《オトタチバナヒメの入水》
 相模国から 行き進んで走水海(
はしりみづのうみ:浦賀水道)を渡った時、その海峡の神が荒波を起こして船を巻き込み、進み渡ることができなかった。 
すると、〔后
(きさき):オトタチバナヒメ:古事記では、誰の娘か記載なし、いきなり后として同行〕が、「私が御子〔倭建〕の身代わりになって、
海の中に入りましょう。御子は遣わされた任務を成し遂げ、ご報告なさいませ」と申し上げ、
(荒れ狂う海を鎮めるのは、生け贄が一番だと信じられている)
海に入ろうとして、八枚重ねの菅畳等を荒れた波に敷き、そこに降りた=入水である。

 そして七日後に、その〔后〕の櫛が海辺に流れ着いた。その櫛を取って、御陵(みはか)を作って納め置いた。
そこから行き進んで、ことごとく 荒ぶる蝦夷
(えみし)どもを 説得し。

* 蝦夷
(えみし)=関東以北、東北地方等に居住して大和朝廷に従わなかった勢力。 アイヌ人とする説もあるが、本州の縄文系の非農耕集団と
        考えられる。後に「エビス」「エゾ」と変化した。

 また、山河の荒ぶる神々を平定して帰り上ろうと進んだ時、足柄之坂の下にやって来て、御粮(
みかれひ:米飯を乾燥させた携帯食)を食べていた
ところに、その坂の神が、白い鹿の姿となって現れた。
そこで、その食べ残した蒜(
ひる:ユリ科の多年草で、食用・薬用とした、ニンニクに似た強い臭気から邪気を祓う呪力があるとされた)の欠片を、 待ち受け
て投げつけ、その目に当てて撃ち殺した。(殺すつもりではなかったが‥‥‥‥不吉な前兆を思わせる出来事であった)
 それから、その坂に登り立ち、三度歎
(なげ)いて、「阿豆麻波夜(あづまはや「アヅマ」は「吾あが妻つま」で、私の妻の意。「ハヤ」は詠嘆えいたんを
表す語
)と言った。 そこで、その国を名付けて阿豆麻(あづま=東)と言うのである。


《ミヤズヒメと再会》
 東国を平定して〔倭建命〕は、その地より→甲斐国→信濃国→美濃国などの神を説得して→尾張国に向かった。
尾張国には、先の日に再会を約束していた、豪族の〔娘(ミヤズヒメ)〕の所に入った。 〔ミヤズヒメ〕は、食膳を用意して、側近くに寄って
酒杯を差し出した。この時、〔ミヤズヒメ〕の、あでやかな衣装に目をやった〔倭建命〕は、打ちかけの裾に、月経(
つきのさはり:月経の血)が
滲んでいた。
〔倭建命〕は、どのように知らせるべきか‥‥‥すかさず、歌を詠んだ。
「前文は省略‥‥‥か弱く細いしなやかな腕を、手枕にしたいと私は思うけれど、ともに寝たいと私は思うけれど、あなたが着ている上着の裾に、
 月が出てしまった。」  これを聞いて〔ミヤズヒメ〕も、歌で返答した。
「我が大君よ。年が来て過ぎれば、月も来て過ぎてゆきます。まさに、まさに。あなたを待ちきれなくて、私の着ている上着の裾に、月が出てし
 まいました。」→→→(こうして二人は寝床に入り合体。)
こうして 結婚して、その御刀の草那藝剣を、その〔ミヤズヒメ〕の所に置いて、伊吹山
(岐阜・滋賀の県境)の神を討ちに出かけた。


《白鳥と化すヤマトタケル》
 そういうわけで(剣を置いて来た)「この山の神は、素手で直に討ち取ろう」と言って、その山に登った時、白い猪と山の麓で出くわした。
その大きさが牛のようであったため。
言挙(
ことあげ:大声で言葉に出して言い立てること。神に対する言挙は禁忌〈タブー〉である。)して、「この白い猪に化けているのは、その神の使者であろう。
今殺さずとも、帰る時に殺そう」 と言ってから登った。
 すると、激しい雹
(ひょう)が降って、〔倭建命〕の身体を強く打って気を失わせた。この白い猪に化けていたのは、その神の使者ではなく、
その神自身であった。言挙したことによって気を失わされたのである。(罰が当った)

 そこで、帰り下って、休んでいた時、意識が少しずつ覚めていったが、身体は思うように動かなかった。
その地より少しだけ進んだが、とても疲れたので、杖をついてゆっくりと歩いた。 それでそこを『杖衝坂』と言う。
さらに進んで、また「私の足は、三つ重ねの勾り餅
(まがりもち)のように、すっかり疲れはててしまった」と言った。それでそこを『三重』と言う。
 そこより進んで能煩野(のぼの:鈴鹿市あたり)に辿り着く。 ここは、大和に近い、故郷はすぐ目の前である。
そこで〔倭建命〕は、力尽きて亡くなられた。(30歳で崩じた)

