【日本書紀ー要約】 [下巻:その1]   {*(アスタ記号) または( )内は、個人解釈 〕    〈池田 成臣〉


* 前回までは、[古事記]を(要約)して説明しました、次は[日本書紀]の(要約)を 私考的に まとめました。 
 [日本書紀]の 前巻から中巻は、[古事記]と、大体において同じような神話物語の記述です。 
 [古事記]の終巻の、 第24代 仁賢天皇〜第33代 推古天皇に、関しては、簡単な記述があるのみなので、
 [日本書紀 巻 十六 武烈天皇]から、[日本書紀]の(要約)を説明いたします。

※ [日本書紀]=720年完成:天武天皇の命により、舎人親王
(とねり しんのう が編纂する。朝廷の実力者であった右大臣・藤原不比等も携わる、等が撰。 
    内容は神代から、41代 持統天皇(〜697年)の女帝までの[皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという、極めて政治的な色彩の濃厚なもの
    である]。
※ [古事記]と[日本書紀]は、ともに 第40代 天武天皇の発意によって生まれた。
  [記]=古
(いにしえ)の事を記した書物 :内容は神話的な物語がつよい。
  [紀]=天皇の〈帝紀など〉を、年代順に書かれた書物 :内容は、帝王の事、臣下の事などの歴史。

※ [古事記]と[日本書紀]はどう違うのか。 わずか8年くらいのうちに、同じようなものが何故2つも作られたのか。 両者の違いを具体的に示す
     ために、結論を簡潔にまとめると。
  (1) 両史書は神話の世界観が全く異なり、編集目的も全く異なっている。 本来、両史書は全く別のものである。
  (2)[古事記]は、語り部によって伝えられた「日嗣ぎ:天皇の位を受け継ぐ」の伝承を忠実に、ほぼそのまま記述したもので、要は、大王家が
      歴代統治してゆくことの正当性を述べようとしたものである。  
  (3)[日本書紀]は、白村江の大敗、2千人の唐軍の進駐と云う状況下、失われた我が国のアイデンティティを再構築するために、中国風の史書を
      作ることを目的としたものであり、原資料として多くのものを用いているが、王権にとって都合の悪いことを隠蔽すべく、
      意図的な取捨
(とりすて)・改竄(かいざん)が、随所に行われている。
 
   
目次:第25代 武烈(ぶれつ) 天皇 (その1)
      :第26代 継体
(けいたい)天皇
      :第27代 安閑
(あんかん)天皇
      :第28代 宣化
(せんか) 天皇
      :第29代 欽明
(きんめい)天皇
      :第30代 敏達
(びだつ) 天皇
      :第31代 用明
(ようめい)天皇 (その2)
      :第32代 崇峻
(すしゅん)天皇
      :第33代 推古
(すいこ) 天皇
            聖徳太子
      :第34代 舒明
(じょめい)天皇
      :第35代 皇極
(こうぎょく)天皇 (その3)
       
第36代 孝徳(こうとく)天皇
      :第37代 斉明
(さいめい)天皇
      :第38代 天智
(てんち) 天皇
            東アジア情勢
    (その4)
       
第39代 弘文(こうぶん)天皇 (その5)
       
第40代 天武(てんむ) 天皇
      :第41代 持統
(じとう) 天皇  【日本書紀:完】
  
 
【第25代 武烈(ぶれつ)天皇】 この天皇までを上古天皇と呼び、西暦不明  

 *『日本書紀』には「頻
(しき)りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあるように、非常に悪劣なる天皇として描かれている。  
  その一方で、厳格な裁判を行ったとするなど相矛盾する記事が併存する。 
   この相違の背景には、血縁関係が薄い次代の、継体天皇の即位を正当化する意図が[書紀]側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたとする説が
   一般的である。
  『古事記』には、暴君としての記述はなく、太子がいなかったことと 天皇の崩後に、後の継体天皇が皇位継承者として招かれたことしか
   記述されていない。
 
