【日本書紀ー要約】 [下巻:その4] {*(アスタ記号) または( )内は、個人解釈 〕 |
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★『日本書紀』に記載されている[天智天皇の段]は 前ページで終りますが、[天智天皇]の治政について、私考的な解釈を説明するために、 【古代 東アジアの情勢について】から説明します] |
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【朝鮮半島の国々の歴史】 |
【諸国の年表】 |
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◎ 夫余(ふよ:扶余:扶餘)=ツングース系(北東アジア地域から満州に住む諸民族:一説には、西アジアまで)と思われる遊牧(騎馬)民族が存在。 :紀元前1世紀 〜 494年に中国東北部(満州)にあった国家又は、その主要構成民族。 古代のツングース系民族の一属。 また、夫余族が紀元前1〜5紀に中国東北部に建てた国。 1〜3世紀中頃に全盛、のち鮮卑と高句麗に挟まれて衰え、494年 勿吉(もつきつ)に滅ぼされた。 ◎ 粛慎(みしはせ:しゅくしん)=満州(中国東北地方及びロシア・沿海地方)に住んでいたとされるツングース系狩猟民族。 (後に漢民族として統合されていく前身となった人々:後に( 婁 ゆうろう)と呼ばれる) ・粛慎は、[日本書紀]にも記載されている。 ・粛慎についての日本での最も古い報告は、欽明天皇(544年)に、 佐渡島に粛慎人が来着したと書かれている。 ・斉明天皇(658年)……180艘の船を率いて「蝦夷」と「粛慎」討伐に向かった、場所は渡島(わたりしま)と書かれているが、(map:参照) それがどこであるかはさだかではない。 ・……粛慎討伐とヒグマの献上と「紀」にあり、ただ、ヒグマは本州にはおらず、北海道にしかいない。 ★ 蝦夷(えみし:関東以北、東北地方等に居住して大和朝廷に従わなかった勢力。 アイヌ人説もあるが、本州の縄文系の非農耕集団と考えられる。 後に「エビス」「エゾ」と変化した。)も同じ粛慎族であるツングース系の民族の説もある。(アイヌとDNA的に、もっとも近いのは琉球人との説もある) ・斉明天皇(659年)に、蝦夷の顔や体の異様なもの(入れ墨)を洛陽の皇帝に見せたと「紀」にあり。 ◎ 高句麗(こうくり:紀元前37年〜668年)は、中国東北部南部 から朝鮮北中部にあった国家であり、最終的には唐・新羅の遠征軍により滅ぼされた。 『魏書』や『三国史記』には、高句麗の始祖朱蒙も夫余の出身であり、衆を率いて夫余から東南に向かって逃れ、建国した話が載っている。 (10世紀に朝鮮半島を統一した王朝が国名を[高麗こうらい]とし、西洋語において朝鮮を表す、Korea(コリア)などの語源となった。) ・倭国では、高麗(こま)とも呼んでいた。 ◎馬韓(ばかん)=紀元前2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三韓の一つ。 馬韓人は定住民であり、集落に城郭は無く、五十余国が存在した。 ・『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民がおり、馬韓人はその東の地を割いて、 彼らに与え住まわせ辰韓人と名づけたという。 また、『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。 ・三世紀の頃、馬韓は半島西部に位置し、52カ国に分かれていた。言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。 辰韓や弁韓と比べると、凶悍でなかなか魏の支配におとなしく従わず、統治のむずかしい民族であった。 ・314年、帯方郡が滅亡すると、馬韓の伯済国が強大化して[百済]になったとする説もある。 ◎辰韓(しんかん)=紀元前2世紀末から4世紀にかけて、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。 帯方郡の南、日本海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。 ・もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。 