 その地に、〔倭建命〕の御陵
(みはか)を作った、すると、八尋白智鳥(やひろのしろちどり:大きな白鳥)の姿になって、天を翔(か)けて行き、
河内国に留まった。
そこで、その地に御陵を作って鎮座させた。そこで、その御陵に名付けて白鳥御陵と言うのである。
しかしながら、またその地よりさらに天に翔けて飛んで行った。

〔倭建命〕の御陵で、后たちは3首の歌を詠った。(これらの歌は〈大御葬歌:天皇の葬儀に歌われる歌〉となり、昭和天皇の時も詠われた)

* ヤマトタケルは、複数の武将をモデルに創造された人物とする説
 ・ 武内宿禰(
たけのうちのすくね:8代 孝元天皇の皇孫 :景行〜仁徳天皇と 5代に仕えた :300歳になる:数人の人物か ?)
       =景行天皇の時に北陸・東国を視察して、蝦夷の征討を進言した。 また 神功皇后の朝鮮出兵を決定づけ、忍熊皇子らの反乱
        鎮圧にも功があった。
 ・ 来目皇子(
くめのおうじ:聖徳太子の弟)=九州征伐の皇族将軍。 出征先で病死(防府市桑山に 殯〈もがり:仮埋葬〉する)

* 宿禰=姓
(かばね)の一つ。 
     八色の姓
(やくさのかばね)=天武天皇が684年に新たに制定した姓で、「真人(まひと)、 朝臣(あそみ・あそん)、 宿禰(すくね)、 忌寸(いみき)
                道師
(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つの姓の制度のこと。
 


【第13代 成務(せいむ)天皇】  父は、景行天皇。母は、崇神天皇の娘

* この〔天皇〕の記事は記紀ともに微少であり、史実性には疑いが持たれている。 
 近江国の志賀高穴穂宮(大津市)において天下を治めた、御子は一人
(皇位は継いでいない)
〔武内宿禰(
タケノウチスクネ:日本書紀に記載=古事記は、建内宿禰タケシウチノスクネ)〕を 大臣(おおおみ)と定めた。

大小の国々の国造(くにのみやつこ)を定めた。 国々の境界、及び大小の県主(あがたぬし)を定めた。
〔天皇〕の御年は九十五歳でに亡くなられた。 御陵は沙紀之多他那美(比定地は奈良県山稜町)にある。
(この天皇の段は、古事記に 以上の七行のみ)
 

【第14代 仲哀(ちゅうあい)天皇】  父は、日本武尊(やまとたけるのみこと:日本書紀の名前)。 母は、崇神天皇の娘

 天皇は、穴門之豊浦宮(
あなとのとよらのみや:下関市長府 忌宮神社)及び 筑紫訶志比宮(つくしのかしひのみや:福岡市香椎宮)に、住んで天下を治めた。
この天皇が大江王の娘、大中津比賣命を妻として生んだ子は、香坂王と忍熊王。
また 皇后(息長帯比賣
オキナガタラシヒメ命=神功皇后)が、生んだ御子(兄の品夜和気命と大鞆和氣命)は、二柱。
〔大鞆和氣命:応神天皇〕は、生まれた時、鞆(
とも:弓を射る時、左の肘に装着する武具)の、ような形の肉塊が、腕にあったから 名付けた。
つまり、胎内に、いながら国を治めていたことが、判るのである。

* 仲哀天皇の崩御:52歳。御陵:岡ミサンザイ古墳(
大阪府藤井寺市:前方後円墳)に比定される。
* 実在性には疑いが持たれる。
* 日本書紀によれば、仲哀天皇は、44歳で即位して、8年後に崩御しているが、古事記では、その間の記載なし。
* 紀の年表逆算では、父 日本武尊の没後、36年後に生誕 :矛盾がある。


《神功皇后の神がかり》

 〔皇后〕は、そのころ 神の依り代(しろ:神の代わりをする:神懸かみがかり)になっていた。
〔仲哀天皇〕は、筑紫の訶志比宮に滞在して、熊襲
(くまそ)を討とうと思ったとき、神託(しんたく:自ら
の体に神霊を乗り移らせて、神の言葉を求める、神懸りのこと
)のために、琴を弾いた。
(琴は、神を呼んで熊襲討伐についての神意をうかがうため、その道具である)
〔武内宿禰〕の大臣は沙庭(
さにわ:神を降ろして、その教えを請う場所)にいて、神の言葉(神託)を聞こう
としていた。
〔天皇〕が琴を弾き出すと、突然〔皇后〕が、神がかりになり、神のお告げをした。
「西の方に国がある。金銀を はじめとして目の輝くような種々の珍宝が、その国に多くある。
 私が今から、その国を帰属させよう」との神託であった。