 『日本書紀』は、武烈天皇の異常な行為を記している。 その部分を以下に列挙する。
  ・ 孕婦
(はら‐め)の腹を割きて其の胎(たい)を観す。  
  ・ 人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
  ・ 人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
  ・ 人を塘(
とう:筒)の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
  ・ 人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
  ・ 女をひたはだかにして平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝(
つるみ:交尾)せしむ。
  ・ 女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

 * 天皇には子がなかった。 後嗣なく崩御したのは、『扶桑略記』『水鏡』に、18歳とあるが不明な点が多い。 (在位は 8年間)
 *『古事記』と『日本書紀』とでは、武烈天皇の伝承にかなりの食い違いが見られており、武烈天皇自身が実在したかどうかについても疑問が残る。
  
 
【第26代 継体(けいたい)天皇】 誕生:450年? 在位=507年?〜531年? (古墳時代後期) 〈相関図参照〉
506年:武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連(おおむらじ)大伴金村と物部麁鹿火(もののべ の あらかひ饒速日ニギハヤヒ命
 14世孫
)らが協議した。   まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢(ばってき)したが、
 迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。
  そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王(
をほどのおおきみ:26 継体天皇:右の系譜参照)に、お迎えを出した。
 男大迹王は心の中で疑いを抱き、使いを出し、大連・大臣
(おおおみ)らの本意を確かめて即位の決心をした。
 翌年58歳にして即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)を皇后とした。
 (継体天皇 以後の天皇家は、武烈天皇系ではなく、継体天皇系の血を引いています)
* それまでの天皇家からみて疎遠だったからでしょうか、 継体天皇は即位後20年以上も大和に入ることができませんでした。

526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。
 しかし新羅と結んだ磐井
(九州北部の豪族)によって九州北部で[磐井の乱]が勃発して、 その平定に苦心している。
 (磐井の乱については諸説ある)。
*[磐井の乱]=皇室
(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと。
  また、継体
(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している。

527年:朝鮮半島南部へ出兵しようとした、ヤマト王権軍は、6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑
(とくことん)
 回復するため、任那へ向かって出発した。 この計画を知った新羅は、筑紫の有力者であった筑紫君磐井
(北部九州の豪族)
 贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。
  磐井は挙兵し、火の国
(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、 倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を
 封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、ヤマト王権軍の進軍をはばんで交戦した。
 物部麁鹿火によって鎮圧された、反乱または王権間の戦争 ?。
*この反乱・戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る主導権争いがあったと見られている。 
 筑紫の磐井はかねてより反逆の企てを抱いていたものの実行に移せないでいたが、それを知った新羅が磐井へ賄賂を送り
 ヤマト王権に対する反逆を勧めた」としている。
*継体は、従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」とする説。 いわゆる万世一系は否定され、
 出自不明の第26代・継体天皇からヤマト王権の新たな大王家が始まる。
*継体は、近江の皇別氏族(
皇族が臣籍降下して誕生した氏族)息長氏(おきながうじ)の出身と見なし、ヤマト王権を武力制圧して王位
 を簒奪
(さんだつ)したとする説。
*近年では、5世紀のヤマト王権大王の地位は特定の血に固定されなかった
(即ち王朝ではなかった)とする説もある。 
 継体天皇前のヤマト王権は各地域国家の連合であり、大王はその時々の地域国家の王から選ばれ、祖先が誰かは分からないと
 いう説。
*『記・紀』編纂時の王権は、継体天皇の皇后に、大王家の血統を受け継いだ、手白香皇女(
たしらかのひめみこ:仁賢天皇の皇女)を
  登場させ、欽明天皇を産み、皇統の血縁を繋ぐ、万世一系の正統を守った。
*戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。 それ以前のヤマト王権との血縁関係に
 ついては現在も議論が続いている。
* 継体天皇は、親百済政策をとり、秦氏を中心とした渡来人を重んじた。
* 崩御:81歳  陵墓:大田茶臼山古墳
(前方後円墳・墳丘長190m:大阪府高槻市:map)から、兵馬俑の如き埴輪群が発見された。

