【日本書紀ー要約】 [下巻ー注釈] 
  
 
  
 
舎人親王(とねり しんのう)=676年〜735年:天武天皇の第6皇子:第47 淳仁天皇(廃帝)の父
   奈良時代初期に皇親勢力として権勢を振るう。『日本書紀』の編集も総裁した。 
  *舎人とは、皇族や貴族に仕え、護衛・雑用に従事した下級官人であるが、この親王だけは別。
  

 
藤原不比等(ふじわら ふひと)=659年〜720年:藤原鎌足の次男、
  698年には、藤原不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。 藤原不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である
  中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当する。
  持統天皇の孫の軽皇子
(文武天皇:相関図参照の即位擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てくる。 
  藤原不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められ、摂関家
(摂政・関白)の基礎を築いた。
  (摂関家は、途中の豊臣秀吉の関白を除けば、明治維新まで代々続いた )
   藤原不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。 
皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、
  天武・持統代に行われた皇親政治の延長として考えることも可能になる説。 
  
 
藤原鎌足(ふじわら かまたり)614年〜669年:生前の名は「中臣なかとみ鎌足
  初期の頃には
中臣 鎌子(かまこ)と名乗っていた(欽明期の排仏派の中臣連鎌子とは別人)。 その後「中臣鎌足」に改名。 
  大化の改新以降に中大兄皇子
(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。 
  そして臨終に天智天皇から、出生地の藤原
(大和国高市郡藤原:奈良県橿原市)の地名を藤原姓として賜った。

 *子は二人、長男は定恵
じょうえ:643年〜666年)は、飛鳥時代の学僧。653年に遣唐使とともに唐へ渡り、仏教の勉強をし、665年に日本に帰国したが、
  翌年に亡くなった。 藤原氏の前身である「中臣氏」は神祇に関わり、仏教伝来に際しては排仏派、その長男が出家するなど謎がある。
  或いは僧侶になった方が唐留学に優位であった、等の意見があるが、未だ定説を見ない。
 *百済から人質として来た、百済王子「余豊璋
よ・ほうしょう」が「鎌足」との説があるが定かではない。
  
 
● 皇親政治
(こうしんせいじ)=天皇と皇親(皇族)を主体とする政治体制を指す歴史学上の用語。
  
 
白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦=663年:朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近:map)で行われた、[倭国・百済遺民の連合軍]と、
   [唐・新羅連合軍]との戦争のことである。 百済は倭国と関係が深く、新羅に攻められた百済を救うため、倭軍は白村江
(錦江の川口付近)に、
   兵士一万余を率いて陣をしいた。大唐
(もろこし)の軍船百七十艘と合戦したが、倭軍は大敗を喫し退いた。
  
 
大連(おおむらじ)=古墳時代に於けるヤマト王権に置かれた役職の1つ。 王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として執政を行った。  
   姓
(かばね)の一つである(むらじ)の中でも軍事を司る伴造(とものみやっこ)出身の有力氏族である、大伴氏(兵力)と物部氏(兵器)が大連となった。
  
 
秦大津父(はたのおおつち)=漢人(あやひと:満洲に居住していた、漢民族集団の分類の一種)の渡来人で、
   秦大津父は、秦伴造(
はたのとものみやつこ:漢人の長)となり、大蔵の司に任命された。
  
 
● 物部氏
(もののべ うじ)=その遠祖は、瓊瓊杵尊(ニニギ ノ ミコト)より先に、天孫降臨したニニギノ兄・饒速日尊(ニギハヤヒ ノ ミコト)を祖とする。
     ・神武天皇東征時以前に、既に河内国河上哮峰
(いかるがのみね)に「天磐船」に乗って天降りたとされている。
     ・更に大和の鳥見白庭山に遷ったとされている。 
     ・九州遠賀川流域から、四国の北岸を通って堺に上陸し、生駒の西の日下(草香)から大和川流域に展開したともある。
      (「日本」の名は、この日下から来ているとの説あり。) 
     ・大和にいた在地豪族「長髄彦
:ナガスネヒコ」の妹「御炊屋姫」を妻にして「宇麻志摩治命:ウマシマチ」などを産み、大和の地に地盤を築いていた。
      そこに神武天皇が東征してきて、「長髄彦」と「神武」の間で争いが起こった。[ニギハヤヒ]又は[ウマシマチ]は、解決策として、
      「長髄彦」を殺害して、神武を迎えいれた。
       神武もニギハヤヒを天孫族と認めた。この後大和朝廷と共に融和して、大和の地で朝廷に仕えてきた。
 