 しかし 〔天皇〕は、「高い所に登って西の方を見ても、国土は見えず、ただ大海があるだけだ」と答え、
「偽りの神」だと思って、琴を弾かず、ただ黙っていた。 

 すると、〔その神〕は大いに怒り、「全て この天下は、おまえが治める国ではない、
おまえは一道〔
ひとみち:人が行き着く唯一の道の意で、黄泉国よみのくに(死者の世界)を指す〕に向かえ」と告げた。
それを聞いた〔武内宿禰〕は、「おそれ多いことです、わが〔天皇〕様よ、琴を お弾きなさいませ」と、訴えた。
〔天皇〕は、
(西には、行きたくないと思っていた)しぶしぶ 琴を弾き始めた、けれども、間もなく琴の音が、ぴたりと止まった。

〔天皇〕は、すでに亡くなっていた。(神の怒りに 触れたのです)
驚いた〔武内宿禰〕たちは、諸国から供物を集め、大祓(
おほはらへ:葬儀の儀式)を行い。再度 同じように神の神託を待った。 
するとまた、〔神功皇后〕が神がかりして、神のお告げをした。「全て この国は、〔皇后〕の御腹
(みはら)にいる御子が治める国である」
との神託であった。
 そこで〔武内宿禰〕は、「おそれながら、〔皇后〕の腹にいる御子はどちらの性別でしょうか」 と 申し上げると、「男子である」
との答えであった。 そして、「今このように教えてくださる大神の、 その御名を知りたいと思います」と詳しく求めると、
「これは天照大御神の御心
(みこころ)である。また、住吉の三柱の大神である」 お告げはさらに続いた。
「今、本当に西の国を求めようと思うのならば、諸々の神に、ことごとく 供物を奉り、 我が御魂
(みたま)を船の上に祀りなさい」
この神託に従って、神功皇后は軍隊を整え、朝鮮半島に船出する。


《新羅
しらぎ征伐》 (三韓征伐)
 〔神功皇后〕は、軍勢を整え船を並べて渡り進んだ時、海原の魚が大小を問わず、ことごとく船を背負いあげて渡った。
すると追い風が盛んに吹き、船は波に乗って、 たちまち 新羅之国に着いた。すぐさま、〔皇后〕の軍は内陸まで攻め込んだ。
新羅の国王は、怖れをなして「今より後は、天皇の命令に従い、従者となって。年ごとに船を並べ、船の腹を乾かすことなく、棹や舵を
乾かすことなく、 天地がともに続く限りお仕えしましょう」と奏上
(そうじょう)した。

 この新羅遠征の仕事が終わらないうちに、〔皇后〕の身ごもっている子が生まれそうになった。そのため 〔皇后〕は、お腹を鎮衣装の
腰に おまじないの石(鎮懐石
ちんかいせき)を結(ゆ)わえつけ、 出産を抑えながら海を渡って、筑紫の国に戻ってきて出産する。
(生まれた子が、後の第15代 応神天皇) そこで、その御子の生まれた地を名付けて宇美(
うみ:福岡県粕屋郡宇美町)と 言うのである。
また、その衣裳に巻きつけた石は筑紫国の伊斗村〔
いとむら:筑前国怡土(いと)郡(福岡県糸島郡)〕にある。

* 鎮懐石
ちんかいせき=後世の人が付けた名前。 皇后は3個の石を腰に巻き。 
          壱岐の本宮八幡神社、京都の月読神社、福岡県の鎮懐石八幡宮に奉納されています。
* 古事記では「新羅征伐」と書かれ、日本書紀は「三韓征伐」と書かれていて、“記紀”でもきちんと整理が出来ていないようです。
  西暦200年頃の話を 西暦700年頃に整理したのですから、朝鮮半島の国の興亡の知識が曖昧であったと思われます。


《筑紫から大和へ》
〔神功皇后〕は、〔幼い皇子:後の第15代応神天皇〕と、ともに大和に帰るべく、筑紫から難波へ向けて船を進めた。
この時、留守を預けている 大和の人々の心が疑わしかったので、(もしや 反逆の心を抱いているのでは‥‥‥‥)
喪船(
もふね:棺を載せる船)を一艘用意し、御子をその喪船に乗せ、 まず、「御子はすでに亡くなられました」と言い漏らさせた。
このようにして、難波に船を進めた。