福井市にある継体天皇像
  
 
【第27代 安閑(あんかん)天皇】 誕生:466年? 在位=531年?〜535年? (古墳時代後期) 〈相関図参照〉
 
  66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。 
 陵墓:高屋築山古墳
(前方後円墳・全長122m:大阪府羽曳野市:map)。 皇子女はなし。

*『日本書紀』に引く「百済本記」によれば、531年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝があるという。 このことから、継体天皇の死後、
 安閑天皇・宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立し、二朝間で内乱があったのではないかとする説もある
 「辛亥の変」
(しんがいのへん))=継体・欽明朝の内乱は、仮説上の内乱。 当時の歴史を記録した文献資料に、おいて不自然な点が存在することから、
 6世紀前半の継体天皇の崩御とその後の皇位継承を巡り争いが発生したという仮定に基づく。
 継体天皇の没後に、尾張豪族の尾張目子媛
(おわりの めのこひめ)を母に持つ[安閑−宣化系]と、仁賢天皇の皇女である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を母に
 持つ[欽明系]に、大和朝廷
(ヤマト王権)が、分裂したとする「二朝並立」の考えを示した。(古事記相関図参照
 『日本書紀』はこの事実を隠すためにあたかも異母兄弟間で年齢順に即位したように記述を行ったというのである。

*[欽明天皇]の背後に天皇と婚姻関係があった「蘇我氏」がおり、[安閑・宣化天皇]の背後にはこの時期に衰退した「大伴氏
」がいたとする説。 
* 背後関係を反対に捉える説をはじめ、継体天皇とその後継者を支持する地方豪族と前皇統の血をひく欽明天皇を担いで巻き返しを図る、ヤマト豪族
  との対立とみる説。
臣姓を持つ豪族と連姓を持つ豪族の間の対立とみる説などがある。
  
 
【第28代 宣化(せんか)天皇】 誕生:467年? 在位=535年?〜539年? (古墳時代後期) 〈相関図参照〉

 先の安閑天皇が崩御したとき、その子供がなかったために同母弟の宣化天皇が満69歳にして即位した。

537年:大伴金村に命じて新羅に攻められている任那
(みなま:にんな)に援軍を送った。 (任那 562年滅ぶ)
蘇我稲目大臣
(おおおみ)となり、子の蘇我馬子(墓は石舞台古墳map)以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる。
*高齢での即位と、在位が3年余りと短いため、あまり主立った事績は無い。 また、安閑・宣化朝は父継体天皇死後直ぐに即位した弟の欽明天皇と
 並立していたとの説
(辛亥の変仮説:上記「安閑天皇」に記載)もあるが、いずれにせよ、宣化天皇の血統も石姫皇女(宣化天皇の皇女)を通して現在まで
 受け継がれる事となる。  人柄は清らかで、君子らしい顔立ちをしていたと言われている。
 陵墓:鳥屋ミサンザイ古墳
(前方後円墳・全長122m:奈良県橿原市鳥屋町:map)。
  
 
【第29代 欽明(きんめい)天皇】 誕生:509年? 在位=539年?〜571年? (古墳時代後期) 〈相関図参照〉
 
 
欽明天皇は継体天皇の嫡子(ひつぎのみこ)である。 母を手白香(タシラカ:24代 仁賢天皇の皇女:古事記相関図参照皇后という。
(継体天皇は、仁賢天皇の手白香皇女を皇后に迎え入れ、男系ではないが、直系という政略的正統性が維持された経緯があった。 
  欽明は傍系が解消され現皇統へと続く祖となった。)
 父の継体天皇は、大変 この皇子を可愛がって常にそばに置かれた。 まだ 幼少のおり、夢に人が現れ「天皇が、秦大津父
(はたのおおつち)という者を、
 寵愛されれば、壮年になって必ず天下を治められるでしょう」と
、言った。 早速 探して、山城国に秦大津父という人物がいた、皇子は喜んで秦大津父
 に「何か変わった事はなかったか」と訊いた。 「伊勢に商いに行った時、山中で二匹の狼が咬み合って、血まみれになっていたので、あなたがたは、
 怖れ多い神であるのに、と 咬み合うのを 押し止め、血で濡れた毛を拭き、助けてやりました」 と、お答えした。 
 天皇は「きっと この報いだろう」と言われ、秦大津父を召され、手厚く遇され、皇位を継いだ時に 大蔵の司に任じられた。 
(『紀』の編纂で、渡来人の秦氏は、朝廷の重要ポストに居たと思われる)
 