その内の斯蘆(さろ)が後の[新羅]になった。 辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、との説。 ・(魏志東夷伝)』朝鮮では、国を割いてまで秦の亡民の建国を許している」と記している。 「秦韓」とも書かれ、秦からの遺民の子孫ともいわれる。 ・辰韓の12カ国は「辰王に属していて、辰韓はそれで一つの政治勢力だった。 辰王は新羅が台頭するまで馬韓人や倭人(?)などであった。 ◎弁韓(べんかん)=紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一つ。弁辰とも言う。 ・『三国志』魏書弁辰伝によると、辰韓と弁辰(弁韓)は、風俗や言語が似通っていたという。 ・三世紀には12カ国に分かれていて、弁韓という名は、その内の一国[後の金官国(駕洛国 からこく)]が、この地域の盟主となり、 それぞれの国家の連合をつくったことによる。→[加耶諸国 かやしょこく]。 大雑把にのちの「任那」の地域である。 ・辰韓と弁韓とは居住地が混在していたとされ、『三國志』弁辰伝によれば、言語は馬韓と異なり、 辰韓と弁辰(弁韓)は、風俗や言語が似通っていたという。 ・『後漢書』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていた。 辰韓や馬韓とは異なり、弁韓の名で西晋に朝貢した記録がなく、 ・[倭王武]の上表文にも弁韓という言葉はでてこない、弁韓はこの段階ではすでに「加羅」や「任那」に名前が変わっていたようで、 その後の所謂「加羅の滅亡・任那の滅亡」が弁韓の消滅ということになる。 *[倭王武]=『宋書』にみえる 5世紀後半の[倭王武]は、[雄略天皇」に比定(推定)されている。 *「任那」という呼び方は日本書紀の中にしか現れず、中国・朝鮮の記録には一切その名前は出現しない。 * 任那にあった[日本府 (別に宮家〈みやけ〉:屯倉〈みやけ〉とも呼びますが、これは、ヤマト王権の直轄地)]は、敏達天皇時代の日本書紀に 出てきますが、これも無かったと思われます。 (日本府の「府」は、太宰府と同じで、朝廷の重要機関と思われるが、単なる連絡事務所のような建物が一つあっただけではないかと言う説もある) ★【中大兄皇子の誤算】 唐を敵に回し惨敗を喫す。 [4世紀から続く朝鮮三国の動乱] [中大兄皇子]の補佐のもと、[斉明天皇]は飛鳥での土木事業や東北遠征に続き、外交政策でも重要な動きをみせた。 唐を敵に回して行った百済復興支援である。 |
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[6世紀初頭の東アジア情勢] 高句麗が勢力を拡大。 新羅は朝鮮半島南部に支配を拡げ、 加耶諸国(加羅 から)が滅亡する。 6世紀になると、南に活路を見出した百済が、倭から加耶諸国(加羅) 4県の施政権を譲り受けるなどして力を蓄えた。 そして551年には、475年に奪われた旧都・漢城(現・ソウル)を 高句麗から奪還するのだが、その翌年には、律令体制を整えて国力を ましていた新羅に漢城を横取りされてしまう。 朝鮮半島は三つ巴の戦乱期を迎えたのである。 この後、倭は権益を有していた加耶を新羅に滅ぼされ、朝鮮半島の足場 を失っている。 |
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[4世紀末〜5世紀初頭の東アジア情勢] 中国の支配力が衰え、朝鮮半島に強力な国家が成立した。 百済と倭の関係は4世紀後半に始まる。 4世紀中頃に高句麗が南下を開始すると、 建国まもない百済は、高句麗に対抗できる 同盟国を求めて倭に接近した。 5世紀に入っても高句麗の南下は続く。 |