〔香坂
(カゴサカ)ノ王(ミコ)〕・〔忍熊(オシクマ)ノ王〕の兄弟(応神天皇の異母兄弟)が、これを聞いて待ち受けて、〔神功皇后〕たちを
討とうと画策した。
 彼らは 自分たちの吉凶を占うため、誓約
(うけい)狩り(狩りを行って神意を伺う)をした。 そこで 兄が、狩りのようすを見渡すため、
くぬぎの木に登っていたところ、そこに、大きな怒り狂った猪が現れ、その木を堀り倒して、兄を食い殺した。
その弟は、その様子を恐れず、軍勢を集めて待ち迎えて、その兵士の乗っていないと思われる喪船に、攻めかかった。
すると、 喪船から軍勢が躍り出してきた。(皇后の仕掛けた罠に、引っかかったのだ)
 その弟の軍は、不意を衝かれて散り散りとなり、皇后軍は船から降り、一気に進攻した。 そして、追いつ追われつしていたが、
弟の軍は山城に入り込むと立ち直り、双方 互角の攻防をした。 皇后軍の将軍は、策を出して「神功皇后は、すでに亡くなられた。
なので、さらに戦う理由はない」と 言い触らさせ、そして 弓の弦を切り偽って降伏した。
そのようなわけで、 その弟の軍は、それを信じて弓を外して武器を収めた。 「しめたッ 今だ」 かねてより兵士に、髪の中に用意
した弓と弦を取り出し、 再び弓に張って追い討ちをかけた。 すると、 逢坂
(琵琶湖の西)まで追撃して全滅させた。


《禊
みそぎ
 さて、〔武内宿禰〕が、〔幼い皇子:応神天皇〕を連れて、禊のため
(皇子は喪船にのせられ、死人に見立てられたので禊が必要となり)
高志前(
こしのみちのくち:越前)の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在した。(ここで、禊の行事を行ったようである)
 すると、 その地に鎮座する 〔大神〕が夢に現れて、「私の名を替えて、御子の名を頂たいと思う」 と言った。 神託であった、
〔武内宿禰〕が、「仰せの通りにいたします」。 すると お告げが返ってきた。
「明日の朝、 浜に行くがよい。名を換える ことへの贈物を与えよう」 と言った。 そこで その朝になり浜に行ってみると、
鼻の傷ついた入鹿魚(
いるか:鼻の傷は、漁で銛もりを鼻に突くため)が、浦一杯に打ち上げられていた。 
そこで御子は、神に対して「私に食事の魚
(な)をくださいました」と言葉を述べ、 また その神を称えて、気比の大神(けひのおおかみ)と言う。
その入鹿魚の鼻の血が臭かった。そこで、その浦を名付けて血浦
(ちぬら)と言う。今は都奴賀(つぬが:敦賀)と言われている。

〔皇子〕が、都
(大和)に帰ってくると、母の〔神功皇后〕は、息子を祝福し待酒(まちざけ:どこか から来る人に飲ませるため、作っておいて待つ酒
を作って差し出し、こんな内容の歌をそえた。「この御酒は、私が醸
(かも)したものではありません、常世国に おられる〔酒の司くしのかみ
:酒の支配者〕で、石神となて立っている〔スクナビコナノ神〕が、神の祝福として、 狂ったように祝福し、豊かに祝福し、この世の祝福の
しるしとして、あなたに贈ってくださったものです。 さあ すっかり飲み干してください さあ」
 すると 〔武内宿禰〕が、幼い皇子に代わって、こう歌った。「この 御酒をつくった人は、 鼓を石のように立てて、そのまわりを歌い
ながら醸
(かも)したからなのか、この 御酒はなんともいえず、たいへん味がよくて楽しい さあさあ 」
この二首は、酒宴の席で歌う「酒楽
(さかほがい)の歌」と、呼ばれている。  

* 酒の司
(くしのかみ)の〈くし:酒の古語〉は、〈くすり〉と、いう語と、ともに〈奇し〉と、いう語から出ていると言われます。
*〔スクナビコナノ神〕=上巻の【大国主の国作り】で、大国主を助けた神です、海の彼方の常世国から去来すると信じられた神で、
 神産巣日神(
カミムスビノカミ〈参考:神神の系譜〉)の子供ですが、指の間から こぼれ落ちるほどの、小さい神です。
〔スクナビコナノ神〕は、後に仏教の薬師仏
〈薬師如来〉と合体して薬師菩薩神と呼ばれています。