     ・元来呪術を行うのが物部氏の職掌であった。 物部氏と大王家とは、3世紀半ば大和朝廷発生時から祭祀を通じて密接に繋がっていた。
      5世紀になると、物部氏は、大伴氏と並ぶ武門として朝廷に仕えることになる。
   
 
● 蘇我氏
(そが うじ)=8代 考元天皇→(子孫)武内宿禰を祖→(子孫)蘇我氏 (参照:蘇我氏系譜
      武内宿禰
(たけのうちのしゅくね)を祖とし、具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関しては以下の諸説があり
     よく分かっていない。
    ・渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部(
しなべ:宮廷で用いる奢侈品や特殊な技術を
      必要とする工業製品の生産を
)の集団などが持つ、当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。
    ・また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。
     これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓物部氏中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察される。
  
 
● 蝦夷
(えみし)=関東以北、東北地方等に居住して大和朝廷に従わなかった勢力(map参照)。
    アイヌ人とする説もあるが、本州の縄文系の非農耕集団と考えられる。 後に「エビス」「エゾ」と変化した。
   大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方
(現在の関東地方の一部と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)に住む人々を
   異端視・異族視した呼称である。
    中央政権の征服地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。
   近世以降は、北海道・樺太・千島の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。
  
 
● 隼人
(はやと)=薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々、しばしば大和の政権に反抗した。(熊襲の後裔を隼人とする説もある)
  
 
● 高麗(
こま:高句麗こうくり)=紀元前37年〜668年:中国東北部南部 から朝鮮北中部にあった国家であり、最終的には唐・新羅の遠征軍により滅ぼされた
   『魏書』や『三国史記』には、高句麗の始祖朱蒙も夫余の出身であり、衆を率いて夫余から東南に向かって逃れ、建国した話が載っている。
   (10世紀に朝鮮半島を統一した王朝が国名を[高麗
こうらい]とし、西洋語において朝鮮を表す、Korea(コリア)などの語源となった。map:参照
  
 
● 百済
(くだら)=古名[馬韓 ばかん]:馬韓(紀元前2世紀末〜4世紀中葉)→【百済】( 〜663年:〔新羅・唐〕連合軍によって滅亡〈白水江の戦〉)
   ・馬韓
(ばかん)=紀元前2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三韓の一つ。(map:参照


    馬韓人は定住民であり、集落に城郭は無く、五十余国が存在した。 
   ・『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民がおり、
    馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人と名づけたという。
    また、『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。
    三世紀の頃、馬韓は半島西部に位置し、52カ国に分かれていた。言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。
    辰韓や弁韓と比べると、凶悍でなかなか魏の支配におとなしく従わず、統治のむずかしい民族であった。
   ・314年、帯方郡が滅亡すると、馬韓の伯済国が強大化して[百済]になったとする説もある。
  
 
● 新羅
(しらぎ)=古名[辰韓 しんかん]:辰韓(紀元前2世紀末〜4世紀)→【新羅】( 〜10世紀中:高麗に降伏して滅亡)
   ・辰韓
(しんかん):紀元前2世紀末から4世紀にかけて、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。(map:参照
    帯方郡の南、日本海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。
    もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。 その内の斯蘆
(さろ)が後の[新羅]になった。
    辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、との説。
   ・『魏志東夷伝』朝鮮では、国を割いてまで秦の亡民の建国を許している」と記している。「秦韓」とも書かれ、秦からの遺民の子孫ともいわれる。
    辰韓の12カ国は「辰王に属していて、辰韓はそれで一つの政治勢力だった。辰王は新羅が台頭するまで馬韓人や倭人(?)などであった。
  