539年:兄 宣化天皇が崩御。 欽明天皇は、群臣(
まえつきみたち:多くの臣下)に「自分は年若く知識も浅くて、政事(まつりごと)に通じない。安閑天皇の皇后に
 政務をお願いするように」と言われたが、皇后は恐れかしこまって辞退する。  欽明天皇は即位された。 年はまだ若干
(そこばく)であった。(30歳)
 大伴金村と物部尾輿
(もののべの おこし)大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目宿禰を大臣(おおおみ)とする。
 (直後の540年 大伴金村は失脚する:これにより物部氏蘇我氏の二極体制ができあがるが、特に欽明天皇とは蘇我稲目の娘を妃とし、
  
蘇我氏の全盛期が築かれる。) 
* 大伴金村の失脚=継体天皇期に、百済から請われ、任那4県を賄賂
(わいろ)と引き換えに割譲して、救援の軍を たやすく送った責任をとる。
 
540年: 先代 宣化天皇の皇女〔石姫皇女
(いしひめのひめみこ):生没年不詳〕を皇后として〔敏達びたつ天皇〕を生みむ。〈相関図参照〉

 
蝦夷(えみし)隼人が仲間を伴って帰順してきた。 
 ・都を磯城
(しき)島金刺宮に遷(うつ)した。 
 ・高麗
こま:高句麗こうくり)・百済新羅任那が貢献する。
 ・秦人
(はたひと)ら、帰化した人々を集め、各地に配置して戸籍に入れた。 秦人の戸数は、全部で七千五十三戸であった。

541年:蘇我稲目の娘〔堅塩媛
きたしひめ〕を后として、〔後の用命天皇〕・〔後の推古天皇〕を生み。
 〔堅塩媛〕の妹の〔小姉君
おあねのきみ〕を后として、〔後の崇峻すしゅん天皇〕を生んだ。〈相関図参照〉
・百済に任那(みなま:にんな)復興を命ずるが、戦況は百済側に不利であった。(532年に任那が、新羅に征服されていた)
*欽明天皇の時代、最大の政治課題は朝鮮半島をめぐる国際情勢にあった。 国力を増強させ、伽耶諸国
かや:広義の任那)に侵入しようとする新羅に
 対し、同じく伽耶地域への勢力拡大をめざしていた百済は、倭国の支援を得て新羅の侵入を阻止しようとした。   
 これが、いわゆる「任那日本府」における任那復興会議(3年ほど続く)である。

544年:越の国からの報告に、「佐渡島の崎に、粛慎
(みしはせ)の人が一艘の船できて停泊し、春夏の間、漁をしていました。 
 その島の人は、あれは人間ではない鬼であるといって、近づきませんでした。 島の人が、椎の実を熱い灰で煎ろうとしました。 
 すると、その皮が二人の人間になって、火の上に飛び上がって、いつまでも戦っていました。 
 ある人がこれを占って、『この里の人は、きっと鬼に かどわかされるだろう』 と、いった。 間もなく その言葉のように、鬼に掠められました。
  粛慎
(みしはせ)の人は、別の浦に移りました。浦の神は、威力が激しいので、里人は近づかない所です。
 水に飢えて そこの水を飲み、粛慎の人は、半分ほど死んでしまい、骨が岩穴に積み重なっていました。
「里人は粛慎の隈
(くま)と呼んでいます。」とあった。
545年:百済が天皇のために、丈六の仏像を送る。 (百済と朝廷は、相互に使者を遣わせて任那復興を計る)
545〜550年:百済に援軍を送ったりする。 高麗
(こま)は大いに乱れ、戦死者の計は二千余人。
551年:百済の聖明王は、百済・新羅・任那の兵を率い高麗を討ち、平壌と漢城(
ソウル:漢陽:1394年に李氏朝鮮が遷都する)を回復。
552年:百済から仏像と経文が伝来する。 天皇は[崇仏派]の蘇我稲目に試しに礼拝させると。 その後、国に疫病がはやり、それが長く続いたので、
 [排仏派]の物部尾興・中臣連鎌子
(後の中臣鎌子:改名して中臣鎌足とは別人)は、天皇に「仏を捨てるよう」奏上して。 仏像を難波の堀江に? 流し捨てた。
 すると 天は風もないのに にわかに大殿が火災が焼けた。
・百済が、高麗・新羅連合と戦い、平壌と漢城を放棄。