*【古事記で、神功皇后が応神天皇を出産した後の記述】
  筑紫の末羅縣の玉嶋の里に到ったとき、 そこの川のほとりで食事を取った。 四月の初め頃であったが、川の中の礒に行って裳の糸を
 抜き取り、飯粒を餌にして年魚
(あゆ)を釣った。〈この川を小河と言い、礒の名を勝門比賣(かちどひめ)と言う。〉そこで四月の初めの頃、
 土地の女たちが裳の糸を抜いて、飯粒を餌にして年魚を釣ることは、今に至るまで絶えない。
〔日本書紀に似たような記述〕
  皇后は、ヌタの門(
:場所不明)に着いて、船の上で食事をしました。その時、鯛が沢山船のそばに集まりました。皇后は、酒を鯛に
 注ぎました。すると鯛は酔っ払って浮かびました。それで海人
(あま)は魚をたくさ獲って喜んで「聖王の与えられた魚だ」と言いました。
 こういう事から、この辺りの魚は6月になると、いつも酔っ払ったように口をパクパクさせるようになりました。

*【古事記 中巻の終
(応神天皇の段の後)】に、〔神功皇后〕の母(葛城之高額比賣命)の生い立ちを‥‥‥‥記載。
  新羅
(しらぎ)国王の王子(天の日矛・ひほこ)は、一介の農民の腰に付けた赤い玉を取り上げて、その赤い玉が大変気に入り、床の間に
 飾っていました。 ある夜のこと、赤い玉は美しい乙女と変身しました。  そして、その乙女を正妻としましたが、この王子は、
 妻を罵
(ののしり)、果てには、暴力を振るので妻は、「一緒に暮らせません、私は祖国へ帰ります」と、大和の国、難波(なにわ)の地に帰ります、
 その王子は、反省して妻を追って海を渡り、難波の近くまで来たが、海の神に拒まれたため、難波をあきらめ、王子は、多遅摩
(たじま)
 国へ船を泊めした。 そのまま、多遅摩の国へ住みついたのでした。 
 この地で、王子は、倭国の姫と結婚して、その五代子孫の子が、〔神功皇后〕の母です。
*〔神功皇后〕の父の事は、古事記には記載されていません。【現在では、神功皇后の実在説と非実在説が並存している 】

* 日本書紀では、神功皇后は、百歳まで生きたとある。(古事記には、崩じた年齢の記載なし)
* 神功皇后陵が奈良市にある五社神(ごさし)古墳に比定されている。
* 宮内庁も五社神古墳を神功皇后陵(狭城楯列池上陵:
さきのたたなみのいけがみのみささぎ)としている。
* 日本書紀の年代表によれば、新羅遠征の時に、神功皇后は、31歳(応神天皇出産)で、それから、100歳まで摂政(
せっしょう:天皇が
  幼少または女帝などのとき、代わって政治を行うこと
)を行い、 神功皇后が崩じて、応神天皇が皇位を継承した時は、70歳であったようです。
*《三韓征伐(?)中国の史記》
 「広開土王碑の碑文(吉林省:高句麗王:400年)」に、「倭」が海を渡って来て、新羅を攻めたので、広開土王
(好太王)が、5万の大軍を
  派遣して新羅を救援した、と 石碑に記述。
* 戦後史学では、三韓征伐は創作に過ぎず、 実際にはなかったという見方が優勢である。
* 神功皇后の話は、白村江(
はくすきのえ、はくそんこう)の戦いから、持統天皇による文武天皇擁立までの経緯を もとに、神話として“記紀”に
  挿入された物である、との見方がある。(白村江の戦い=663年:倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである)
* 中国 晋の文献における、倭の女王についての記述が引用され。このため 江戸時代までは、 卑弥呼が神功皇后であると考えられていたが、
  この年は266年で卑弥呼は、すでに死去しており、この倭の女王は台与の可能性が高いとされている。 
 
また、これとは別に、斉明天皇と持統天皇が、 神功皇后のモデルではないかとの説もある。
 

【第15代 応神(おうじん)天皇】  父は、仲哀天皇。 母は、 神功皇后
 〔応神天皇:品陀和氣命ホムダワケ〕は、輕嶋之明宮(カルシマのアキラのミヤ :奈良県橿原市 か 大阪市東淀川区)で、
 天下を治めていた。
* 実在性が濃厚な最古の天皇とも言われるが、当時の王統の有力者を、合成して作られたものと考えるのが妥当である、
 とする説がある。
*『古事記』に、130歳で崩御:「御陵は川内の恵賀
(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」 と、記すが位置不明。 
 『日本書紀』に陵名の記載はないが、『延喜式』で、 大阪府羽曳野市の 誉田
(ホムダ)御廟山古墳(前方後円墳・全長425m)
  