 
● 任那
(みまな・にんな)=古名[弁韓 べんかん]:弁韓(紀元前2世紀末〜4世紀中葉)→【任那〈伽耶諸国〉】( 〜562年:新羅が滅ぼした)
    伽耶諸国(
かや:加羅から:広義の任那:半島の中南部に散在していた小国家群を指す)(map:参照
   ・弁韓
(べんかん):弁辰とも言う。 『三国志』魏書弁辰伝によると、辰韓と弁辰(弁韓)は、風俗や言語が似通っていたという。
    三世紀には12カ国に分かれていて、弁韓という名は、その内の一国(後の金官国
(駕洛国)が、この地域の盟主となり、
    それぞれの国家の連合をつくったことによる。→[加耶諸国]。 大雑把にのちの「任那「の地域である。
    辰韓と弁韓とは居住地が混在していたとされ、『三國志』弁辰伝によれば、言語は馬韓と異なり、辰韓と弁辰
(弁韓)は、風俗や言語が
    似通っていたという。 
   ・『後漢書』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていた。
    辰韓や馬韓とは異なり、弁韓の名で西晋に朝貢した記録がなく、倭王武の上表文にも弁韓という言葉はでてこない、弁韓はこの段階ではすでに
    「加羅」や「任那」に名前が変わっていたようで、その後の所謂「加羅の滅亡・任那の滅亡」が弁韓の消滅ということになる。
   ・倭王武=『宋書』にみえる 5世紀後半の倭王。 武は雄略天皇に比定されている
  
 
● 粛慎
(みしはせ:しゅくしん)蝦夷の地の一部か(?:北海道の粛慎= map参照)とされている。 
    満州(
中国東北地方及びロシア・沿海地方)に住んでいたとされる、ツングース系狩猟民族。
    (後に漢民族として統合されていく前身となった人々:後に( 婁:
ゆうろう)と呼ばれる)沿海州のツングース族とする説もある
     
       【三国志時代(180年〜280年)-
map参照
       
   

● 大伴氏
(おおとも うじ)天孫降臨で瓊瓊杵尊(ニニギ ノ ミコト)にお伴した「天忍日命」を祖とする。
     ・「大伴」は「大きな伴造(
とものみやっこ:各部民のリーダー)」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。
     ・また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、
      物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。
     ・なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を
      負っていた。
 
 

● 臣姓・連姓=臣
(おみ) は、天皇(大王)に臣従した豪族で統治を共同して 行っているのが臣姓の氏。
        連
(むらじ)は、臣の中では最高位に位置していた姓(かばね)の一つである。早くからヤマト王権に直属していた有力氏族の中に
        与えられた姓。(江戸時代でいえば、外様大名が「臣」で、譜代、旗本、御家人が「連」)
  

● 大臣
(おおおみ)=大王(おおきみ)に対する最高の地位として大連(おおむらじ)と併置された、役職(執政官名)。
  

● 来目皇子
(くめのみこ)=用命天皇の第2皇子:聖徳太子の弟。 生年不詳。
    602年:新羅征討将軍として軍2万5千を授けられ、軍を率いて筑紫に至り。病のため新羅への進軍を延期としました。
    そして征討を果たせぬまま、603年に筑紫にて薨去しました。
    その後、周芳
(すおう)の娑婆(さば)の桑山に殯(もがり:仮埋葬)が行われ、土師連猪手(はじのむらじいて)が派遣されその任に就きました。
    土師氏は、その後 国司(
こくし、くにのつかさ:古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏)として周防国庁に居する。
 
   ・塔の尾古墳:毛利重就[
もうりしげたか:英雲公]が桑山中腹に納涼亭を建てる時に偶然見つかり、来目皇子らしいと判り、
    その後、山頂に埋葬品を石箱に納めて埋め戻す(宮内庁の管理)
  
 
● 中臣氏
(なかとみうじ)天孫降臨で瓊瓊杵尊(ニニギ ノ ミコト)にお伴した「天児屋あまのこやね命」を祖として、鹿島神宮の祭祀者とされている。
    天智天皇から、藤原不比等と子孫のみが藤原姓を名乗ることを赦され、太政官の官職に就くことができるとされた。
    藤原不比等の従兄弟たちは、中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当する。