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[7世紀中ごろの東アジア情勢] 唐・新羅連合軍によって百済が滅ぼされ、倭と連合軍が対立。 663年、白村江の戦いが勃発し、倭は大敗を喫した。 7世紀に入ると、一転して高句麗と百済が手を結んで新羅を圧迫し始る。 対する新羅は、618年に建国した唐に朝貢して支援を求めた。 高句麗・百済も遅れて唐に朝貢したものの、潜在的には唐の拡大政策を 警戒している。 655年、高句麗と百済が新羅を攻撃すると新羅の要請を受けた唐が高句麗に 侵攻したのである。 しかし、高句麗が頑強な抵抗をみせると、唐は矛先を変更し、 660年に百済を滅ぼした。 百済の遺臣たちは、国の再興を期し、 倭に滞在していた王子の余豊璋(よほうしょう)の帰還と支援を倭に依頼して きたのだ。 唐の脅威の払拭と朝鮮半島利権の復活を期した倭は、大軍の派遣を決め、 661年には[斉明天皇]自ら筑紫に出征。 同年に[斉明天皇]が崩御すると、[中大兄皇子]が戦争の指揮を 執った。 663年には、[中大兄皇子]が、2万7000の軍勢を渡海させたが、 白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗を喫するのであった。 |
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【唐軍による、倭国侵入 防護対策】 |
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【唐の報復に戦々恐々、国防強化に奔走する政府】 「白村江の戦い」の大敗により、倭は唐・新羅連合軍の侵攻に備えなければならなくなった。 敗戦の翌664年には、対馬・壱岐・九州北部に防人(さきもり)を配備したほか、博多湾沿岸にあった「筑紫太宰府」をより内陸に移転させ、その北に 「水城(みずき)」や「大野城」を、南には「基肄城(きいじょう)」を築き守りを固めた。 これらの城は、亡命百済人の知識で築かれたため「朝鮮式山城」とよばれ、唐軍が侵入する際のルートと想定される瀬戸内海沿岸部の要地にも数多く 築かれた。 さらに[中大兄皇子]は、667年に「飛鳥岡本宮」から琵琶湖の西南に築いた「近江大津宮」に遷都してる。 これも、瀬戸内海から離れ、東国への避難の便なども考慮した防衛上の理由からだった。 [水城]は、博多湾方面からの攻撃から「大宰府」を守るための防御線となる直線状の堀と土塁である。(堀は幅60 m、深さ4 mで水を貯えていた。) 水城の用途については、これが単なる城壁ではなく、いざという時は御笠川をせき止め、外側の空堀に敵兵が入ってきた所へ水を一気に放流して、 これを押し流すためのものだとする説がある。 |
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【朝鮮式古代山城】 【神籠石式山城】 |
【朝鮮式古代山城(こだいさんじょう)】 古代山城は、周囲を俯瞰(ふかん:見下ろせる)できる、標高2〜300mの山の峰や 斜面に石塁または、土塁を築きめぐらした山城をいい、 特に朝鮮の三国時代に発達したことからこの名がある。 日本書紀の記事に、長門城、大野城、椽城(基肄城)などを「亡命してきた百済の 貴族が築城の指導に当たった」とあることから、これらを含め築城年代・構造など 共通性が見られるものを「古代山城」と称する。 礎石建物跡・城門・石垣・水門・土塁・見張台・狼煙台・兵舎・米倉などを備え たものなどもあり、 これらは自然の山を利用していることや、多くの石を積んで 石垣を築造しているなど、その形態や構成が朝鮮半島で見られる山城に似ている ことから、石垣を築造して守りを固める方法は、古代の山城独特のものでした。 【神籠石式山城(こうごいししきやましろ)】 九州から瀬戸内地方にみられる、石垣で区画した列石遺跡を呼ぶ。 神籠石が何時頃作られたかも判明しておらず。 「神が籠(こも)る 石」として、 列石で囲まれた内部を神聖な祭祀場所と考えられていた。 「神籠石」は朝鮮式山城には見られない石列で、もとは砦のようなものを形成して いたとも考えられる。 しかし、石を土台にして土塁を築き、その前に柵が立てられていた跡が発見され ている所もあり、山城を形成していたと考えられる。 (古代渡来人が、倭国に亡命した時に築造したとの説もある) |
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★【古代の山城を大別すると】 『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』などの文献に記載されているものを「朝鮮式山城」と呼び、文献にないものを「神籠石(こうごいし)系山城」と 呼んでいます。 [神籠石の特徴] ・ 幾つかの谷を取り込み、山腹を取り囲む場所に立地する。 |
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