に比定される。(仁徳天皇陵 に次ぐ 第2位の規模)
* 母の神功皇后は、太子が成人して皇位を継ぐまで、摂政を努めていた。
 〔応神天皇〕は、男子11人、女子15人の子だくさんの〔天皇〕であった。 
さて、〔天皇〕は、〔長男:大山守〕と 〔二男:大雀
オオサザキ:後の仁徳天皇:雀=ミソサザイのこと〕が、 それぞれ、子どもを持つようになった頃、
「おまえたちは、父親として 年上の子と年下の子とどちらが愛しいか」と尋ねた。
〔天皇〕が、この問いを発した理由は、末っ子皇子〕に天下を治めさせたい心があったからである。
 すると〔長男:大山守〕は、「年上の子が愛しいです」と申し上げた。
次に〔二男:大雀〕は、〔天皇〕が お尋ねになった心中を察して、「年上の子は、すでに成人し、煩わされることも ありませんが、年下の子は、
まだ成人しておらず、愛おしいでしょう」と申し上げた。
 そこで天皇は、「〔二男:大雀〕よ、 おまえの言葉は私が思っていた通りだ」と言って。「〔長男:大山守〕は、山と海の民を管理し、
〔二男:大雀〕は、私の行う政治を補佐せよ、〔末っ子皇子〕は、皇位を受け継ぎ、天下を治めよ」 と、分けるように言ったのである。
この〔天皇〕の言葉に〔二男:大雀〕は背
(そむ)くことはなかった。〔天皇〕は、末っ子の御子が 一番 愛おしいと思っていた。


《応神天皇が、〔末っ子皇子〕を生んだ経緯は、》   
 ある時、〔天皇〕は宇治に出かけた。 その村の辻で、容姿端麗な一人の乙女に出会った。「あなたは誰の子か」と尋ねると、
「豪族 春日氏の娘です」と申し上げた。 〔天皇〕は娘に、「私が明日 大和に帰る時に、あなたの家に立ち寄ろうと思う」 と言った。
そこで、娘は詳細を父に語った。 父親は、「その男の身なりや供揃えを聞き、これは〔天皇〕であろう」と答え、畏まって、
「明日は よろこんで、お仕えしなさい」 と言って、その家を奇麗いに整え謹んで待っていると。

 翌日、やって来た〔天皇〕に、食事を差し出したとき、父親は娘に酒杯をもたせ、酒を差し出した。
すると〔天皇〕は、その酒杯を娘に持たせたまま、よい ご機嫌で歌を詠んだ。その中に、こんな内容のくだりがある。 
「道で出会った乙女よ、その後ろ姿は、すらっとして小さな楯のようだ。前から見ると、歯並びは椎の実のように 白く美しい、
こうなればなと思っていた乙女に、今 向かい合っている」〔天皇〕は、心の底から魅せられていた。
(このようにして、惚れた娘と結婚し、生んだ御子が〔末っ子皇子〕である)


《乙女を息子に譲る父》
  あるとき 〔天皇〕が日向之諸県君(
ひむかのもろがたのきみ:熊襲の地域の豪族)の娘に見目麗しい乙女がいると聞き、側近くに使えさせようと、
その娘を召し上げた時。 〔二男:大雀〕の御子は、その乙女が難波津に到着したのを見て、その端正な容姿を気に入り、〔武内宿禰〕に、
「あの 乙女を私にくださるよう〔天皇〕に、お願いしてほしい」と、懇願した。
〔武内宿禰〕は、その旨を〔天皇〕に伝えると、〔天皇〕は、あっさりと承諾した。
(〔天皇〕は鷹揚な態度で息子に乙女を譲ったが、実は 親子の仲は、うまくいってなかったようです)


《百済の朝貢》
 この御世に新羅(
しらぎ:神功皇后の遠征後、交流が活発になった様子が窺える)の人々が渡って来た。 そこで〔武内宿禰〕が率いて治水池造りに、
従事させて百済池
(記・紀では比定地は別々)を造った。また、百済(くだら)の国王が、牡馬と牝馬などを献上した。 また、百済に、
「もし賢い人がいれば遣すように」と命じた。 そこで、命令を受け、百済から、論語 や 秦氏の祖{
はたうじ:秦の始皇帝の末裔(つまり漢民族)
を称するが、前秦(非漢民族)の王族が、朝鮮半島を経由して辿り着いたと見る説ある
] などが渡来した。


《〔大山守〕の反逆》
 〔応神天皇〕が没すると、〔二男:大雀〕は、(生前の天皇の命令で)天下を弟の〔皇位継承一番下の皇子〕に譲った。
〔長男:大山守〕は、やはり天下を取ろうと思い、その弟皇子〔末っ子皇子〕を殺そうと、密かに武器を準備して攻めようとする。
 すると〔二男:大雀〕は、兄が武器を準備していることを聞き、〔末っ子皇子〕に告げた。〔末っ子皇子〕は、それを聞き驚いて策を講ずる。