    【根拠の無い異説 ? 】→
藤原氏(百済系)と蘇我氏(秦氏:新羅系)の戦い
     ・藤原氏のルーツは、百済王子・豊璋(中臣鎌足)とされている。
     ・一方、蘇我氏ルーツは、神功皇后の愛人とされる超人・武内宿禰(住吉大神)である。
     ・渡来人の持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられているので、蘇我氏が、秦氏の系統であることは間違いないと思われる。
     ・武内宿禰(住吉大神)は、新羅から来たから、 秦氏は新羅経由でアッシリアからはるばる日本に来たのだろう。
     ・とすると、日本の古代史とは、藤原氏(百済系)が蘇我氏(秦氏系=新羅系)を制覇(歴史から抹消)した歴史になる。
     ・藤原氏(百済系)が作った日本書記に秦氏の記述が少なく、蘇我氏のことはボロクソに書いているのも頷けるのだ。
    (この説は、渡来系の子孫が書いたものか ? )
  
 
● 土師氏
(はじし)=天穂日命(あめのほひ:天照大御神の次男)の末裔→野見宿禰→子孫に【土師連(はじの むらじ)】(土師氏の分家に菅原氏〈道真〉
     土師氏は、[野見宿禰]の天職(?)を引き継ぎ【墳墓の造営】に携わる職業集団。また【土器(土師器:朝鮮式土器)】の製作にも係わる。
 
   ・野見宿禰:(出雲の豪族)展覧相撲で怪力を発揮し、朝廷に召し抱えられ[宿禰]の姓
(かばね)を戴き【墳墓の造営】に携わる職業集団を司る。
         (古墳の殉死者の代用品の埴輪を考案する)
          子孫は埴輪を焼く作業に関わったため「土師
(はじ)」 の姓を賜り【土器(土師器:朝鮮式土器)】の製作にも係わる。
          相撲の元祖(神様)とされていて、国技館近くに野見宿禰神社は、祭られている。
 
   ・防府天満宮の祭神=菅原道真・天穂日命 と末裔の 野見宿禰・武夷鳥命(
たけひなとり:天穂日命の御子神)の4柱(よはしら)
         道真(57歳)は太宰府への途中、勝間浦に着き、同族土師氏のいる この地にしばらく滞在した。
         そのおり、国司(
こくし、くにのつかさ:古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏)の土師信貞に
        「
我、もし筑紫にて命を終わるとも魂必ずこの地に帰るべし」と告げたという(風土注進案)。
         また 当時の国司は、土師信貞の説と、多治有友の説がある。この多治有友
(たじありとも)は道真の門人で、土師信貞は役人であった
         いわれる。 防府には縁あった
  
 
● 夫余(
ふよ:扶余:扶餘)=ツングース系(北東アジア地域から満州に住む諸民族:一説には、西アジアまで)と思われる、遊牧(騎馬)民族が存在。
    :紀元前1世紀 〜 494年に中国東北部(満州:map)にあった国家又は、その主要構成民族。古代のツングース系民族の一属。  
     また、夫余族が紀元前1〜5紀に中国東北部に建てた国。
     1〜3世紀中頃に全盛、のち鮮卑と高句麗に挟まれて衰え、494年 勿吉
(もつきつ)に滅ぼされた。
  
 
● 蘇我稲目
(そが の いなめ)= 506〜570年  宣化〜欽明朝に、大臣を務め、朝廷の実権を握っていた。
     娘の堅塩媛
(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を欽明天皇の妃とした。堅塩媛は、大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)を産み、天皇に即位している。
     小姉君は、泊瀬部皇子
(崇峻天皇)を産み、天皇に即位している。
      蘇我稲目は、仏教の功徳をたたえ(仏教公伝)。天皇に仏像を礼拝を奏上する(崇仏派)。
     これに対して(排仏派)大連物部尾輿と
(むらじ)中臣鎌子は反対。 仏教受容問題に権力闘争が重なり、蘇我氏と物部氏は激しく争った。
     決着はつかず、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれた。
 
     
    