553年:河内国から「泉郡
(いずみごおり)の茅渟(ちぬ)の海中から、仏教の楽の音がします。 響きは雷のようで、日輪のように照り輝いています」と知らせて
 きた。 天皇は臣を遣わし、海の中に照り輝く樟木
(くすのき)を見つけ、天皇にたてまつった。 画工(えのたくみ)に命じ、仏像二体を造らせた。
これが いま吉野寺(
金峯山寺:奈良県吉野郡)に光を放っている、樟の像である。

554年:百済が救援を乞う。兵士千人を送り、高麗新羅 合同軍と戦い、百済を救援。 聖明王、新羅に殺される。
555〜561年:百済・新羅の話と、あっちこっちに、屯倉(
みやけ:朝廷の管轄地)を置いた。
562年:新羅が任那の宮家
(屯倉)を討ち滅ぼす。 任那全土が新羅に奪われ、日本府は消滅したとされる。
・大将軍と副将を遣わせて、新羅が任那を攻めた時の様子を問責しょうとした。 武将を百済に遣わし、戦
(いくさ)の計画を打ち合わさせた。 
 ところが 武将は機密の封書を途中で落とした。  
  それで 新羅は、戦の計画を知り、急に大軍を動員し、わざと敗北を重ね降伏したいと乞うた。 大将軍は、勝って軍を率い百済の軍営に入った。 
 副将は、ひとり前進してよく戦い、向かうところ敵なしの有様であった。 
 新羅は白旗を上げ、武器を捨てて降伏してきた。 副将は軍事のことをよく知らず、同じように白旗を上げて進んだ。 
 すると 新羅の闘将は、「副将はいま降伏した」といって、軍を進め鋭く撃破した。 
 前鋒の被害がたいへん多かった。 倭の武将は、もはや救い難いことを知って、軍を捨てて逃げた。
  新羅の闘将は、手に矛を持って追いかけ、城の堀に追いつめるが、取り逃がし、悔しがる。
 副将は、軍を退却させ、野中に陣を敷いた。 このとき、兵卒たちは蔑意を表し、従う気持ちが薄れていた。

  新羅の闘将は、陣中を襲い副将と供に婦女
(たおやめ)を生捕りにした。 こうなると親子夫婦でも、かばい合うゆとりもなくなった。 
 闘将は、副将に「自分の命と婦女と、どちらを惜しむか」と言った。 副将は「何で一人の婦を惜しんで禍を取ろうか。何といっても命に過ぎるものは
 ない」と言った。 闘将の妾とすること許した。闘将は人目を、はばからず その女を犯した。
  婦は後に帰ってきた。 副将は、そばに行き話かけようとした。 婦人は恥じ恨んで応せず言った。
「あなたは軽々しくも妾
(わたし)を売り渡しました。 いま何の面目あって、また逢おうとするのですか」と。ついに従わなかった。

  同じときに捕虜にされた、別の武将は、人となりが猛烈で最後まで降服しなかった。 新羅の闘将は、刀を抜いて斬ろうとした。 
 無理に袴を脱がせて、尻を丸出しにし、日本の方へ向けさせて大声で「日本の大将、わが尻を喰らえ」と言わせようとした。 すると叫んで言った。
「新羅の王、わが尻を喰らえ」と。 責めさいなまれても前の如く叫んだ。 そして殺された。 この武将の言葉を奪えぬこと、このようであった。