 まず、兵士を人目につかないよう宇治川の川辺に、潜
ひそませ。 また、その山の上に陣屋を構え、偽って家臣を王に仕立て、 堂々と椅子に
座らせ、部下たちが、恭
(うやうや)しく出入りする様子は、〔皇位継承の末っ子皇子〕が、いるようであった。
さらに 〔長男:大山守〕が、川を渡る時に備えて渡し場に、船と櫓を用意して、船底に葛
(かずら)の根の汁の粘膜を塗って滑りやすくした。
そして、〔末っ子皇子〕は、粗末な布の服装を着てすっかり賤
(いや)しい人の姿となり、櫓を取って船に立ち 船頭を装ったのである。

 そうとも知らず、〔長男:大山守〕がやってきて兵士を川辺に置き、衣の下に鎧を着込み船に乗ろうとして、山の上の陣屋を見上げ、
〔末っ子皇子〕が、その椅子に座っていると思い込み、船に乗り込むと、櫓を握っている船頭に、「このに凶暴な大きな猪がいると伝え
聞いている。私はその猪を討ち取ろうと思う。その猪を討ち取れるだろうか」と、尋ねた。
 すると船頭に化けた〔末っ子皇子〕は、「できないでしょう」と答えた。また、「どうしてか」と、尋ねると、「たびたび、討ち取ろうと
する者がきましたが、出来ませんでした、だから あなた様も無理でしょう」 と答え、
 そうこうしているうちに、船は川の中ほどに渡って来た時に、船頭はいきなり船を傾かせた。船底に塗られた粘膜に足を取られて滑り、
〔長男:大山守〕は、川の中に落ちてしまった。そして浮かび出て、水に流されているところを、身を潜ませていた〔末っ子皇子〕の軍勢が
一斉に矢を放た。ついに 〔長男:大山守〕は、溺れて死んでしまう。 

 その後〔二男:大雀〕と 〔末っ子皇子〕は、 どちらが皇位を継承するかを互いに譲り合い、らちがあかなかった。
海人
(あま)たちが、お祝いの貢ぎ物を差し出しても、兄は辞退して弟に献上させ、弟も辞退して兄に献上させ、譲り合っている間に、すっかり
多くの日数経った。海人たちは、困惑して疲れ果て、腐った魚を往来に捨てて泣いた。 
腹違いの兄弟が、皇位を譲り合っているうちに、〔末っ子皇子〕が、若くして死んでしまう。
そのため 〔二男:大雀〕が〔第16代 仁徳天皇〕となる。

* 応神天皇は、海部(
あまべ:朝廷に海産物を納貢する部族)、山部(やまべ:朝廷に鉱石や金・銀・鉄・などを納貢する部族)、山守部(やまもりべ
 :山部の部落を管理したり警備する部族)、伊勢部(いせべ:伊勢の神〈天照大御神〉を祀り つかえる部族)の制度を制定した。
* 応神天皇の時代には、新羅の国から 多くの卓越した技術者が渡来してきました。渡来人の技術者に命じて、灌漑用
(かんがいよう)の池・
 「剣の池」
(つるぎのいけ)、を造りました。また、武内宿禰(たけのうちのすくね)は、同じように、「百済の池」(くだらのいけ)を、造った。
* この時代は、 新羅人
(しらぎじん)、百済人(くだらじん)、高麗人(こまびと)などの人々が、多く渡来してきた。
* 古事記では、応神天皇の幼皇子から71歳で即位(その間、神功皇后摂政)する間の記述が無い、謎の期間 ?。
* 実在性が濃厚な最古の天皇とも言われるが、仁徳天皇の条と 記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが、
  出されている。応神天皇は当時の王統の有力者を合成して作られたものと考えるのが妥当であるとする説がある。
* 5世紀の王陵と伝える古墳
(秦氏一族の土木技術で巨大化する)が、主として河内(かわち:大阪府)にあることなどから、 応神天皇の王朝は、
  新たな河内王朝であったとする説や、当時の古墳文化に注目して、 筑紫から東征した騎馬民族の末裔の王朝とする説などがある。

* 神の称号をいただいている天皇は、〔初めて天皇と呼ばれる天皇〕のようです。
 初代神武天皇=『初めて天下を治めた天皇』と古事記に記載。
 10代崇神天皇=欠史八代天皇の次の天皇で、所知初國之御眞木天皇
(はつくにしらししみまきのすめらみこと)とも記載され、『初めて国を治めた天皇』
       (初めて実在した大王と捉える説もある)
 15代応神天皇=実在性が濃厚な、『最古の天皇』とも言われます。
       (八幡神の主祭神として各地で祭られている通り、古来、日本の伝統として祭って来た祭式を 彼の代に復活したから、神の称号
        が付いたと言う説)(八幡神を応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」には、みられず、)
* 神の称号の付く〔神功皇后〕は、神の神託を受けて、「神の功」によって三韓征伐を達成したからだと思われる。