    ★ 【国内で初、奈良に大型ピラミッド方墳】 蘇我稲目の墓?:奈
良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳(6世紀後半ごろ:子の蘇我馬子の墓とされる
       〈石舞台古墳map〉の近く)
が、石を階段状に積み上げた、国内では類例のない大型方墳とみられることがわかった。
      ピラミッドのような特異な構造や天皇陵にも迫る規模から、多くの渡来人を配下に置き、天皇の外戚
(がいせき)となって台頭した権力者、
      蘇我稲目(
そがのいなめ:570年)ら、蘇我一族の有力者の墓との見方が出ている。
 

 
● 大神神社(おおみわ じんじゃ)=大国主神が国造りをする時、神が出現した。その神は大国主の分身(和魂 にぎみたま)であり、
    大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力すると言った。 その神は御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神である。
    三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、江戸時代に拝殿を建立した。
 
 
大化の改新=[中大兄皇子]らは、国内の制度改革(律令国家の出発点):唐の制度を参考に中央集権化に着手。 有力豪族の連合政権から、
      天皇・皇太子を頂点に左右大臣などを配し、国家体制の内部に豪族を再編成する権力集中の組織体制を断行。
     (1) 公地公民制:豪族の土地と人民の所有を禁じ、食封(
しきふ:給料?)を支給。 
     (2)中央集権体制:国・郡など地方行政単位を定め、軍事や交通の制度を整える。
     (3)班田制:戸籍を作成し、班田収授法(
はんでんしゅうじゅのほう:朝廷から受田資格を得た貴族や人民へ田が班給され、班給された田は課税対象
        であり、その収穫か租を徴収された。)を定める。
     (4)新税制:新しい統一的な税制を定め、徴税基準を定める。
 
 
● 丈六の仏像=『丈六
(じょうろく)』=(丈=10尺)(丈六=16尺×18cm= 約 2.8 m)
      古代中国の尺=「尺」という文字は親指と人差指を広げた形をかたどったものであり、元々は手の指の「親指」の先から「中指」の先までの
             長さを1尺とする身体尺であった。この長さは、おおむね『18cmぐらい』であり、現在の尺の6割くらいの長さである。
      中国の仏像の大きさは、『丈六』が基本。
  
 
● 八咫鏡
(やたのかがみ)=三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)の1つ。
           記紀神話によれば、天照大神の岩戸隠れの際に[石凝姥神
(いしごりどめのかみ)]が作ったとされている。
      咫
(あた)=古代中国の長さの単位の身体尺で、手の指の「親指」の先から「人差し指」の先までの長さで、おおむね『12cmぐらい』である。
       「八」=大きいと言う意味。
       *別説=咫は、円周の単位で、約0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていた。
           したがって「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)の円鏡を意味する」という
     ★ 天照大神の「御神体」としての「八咫鏡」は神宮
(伊勢神宮)の内宮に変わらず奉安されている。
  
 
● 八尺瓊勾玉
(やさかにのまがたま)=三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)の1つ。
        日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命
(たまのおやのみこと)が作ったとされている。
        *「八尺」は単に大きい
(あるいは長い)という意味であるとも、「弥栄」(いやさか)が転じたものとする説もある。
        *「瓊」は赤色の玉のことであり、これは瑪瑙
(メノウ)のことであるともされる。
     ★ 現在:天皇の継承した神器として皇居吹上御殿の「剣璽の間」に、剣(形代)とともに保管されている
        *「剣璽
(けんじ)」は、三種の神器のうち、『天叢雲剣』と『八尺瓊勾玉』を併せた呼称。神器の勾玉を璽(あるいは神璽)とも呼ぶため、
         「剣璽」と称される。
  
 
● 草薙の剣
(くさなぎのつるぎ)=三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)の1つ。 三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。
        スサノオ(素戔嗚尊)が、出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を倒し、その尾から出てきた剣が、『天叢雲剣』後の『草薙剣』である。
        別名=天叢雲剣
(あめのむらくものつるぎ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、草那芸之大刀(くさなぎのたち)
        * 日本武尊
(やまとたけるのみこと)が、東国遠征に携え、野火攻めにあった時、剣で草を薙ぎ払って野原から脱出した。(草薙剣)
     ★ 『吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いで「二位ノ尼は宝剣(草薙剣)を持って、(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する」とあり。

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