい」‥‥‥‥教えられた通りにして。 朝になって確かめると、糸巻きに残っていた麻糸は三勾〔みわ:三輪の地名の縁起〕だけで。針に通した麻糸は、戸口の鍵穴から外に出ており、 その糸と赤い足跡を追って行くと大物主神を祀る山の神社へ辿り着いた。 姫のところに訪ねて来たのは 大物主と判り、生まれる子は神の子であった]。こうして、オホタタネコは、神の子孫である事が判ったのである。 * この後の記述は、高志国(越:北陸)征伐で、二人の武将が川を挟んで会い、相津(会津)などの地名縁起があり。 * また、所知初國之御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)とも記載され、初めて天皇と呼ばれている。 崩御は168 才。 * 天皇の崩御年齢に関して、当時の農耕社会では、春を1歳、秋を1歳、と数えたという、 「一年二歳説」の説がある。 * 御陵(みはか)は、 山辺道勾之岡の辺りにある(奈良県天理市:行燈山古墳らしい ?)。 纒向(まきむく)遺跡からは少しだけ北東に位置する。 * 古事記には崇神天皇を第一代の天皇と伝えており。日本書紀でも同じです。 * 3世紀 から4世紀 初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。 【第11代 垂任(すいにん)天皇】 * 父は、崇神天皇。母は、孝元天皇の孫 《天皇暗殺計画》 天皇は纒向(まきむく)の宮で天下を治めていた頃、 后の兄が后に、「夫の天皇と兄とどちらが愛(いと)しいか」と尋ねると、 「兄が愛しいです」と答えた。すると 兄は「おまえが本当に私を愛しいと思っているのならば、私とおまえとで天下を治めよう」と言って、 兄は小刀を作り、妹の后に「この染紐のついた小刀で天皇の寝ているところを刺し殺せ」と言った。 さて、天皇は謀(はかりごと)を知らずに后の膝枕で眠っていた。 そこで后は、染紐のついた小刀で、天皇の首を刺そうと三度振り上げたが、 悲しみを堪えきれず、首を刺すことができず、泣く涙が落ちて御顔に溢れた。 すると天皇はふいに起きて、后に「私は奇妙な夢を見た、 にわか雨が急に降ってきて、私の顔を濡らした。また、錦模様の小さな蛇が私の 顔に巻きついた。このような夢は何の兆しだろうか」と尋ねた。 そこで后は言い訳できないと思い、 天皇に兄の謀反に加担した事を打ち明けた、そして「首を刺そうと三度も小刀を振り上げたけれど、 悲しい思いに耐えられず刺すことができず、泣く涙が落ちて御顔を濡らしました」と、泣く泣く答えた。 すると天皇は「私はあやうく欺むかれるところだった」と言って、 軍勢を集めて兄をを討とうとすると、兄は砦を作って戦いを待っていた。 のっぴきならない事態に、后は夫をとるか・兄のもとに行くか迷い抜いたあげく、兄の砦に身を隠した。 この時、后は妊娠していた。 そこで天皇は、后が懐妊していること ・ 寵愛が三年に及ぶことを忍びなく思い、そのため、なかなか攻められず停戦をしていた。 そんな中、后は男の子を産んだ、意を決し生まれた子を抱いて砦の外に出て、 天皇に「もし ご自分の御子と思われるなら、受け取ってください」と、呼びかけた。 天皇は「兄は恨んでいるけれど、やはり后を愛しく思うことを堪えきれない」と言った。 つまり、后は天皇の優しさを知っていて、 御子と私を連れ戻そうとするだろうと、見通していたが、兄と共に果てる覚悟も決めていた。 天皇は、兵士の中から屈強で敏捷な者を選り集めて。 「御子を受け取る時、母君も掴み取れ。髪でも手でも、手当たり次第に掴んで引っ張り出せ」と告げた。 后は砦を出る時、髪をそり落とし、その髪を頭に巻き、衣服は酒で腐らせたものを着ていた。 天皇の手勢が御子を引き取る時、后にも手を出したが、髪を掴めば髪が落ちてしまい、衣服を掴めば破れてしまい、こうして御子は受け 取ったものの、后を連れ戻すことはできなかった。 ついに 砦に火がかけられた。天皇は后に「生まれた子の名は母が名付けるものだ。この子の名をなんとしょう」と言った。 すると、「今、火が砦を焼く時に生まれたので、名を〔ホムチワケノミコ〕がよいでしょう」と答えた。 また、「そなたが居ないのに、どう育てればいいのだ?」と言うと。