* 応神天皇の正体は、騎馬民族の大王、沸流
(フル)という説がある。沸流は、夫余族(ふよぞく)の流れをくむ者で、紀元4世紀頃、
 高句麗
(こうくり)の勢力が拡大して、 朝鮮半島の勢力が不安定になっていきました。 
 そこで、沸流は、朝鮮半島を離れ日本列島へと侵入したのです。
  日本で 彼は、騎馬民族の持つ速さと、圧倒的な軍事力を背景にして、またまく間に、倭
(やまと)の国を制覇し、
 北九州を治め、「伽耶
(かや)・北九州連合国」を形成した。

  沸流はさらに、東へと進み畿内を制圧、その時代、日本列島を支配していた「物部王朝
(もののべおうちょう)」の大王家(おおおみけ)の入り婿になり。
 やがて、大和王朝を、樹立することになる。 その中で、最大勢力は、弓月の君
(ゆづきのきみ)率いる「秦氏(はたし)」でした。 
 秦氏の規模(領地大きさ)に関して、「日本書記」には、120県
(あがた)と、「新撰姓氏録」(しんせん しょうじろく)には、127県と、書れる。
 (県
(あがた)とは、天皇に献上された田)
  また、秦氏のその数は、数千人の規模以上だったと思われるのです。応神天皇の六代後、第21代 雄略
(ゆうりゃく)天皇の時代は、
 具体的な人数、1万8170人と、記されている。この人数は、古代の人口を考えると、異例な人数の多さなのです。

*「沸流ふる伝説」
  古代朝鮮の歴史記に、「百済本紀」があります。 この書の冒頭に、百済建国神話が書かれています。その百済建国神話のなかに、
「始祖は沸流」と、書かれています。
『北方の高句麗の王、朱蒙
(しゅもう)には、二人の子がいた。兄の名は、沸流(ふる)、弟の名は、温祚(おんそ)といった。
 彼らは、すべての部族を率いて、南下していった。途中、兄弟の部隊は、ふたてに分かれた。兄の沸流は、海に面した地に。
 弟の温祚は、内陸に、それぞれ建国した。
  弟・温祚の国は、次第に繁栄していき、 馬韓
(ばかん)のひとつ、伯済になり百済(くだら)へと発展していった。
 一方、兄・沸流の国は、衰退していくばかり、これを恥じた沸流は、いつのまにか姿を消した‥‥』と書かれ、百済建国神話の「始祖は沸流」
 の沸流は、歴史から消えた。→→→→→倭国へ亡命 ?
* 馬韓は、52カ国に分かれていた。ほぼのちの百済、言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。
  辰韓や弁韓と比べると、凶悍でなかなか魏の支配におとなしく従わず、統治のむずかしい民族。

* 辰韓は、12カ国に分かれていた。のちの新羅、言語は馬韓と異なり弁韓と類同し、
  中国語とも類似していた。
  辰韓の由来に「秦の役」を避けて逃げてきた人が馬韓の東に土地を分けてもらい住んでいたが
  ゆえに秦韓とも言う。

* 弁韓のちの任那、言語は馬韓と異なり辰韓と類同していた。

* 夫余(
ふよ:扶余:扶餘)=ツングース系(北東アジア地域から満州に住む諸民族:一説には、西アジアまで)
 
と思われる民族が存在。
 :紀元前1世紀 〜 494年に中国東北部(満州)にあった国家又はその主要構成民族。
* 高句麗(こうくり:紀元前37年〜668年)は、中国東北部南部 から朝鮮北中部にあった国家であり。
     最終的には唐・新羅の遠征軍により滅ぼされた。
    『魏書』や『三国史記』には、高句麗の始祖朱蒙も夫余の出身であり、衆を率いて夫余から、東南に向かって逃れ、建国した話が載っている。

* 弓月君(
ゆづきのきみ:生没年不詳)は、『日本書紀』に記述された、秦氏(はたし)の先祖とされる渡来人である。 
    『新撰姓氏録』(
しんせんしょうじろく:815年 編纂された古代氏族名鑑)では。融通王(ゆうずうおう)ともいい、秦の帝室の後裔とされる。 
     伝説上の人物であり、実在は不明である。
     また、「秦」つながりで渡来した人々が、勝手に「秦
はた」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく。 
     今後検証の必要がある。

* 物部王朝
(もののべおうちょう)に関しては、解明されていないが、一般的には、邇邇芸の命(ににぎのみこと)が、天孫降臨されるよりも先に、
     兄の邇芸速日の命
(ニギハヤヒノミコト)が、天つ国より地上に降りた、と伝わっていて、そして、この邇芸速日の命が、
     物部王朝の始祖
(しそ)であるという説が、認められている。


ここで、古事記の[応神天皇の段]で、中巻は、終わります。

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