・天皇は、別の大将軍を遣わし、数万の兵をもって、高麗を討たせた。
 大将軍は、百済の計を用いて高麗を撃破した、その王は垣を越えて脱出した。
 大将軍は、勝ちに乗じて宮中に入り、珍宝・七織帳
(ななえのおりもののとばり)を手にして帰り、 天皇にたてまつった。

566年:高麗人が筑紫にやってきて、山背国(
やましろのくに:山城国)に住まわせた。 高麗人の先祖である。   
569年:詔して「田部(
たべ:土地を耕作する民集団)が設けられてから久しいが、年齢が十歳になっても戸籍に漏れているため、課税を免れる者が多いので
    籍をあらため調べ確定させよ」といわれた。

571年:天皇崩御:御年若干(62歳)    御陵:桧隈坂合陵
[平田梅山古墳(前方後円墳・全長140m):明日香村:map

継体の没年にあたる、531年に欽明天皇が即位したが、彼の即位を認めなかった勢力が、3年後の534年安閑を擁立、彼は1年で崩御したが、
  続いて宣化を擁立する等、欽明朝と安閑・宣化朝は一時並立し、宣化の崩御により解消されたとの説。
 『百済本記の引用』、天皇および太子、皇子が同時に死んだという記述等を根拠に、それぞれ実際には即位していない安閑・宣化は暗殺・軟禁された説。
大伴金村は任那4県を賄賂と引き換えに割譲したことではなく、彼ら庶兄を推したために後継者争いに敗れて失脚した説。 
* 任那復興会議=かつて日本(倭国)の指導性が強調され、倭国の南部朝鮮支配の根拠として挙げられてきたが、最近では百済の指導のもとに結集した
  伽耶諸国の会議に倭臣が参加したとする解釈が出され、日本府についても倭国の機関でなく伽耶諸国が倭国と交渉するために置いた機関とする説もある
  しかし、新羅の勢いは止められず、欽明は死に臨んで新羅を討って任那を復興するよう遺詔した。
  百済の聖明王の仏教伝達,五経博士や技術者派遣は支援要請に対する見返りという性格が強い。
  このとき 渡来した人々の与えた影響は大きい。吉備
(岡山県)に設置された白猪屯倉(しらいのみやけ)経営にかかわり、丁籍(戸籍)を作った、
  百済人胆津
(戸籍作成によって税収の実績を挙げ、白猪史の姓を賜っている)は、その一例である。
*「任那」という呼び方は日本書紀の中にしか現れず、中国・朝鮮の記録には一切その名前は出現しない。
* 最近では、「任那」を大和朝廷が支配していたというのは、日本書紀がねつ造した記録ではないかという声が、日韓双方から出始めている。 
  韓国における発掘調査が進むにつれ、伽耶地方
(今の金海市、釜山市)からは、そのような遺稿の跡などが全く出現しそうに無いことや、韓国側の記録も
  無く、日本の古墳から出土する多くの遺物の源流が伽耶地方にあった事が判明している。
  もし 「任那府」があったとしても、連絡事務所のような建物が一つあっただけではないかと言う意見もある。
* 日本書紀によれば、百済から仏教の経典と仏像が送られている。欽明は、群臣に祀るべきかどうかを問うた。
 「蘇我稲目宿禰」は祀るべきだといい「物部 大連
(おおむらじ)尾興(おこし)」と「中臣(むらじ)鎌子」は反対する。
  欽明は、蘇我稲目宿禰に仏像を預けて礼拝させる。 後に病が、はびこり物部大連尾興の進言により仏像は、
  難波の堀江に捨てられ、仏像を祭っていた寺は焼かれたという。
* 中臣連鎌子
(生没年不詳)≠[飛鳥時代の、中臣鎌子→(改名)中臣鎌足→(改名)藤原鎌足]とは、別人。
  中臣氏の家業は、鹿島神宮の祭祀者で、後に内臣(
うちおみ大臣おおおみに次ぐ役職)になった。
  