「乳母をつけてくださいな」 また、后に、「おまえが結んだ下紐 (夫婦が互いに下紐を結び、再会の時まで解かないことを契る習慣があったらしい)は、誰が解くのか」と尋ねると。 「旦波の二人の娘が良いでしょう」と答えた。 この後、討伐軍は、兄を打ち取り、 后は砦で炎の中に身を投じて自害した。 《物言わぬ御子》 さて、その御子〔ホムチワケノミコ〕は、髪が胸元まで垂れ下がるほど成長しても、口をきかなかった。 ある時 空を鳴き渡っている白鳥に、御子は初めて片言を呟いた。 そこで 天皇は、その白鳥をそばに置けば、もっと 声を出すだろうと、 この白鳥を捕らえるように家臣に命じた。 けれども、捕らえてきた、その白鳥を見ても御子は、望み通り口をきくことはなかった。 こうして天皇が悩んで眠っていると、夢の中で、「我が宮を天皇の宮殿のように修復するならば、御子は必ず 言葉を話すだろう」。 この、お告げは、どの神だろうと占ったところ、出雲の大神と判った。 そこで 天皇は、お告げの通り出雲神社の修復をすると、御子は口がきけるようになった。 しかし この御子は、垂仁天皇の後は継げなかった。 《乳母》 天皇は、后に薦められた、旦波の二人の娘には、他に二人の姉妹がいた。 天皇は、四人姉妹全員を召し出したが、長女と次女は美人であったため、二人を宮中に留めて、三女・四女は、容姿がひどく醜かったので、 故郷の丹波に送り返してしまった。 国元に返された四女は、その途中に山城国にやって来ると。「同じ姉妹で、容姿が醜いという理由で返されたのでは、近隣への聞こえも 恥ずかしい」と、木の枝にぶら下がって死のうとする。 それでこの土地を懸木(さがりき)と名付けた。(今の相楽〈さがらか:場所不明〉である) この長女の乳母が、垂仁天皇の衣の下紐をほどいて、生まれた子が、次の第十二代 景行天皇と呼ばれた。 * 当時の習慣として乳母は赤子の養育に携わるだけでなく、側妻(そばめ)として主人に仕えたと言われます。 * 神武天皇の父は、「山幸彦」と「豊玉姫」の間に生まれますが、「豊玉姫」が、身を隠したため、妹の「玉依姫」が、乳母となり、 その父の側妻となって、神武天皇を生んだのも、この習慣か(?) 垂仁天皇は153才で崩御。 御陵は 、唐招提寺の西北で:奈良市尼ヶ辻町(尼ヶ辻宝来山古墳〈全長 227mの大型の前方後円墳〉) * また、その大后の墓の時に、石祝作(いはきつくり)を定め、また、土師部(はにしべ)を定めた。 石祝作=石棺や石室を作る品部(ともべ:専業集団)。(この時期に大型墳墓に関する様々な制度・集団が作られたと考えられる。) 土師部=埴輪や土器を作る品部。書紀には野見宿禰が埴輪を提案し、 殉死が廃止されたとあるが、考古学的に殉死(生き埋め)の 痕跡は見受けられず、埴輪の由来として誇張された伝承と考えられている。 【第12代 景行(けいこう)天皇】 * 父は、 垂仁天皇、母は、開化天皇の孫 合わせて十人ほど妻がいて、八十人以上の御子がいた。(記述は少ない) (倭建命=日本武尊(やまとたける の みこと)は、景行天皇の第3皇子で、母は、十人の妻の一人で吉備津彦の娘。 *吉備津彦→→→→→娘〔播磨稲日大郎姫 はりまのいなびのおおいらつめ〕古代日本の皇族。7代 孝霊天皇の第3皇子:て西道(山陽道)に派遣 された将軍の一人です。岡山の伝説によると、鬼ノ城(きのじょう)に住んで地域を荒らした温羅(うら:渡来人)という鬼を、犬飼健(いぬかいたける) 等の3人の家来と共に倒した。 一説には、吉備津彦の家来である犬飼健を犬、他をを猿・雉と見て、この温羅伝説がお伽話「桃太郎」 になったとも言われ、岡山県ではこれをして「桃太郎発祥の地」として宣伝している。 ちなみに、吉備津彦命の家来であった犬飼健は犬養氏の始祖で、五・一五事件で暗殺された犬養毅つよし首相の祖先であると言われている。 景行天皇=137歳没。 御陵は、山邊の道付近 (天理市:向山古墳〈前方後円墳・全長300m〉に比定される) * 実在性には疑問視されている。 “記”“紀”の記事は多くが日本武尊の物語で占められる。 《乙女に目のない天皇》 〔天皇〕は、美濃国造の姫二人は、その容姿が美しいと聞き確かめて、〔天皇〕の御子〔兄:大碓:オオウス:皇位は継げず〕を遣わして、 召し上げることにした。 しかし、遣わされた〔兄:オオウス〕は、召し上げずに、かってに その二人の姫と結婚し、 さらに 他に女人を 探して、その姫の名を偽って献上した。 すると〔天皇〕は、それが 他の女であることを知って、常に眺めているばかりで悩んでいた。 《クマソ征伐命令》 |
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〔天皇〕は御子〔弟:小碓ヲウス命:後の倭建命 やまとたけるのみこと)を以後記述する〕に、 どうして おまえの〔兄:オオウス〕は、朝夕の食膳に出て来ないのか。 おまえが言い聞かせて、教え諭さとしなさい」と言った。 このように言ってから、五日が経っても、なお参上しなかった。 そこで、〔天皇〕が〔倭建命〕に、 「どうしておまえの兄は、久しく参上しないのか。 もしや まだ教えていないのか」と尋ねると、 「すでに言い聞かせました」 と答えた。 また、「どのようにして言い聞かせたのか」と聴くと、「明け方に厠かはやに入った時に、待ち捕え て掴みねじりその手足を引っ張り、袋に包んで投げ捨てました」と答えた。 (殺したようだ ?) そこで〔天皇〕は、〔倭建命〕の猛々しく荒い性格を恐れて、 「西の方に〔熊曾建 クマソタケル:熊曾=地名:建=猛々しい人〕の兄弟がいる。 |
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これは 朝廷に従わない無禮な者どもである。 そこで、その者どもを討て」と、言って遣わした。 この時はまだ、その髪を額上で結っていた(まだ成人していない事)。 すると〔倭建命〕は、〔叔母(倭姫ヤマトヒメ命:景行天皇の 同母妹。伊勢神宮を祭祀したと、あった)〕の衣装を貰い、剣を懐に収めて出かけた。 【注釈:私の解釈】 * 建(たける)=古事記には「建・武」が付く名前が出てきますが、これは 武人と呼ばれる人です。 例えば、「建速須佐之男命(たけはや すさのおの みこと)」 や「大国主の国譲り」で、大国主の目の前に剣を逆さまに突き刺して 直談判した「武甕槌神(たけみかずちのかみ):諏訪神社の祭神」等がいる。 * 倭(やまと)の呼び名=日本の国を、魏志倭人伝で「倭 わ」と呼び、卑弥呼の都を「邪馬壹国 やまいこく」と書かれているが、後漢書では 「邪馬臺国 やまたいこく」と書かれ、卑弥呼の宗女を「臺輿 とよ」と発音していて、「臺 たい」を「と」とも発音することを知り、 「邪馬臺 やまたい」を「やまと」と呼び、中国が付けた「倭 わ」を嫌って、我が国を「倭」と書いて「やまと」読んだのでは(?)。 その後、「大」を付けて、「大倭 やまと」と呼び、中国が付けた、「倭 わ」を「和 わ」に変えて「大和 やまと」。 * 日本(やまと)は、大化の改新頃(645)中国より先に、日が出(い)ずる国として、日の本と書き、日本(やまと)と呼ぶ。 日本書紀に「日本、此云耶麻騰。下皆效此」。 (日本、これヤマトと言う。下は皆これにならえ)。 日本(にほん:にっぽん)と発音するのは、奈良時代になってから。 古事記は、〔倭(やまと)〕の文字を使い。 日本書紀は、〔日本(やまと)〕と、使い分けている。 《女装する〔倭建命〕》 そして、〔熊曾建(クマソ タケル)〕の領地にやって来ると、その家の周りを兵士が三重に囲んで守っていた。そして新築の宴をしようと騒ぎ、 料理を準備していた。 そこで、〔倭建命〕は、その辺りを ぶらつきながら、その宴の日を待った。 そして、その宴の日になると、童女(をとめ)の髪のように、その結っている髪を梳(す)き垂らし、 叔母の衣装を着て、すっかり童女姿と なり、女人(をみな)の中に交じって立ち、その家屋に入った。 そこで〔熊曾建〕の兄弟二人は、その〔倭建命〕の化けた嬢子(をとめ)を気に入って、自分たちの間に座らせて宴を楽しんだ。 そして、宴も酣(たけなわ)となった時、〔倭建命〕は懐から剣を出し、〔熊曾の兄〕の衣の襟を掴み 剣をその胸に刺し貫くと、〔熊曾の弟〕は、 これを見て、恐れて逃げ出した。 すぐに追いかけ、その家屋の階段の下で追いつくと、 その背中を掴み 剣を尻から刺し貫いた。 すると その〔弟〕は、「その刀を動かさないで下さい。僕(あ)は申し上げたいことがあります」と申し上げた。 そこで、しばし許して押し伏せておいた。 そして、「あなた様はどなたですか」と聞いたので、「私は、天皇の皇子で、お前たちが朝廷に 服従しないので、征伐するために来た」。 