【第30代 敏達(びだつ)天皇】 誕生:538年? 在位=572年?〜585年? (古墳時代後期) 〈相関図参照〉

  
欽明天皇の第二子である。母は、第28代 宣化天皇の姫[石姫皇女いしひめのひめみこ:生没年不詳]。(同母の第一子は、若死) 
 34歳で即位 :訳語田幸玉宮
(桜井市:map)。
 物部守屋を大連
おおむらじ)に、蘇我馬子(墓は石舞台古墳map)を大臣(おおおみ)とする。
 (敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部
大連守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我大臣馬子が対立するという構図になっていた。 
  これにより物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。)

572年:前年に高麗
こま:高句麗こうくり)の使者が越の海岸に漂着した。 
 その高麗の国書を多くの史
(ふびと)に解読させたが、三日かかっても誰も読むことができなかったが、高麗の船史(ふねのふびと)が読み解いた。 
 天皇は「お前たちの習業は、まだ足らない」と、多くの史
(ふびと)に言う。
 また高麗の文書は、カラスの羽に書いてあったので、字は黒い羽に紛れて、誰も読めなかったが、船史は炊飯の湯気で蒸して、柔らかい絹布に羽を押し
 付け、その字を写しとった。
575年:新羅が使いを遣わして調(
みつぎ:献上品)をたてまつった。
576年:後の推古天皇を皇后とした。 (二男五女が生まれた)
577〜580年:百済・新羅が調
(みつぎ)と仏像を献上した。
581年:蝦夷
(えみし)数千が辺境を犯し荒らした。 その首領を召して「お前たち蝦夷は、景行天皇の御代に討伐され、殺すべきものは殺し、許せるものは
 許された、その前例に従って首領は殺そうと思う」と言われた。
 首領は怖れかしこみ「私ども蝦夷は、子々孫々に至まで帝にお仕えいたします」

584年:
[蘇我大臣馬子の崇仏]百済から弥勒菩薩の石像一体と仏像一体をもたらした。 
 蘇我
大臣馬子は、仏像二体を請い受け、仏殿を造った。 仏法の広まりは、ここから始まった。
585年:蘇我
大臣馬子が病気になった。卜師は「父(蘇我稲目)の時に祀った仏に祟られています」。この時、国内に疫病がはやり人民の死ぬ者が多かった。
[物部大連守屋の廃仏]物部大連守屋は「疫病が流行したのは蘇我大臣馬子の仏法を広めたことによるもの」と、天皇に奏上し、仏像・仏殿を焼き、
 難波の堀江に捨てさせた。
 まもなく、天皇と物部
大連守屋が疱瘡(ほうそう)に冒された。 国内で疱瘡で死ぬものが国に満ちた。「これは仏像を焼いた罪だろう」。 
 そして 天皇は蘇我
大臣馬子に「お前一人で仏法を行いなさい、他の人にさせてはならぬ」。 蘇我大臣馬子は寺院を造り、仏像を迎え供養した。

・天皇が崩御した。(47歳:陵
(みさざき)は、河内磯長中尾陵:前方後円墳:河内郡太子町(map)に治定〈決定:落ち着く〉
 蘇我
大臣馬子は、刀を佩(お)びて、死者を慕う誄(しのびごと:生前の功徳をたたえて哀悼の意を述べる言葉)をのべた。
 物部
大連守屋は、それを、あざ笑って「猟箭(ししゃ:けものを射る大きな矢)で射られた雀のようだ」と、小柄な身に大きな大刀を帯びた不格好な
 蘇我
大臣馬子を笑う。
  次に物部
大連守屋が、手足を震わせて誄を読んだ。 蘇我大臣馬子は笑って「鈴をつけたら面白い」と言った。 
 ここから二人の臣(物部氏蘇我氏)は、だんだん怨みを抱き合うようになった。
 
 
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