すると、その〔熊曾の弟〕は、「まさに そうです、 西の方には我々二人を除いて、猛々しく強い者はいません。しかし、大倭国(古事記に、 大倭 ヤマト:の文字が初めて出て来る)には、 我々二人に まさって猛々しい男がおられました。 そこで、御名(みな)を献上します。これより後は 〔倭建(ヤマタケル)〕と称(たた)えましょう」と申し上げた。 このことを申し終えたので、すぐに熟した瓜のように断ち切って殺した。そこで、その時より御名(みな)を称(たた)えて【倭建命】と言う。 《騙し討ち》 西の〔熊曾建〕を討ち取って、大和に帰る途中、山の神・川の神などを平定する(地方の豪族などを征伐)。 そして、出雲国に入ったとき、その首長(おさ)である〔出雲建(イヅモタケル)〕を征伐しょうと思って、やって来てすぐに友情を結んだ。 そして 密かに偽の太刀を、イチイの木で作った、見たところ刀だが、刀身がなく、抜くことができない代物である。 ある日 〔倭建命〕は、刀身のない刀を腰に差して、親しくなった〔出雲建〕と、ともに肥の河(斐伊川)に行き。 水浴びをした 〔倭建〕は、川から先に上がり〔出雲建〕の太刀を取って腰に差すと。 にっこり笑って、「刀を交換しよう」と言った。 そこで、〔出雲建〕は川からがって、〔倭建命〕の偽の刀を腰に差した。 それを見て〔倭建命〕は、「いざ、刀を合わせよう」と挑み。 それぞれ その刀を抜くと、〔出雲建〕は、その偽の刀を抜くことが できなかった。 そこで〔倭建命〕は、刀を抜いて、〔出雲建〕を打ち殺した。 こうして、出雲国を平定して、大和に帰り〔景行天皇〕に報告した。 《ヤマトタケルの東国遠征》 〔天皇〕は、また再び〔倭建命〕に、「東方十二道(ひむかしの かた とをあまり ふたみち:東海道のこと)の荒ぶる神、及び 従わない者ども を説得し平定せよ」と言って、吉備臣の祖である〔吉備津彦〕を、供として与え、柊の長い矛を授ける。 出立にあたり伊勢神宮に参拝した。 ここには、〔熊曾建〕を討つさい女装する衣装をもらった〔叔母:倭姫命〕がいる。 その〔叔母〕に、「〔天皇〕は、私等死ねばよいとでも思っているのでしょうか、 どうして 西の征伐から戻って来たばかりなのに、 軍勢も与えてくれず、 今度は東の征伐を命じられた。これを思うに、やはり私等死ねばよいとでも思われているのでしょう」と申し上げ。 悲しみ泣いて出立しようとすると。〔叔母〕は、〔倭建命〕に草那藝剣(くさなぎのつるぎ:スサノオが八岐大蛇から得た剣:熱田神宮に奉納されとぃた) を授け、また 御袋を授けて、「もし危急な事があれば、この袋の口を解きなさい」と言った。 《野火攻め》 |
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さて、尾張国にやって来た〔倭建命〕は、豪族の娘〔ミヤズヒメ:熱田神宮に仕えた巫女的存在か?〕 の家に入った。すぐに結婚しようと思ったけれども、また 帰りに結婚しようと思って約束をして、 東国に向って行って。 ことごとく 山河の荒ぶる神、及び、従わない者どもを説得し平定した。 そして、相模国にやって来た時、そこの〔国造 くにのみやつこ〕が偽って、「この野の中に大きな沼が あります、この沼の中に住んでいる神は、とても荒々しい勢いを振るう神です」 と申し上げた。 そういうわけで、その神を見に行こうと、その野の中に入った。 |
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すると、その〔国造〕は、その野に火をつけた。 そこで、欺かれたことを知って〔叔母〕から授かった袋の口を解いて開けて見れば、その中 に火打石があった。 そこで まず、剣で草を刈り払い、その火打石で 向かい火をつけて、火勢を弱めて野原から脱出し、その〔国造〕どもを皆斬り滅ぼして、 火をつけて焼いた。そこで今、焼遣(やきず:焼津 やいず)と言うのである。 また この草を薙ぎ払った剣だから、草薙の剣=草那藝剣(くさなぎのつるぎ)という。 次頁へ、ここクリックして下さい (使用ソフトが、文字サイズを多用すると1頁の容量がオーバーするので頁を増やしました悪しからず) |
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